第6話 素敵だったよ。


 教室の窓の外に、遠く二上山にじょうざんが見える。その横にやや高めの山々が連なる。でも、僕にわかるのは、二上山だけで、他の山の名前まではわからない。二上山の近くにあるはずの金剛山も葛城山も、子どもの頃、校外学習とかで登ったけれど、いまいち、どれがどれなのか、位置関係はよくわからない。

 とにかく、二上山を見ると、僕は、気持ちがホッと落ち着く。だから、心配事や気になることがあるとき、ついつい僕は、二上山に目をやってしまう。


「……先生。大畑先生」

 クラス委員の生徒の声がして、ハッとする。

 そうだ。今は、帰りのホームルームの時間だった。二上山から教室に目を戻す。

「あ、ごめんごめん。ぼ~っとしてたな」

「もう全部すんだので、あとは、先生からの一言です」

「お。ありがとう」


 僕は、窓辺から、教卓のところへ移動して、ホームルームの司会をしてくれていたクラス委員と交代する。

「え~と。そやな……今日は特に連絡とか、言うことはないな。今から部活行く人は、けがせんように楽しんでな。帰る人は気ぃつけて帰り。で、明日も、とりあえず、みんな顔見せてや」

「せんせ~、言うこといっつも同じやな」「たまにはちゃうこと言うてや~」「なんか気ぃぬけるわ~」などなど、笑いながら声が上がり、僕も笑いながら返す。

「そやけど、なんもないのに長々話されても困るやろ? 要るときは、君らがイヤや言うてもなんぼでもしゃべるから。なんもないときは、はよ終わろ」

 クラス委員の号令で、起立礼して、サヨナラの挨拶をしたあと、生徒たちは、それぞれ教室から飛び出して行く。


 僕は、カーテンを閉めて、戸締まりをする。部活で使う教室以外は、放課後すぐにカギを閉めることになっているのだ。

 よくドラマなんかで、夜遅く校舎に忍び込み、カギのかかっていない教室に侵入するシーンがあるけど、少なくとも、うちの学校ではそんなことはできない。

 すべての教室のカギは、職員室で集中管理されるので、まずはそこでカギを手に入れないと、どこにも入れない。屋上などは、教師の僕ですらカギの場所を知らないのだ。教頭先生が管理しているからだ。


 教室のカギをかけて廊下に出ると、広い渡り廊下のあちこちに置かれた丸テーブルのまわりで、ノートや問題集を広げて、友達と教え合ったり、おしゃべりをしている生徒たちがいる。

「あ、先生、ちょうどええところに来た! ここここ。ここ教えて」

 うちのクラスの女子と、隣のクラスの女子数人が、手招きする。

「ん? 何? ……数学? 英語ちゃうん?」

「英語ちゃう。数学」

「どうやろな~。解けるかなあ」

「もう。先生、なに情けないこと、言うてるん。先生かて、昔中学生やってたことあるんやろ。解けるって。大丈夫大丈夫」

 励まされてしまった。

「そりゃまあねえ……」


 僕の担当は、英語だ。数学も嫌いではないけれど、どんな問題でもまかせとけ、と言えるほどではない。バイトで、家庭教師や塾講師をやってた頃には、英数理、3教科担当してはいたけれど。

 

 幸い、彼女たちが質問してきた問題は、そんなにクセのある問題でもなく、普通に解いて説明をしたら、彼女たちも、わかった~と納得の声を上げてくれたので、ひとまず、やれやれ、で。


「じゃあ、もう部活いくから。あとは自分らでがんばって」

「うん。せんせ~ありがとう。いってらっしゃ~い」

「おう。……なあ、英語も勉強してや」

「わかった~」

 ほんまにわかってるんだかどうだか。のんきな声に送られて、僕は職員室に向かう。


 僕の勤めている学校は、比較的、というか、かなり平和な学校だ。別の中学に勤める友人の話を聞くと、部活や事務仕事で、休日出勤をすることがあるのは同じでも、そもそも毎日の放課後がうちと違うらしい。

 友人は、いつも夕方の電話にはヒヤヒヤドキドキすると言う。

「まあ、いろいろあるわ。通学路にある家、片っ端からピンポンダッシュしたとか、カラースプレーで落書きしたとか、ボールぶつけてガラス割ったとか、そりゃもういろいろ。公園でたまってタバコ吸うてるとかももちろんあるけどな。そんな苦情の電話が、しょっちゅうかかってくるねん」

「そうなんや……」

「この間なんか、壁に生卵ぶつけられたって苦情来て、オレら教師数人で、モップもって、バケツに水も汲んでいって、必死で、卵洗い流したで。卵って、時間経つとほんま取れへんのな。大変やったで。ほんで、めっちゃ謝って許してもらって。もちろん、あとで、本人たちも親と一緒に謝罪に行ったけどな」

 ほんま、しょうもないことしよる。そいつは、ため息をつきながら苦笑いしていた。


 僕は、自分の学校では、まだそんなことをした経験はない。もちろん、だからといって、何もないわけじゃない。学校には、いろんな生徒がいる。それは一般社会と同じだ。世の中にいろんな人がいるように、学校にも、いる。当たり前だ。学校にいるこの子たちが大人になって、社会の一員になるのだから。

 

 できるだけ、彼らの毎日が温かで心地よいものであれば、と願うけれど。果たして、今のところ僕に何ができるのか、正直わからないでいる。だからまずは、授業を一生懸命やろう、わからないで困ったまま教室に座っている子がいないように、目を配ろう。そう思っている。めちゃくちゃ当たり前のことやけど。


 職員室に、出席簿を戻してから、体育館の2階にある、卓球場をのぞきに行く。部員はもう練習を始めていて、特に、今のところ問題はなさそうだ。よかった。ホッとする。ケガはいつ何時でも起こりうる。だから、いつも無事でいてくれることを願っている。部活の出席簿を確認すると、全員揃っていて、それも少し嬉しい。


 5時を過ぎ、無事今日の練習メニューをこなして、全員が気持ちよく挨拶して帰って行った。やれやれ。これで、本日の仕事の3分の2程度は終了だ。

 でも、明日に備えて大事なのはここからだ。

 

 明日の授業の準備をしに、英語科準備室に行く。ドアを開くと、英語科の他の教師の姿はない。

 僕のデスクの上にちんまりと座っていたタヌキのぬいぐるみが、僕を見て立ち上がった。そして、

「ごろちゃん!」

 小さな声で言った。

「みかん。大丈夫やったか?」

「うん。ばっちり。誰にも気づかれてないよ」

「そうか。よかった」

 実は、今日、僕はみかんを連れて出勤したのだった。



「ずっと、1人で家におるのイヤや。淋しいもん。みかんも、行く」

 今朝、出勤しようとする僕の脚に、タヌキがへばりついて言ったのだ。

「あのな。仕事に、しゃべるタヌキのぬいぐるみ連れてくわけにいかへんで」

「でも、いっつも帰ってくるの遅いもん。さみしいもん」

「仕事やから、しゃあないやろ」

「しゃべるのがあかんのやったら、黙っとくから」

「え~」

「大丈夫って。絶対黙っとくし」

「う~ん」

「ちょっとだけ小さくなるから」

 そういうと、みかんは、二回りほど小さいサイズになって、僕のリュックの中にもぐりこんだ。リュックから、ちょこんと顔を出す。

「ほら、ね」

「う~ん」

「もう。ごろちゃん、遅刻するよ。さ、早く行こ」

 時計とみかんの顔を見比べながら、僕はしぶしぶ決断する。確かに、このところ、帰宅が遅くて、ろくにかまってやれなかった。

「……しゃあないなぁ。みかん、その姿で絶対しゃべったり動き回ったりするなよ」

 一応、クギをさす。

「だあいじょうぶって」

 リュックのてっぺんから、グーにした手がにょきっと出る。

 本人としては、親指を立てているつもりらしい。


 それで、出勤した僕は、朝、しかたなく英語科準備室の僕のデスクに、みかんを座らせたのだった。ここなら、人の目に触れることは少ないだろう。引き出しの中に、とも思ったけれど、残念ながら、引き出しの中は、ファイルでいっぱいで、タヌキをしまい込むすき間はなかった。

 

 そして、授業や部活を終えて、今やっと放課後になって、ここに戻ってきたのだ。

「お腹、空いたやろ?」

「……平気。お菓子食べた」

「え? 誰の?」

「ごろちゃんのリュックに入ってたクッキー。おいしかったよ」

 よくみると、みかんのそばに、小さなクッキーのかけらが落ちている。この間、隣の席の先生にもらったやつだ。

「そっか。ごめんな。昼も食べてへんな。でも、仕事まだしばらくかかるねん。せやから……」

 僕は、昼に売店で買ったおにぎりを、みかんに渡す。

「わわ! ありがと!」

 小さなタヌキが、嬉しそうにおにぎりを頬張るのを横目で見ながら、僕は仕事を始める。

 明日の授業で使うプリントの用意はできているけど、授業で使う、ちょっとした小道具や、導入に使う動画やパワーポイントがまだできていないのだ。


 できるだけ早く仕事を片付けようと集中していたので、ふと気づくと、窓の外はすっかり暗くなっていて、僕の机の上の端っこの方で、小さなタヌキのぬいぐるみが丸くなっていた。いつの間にか、寝てしまったらしい。

「みかん。お待たせ。終わったで。帰ろか」

「……ん。終わったの?」 ちょっとぼんやりしている。

「うん。終わったよ」

「ごろちゃん、ごはんは?」

「もちろん、まだやで。帰りにスーパーでなんか美味しいもん買うて帰ろか。ちょうど閉店前の値引きシール貼りまくってるところやろ」

「うん!」


 帰りの自転車の背中で、みかんが言った。

「ごろちゃんごろちゃん」

「ん?」

「ごめんね。毎日帰りが遅いって、文句言うて」

「ああ」

「ごろちゃん、毎日めっちゃがんばっててんね」

「……そうでもないよ。もっとがんばってる人もいるから」

「ううん。誰かと比べなくていいよ。がんばってることにちがいはないもん」

「そうか」

「そう。みんな、自分のいるところで、精一杯がんばってるの。だから。それでいいの。比べたりしなくっていいの」

「……そうかな」

 友人の大変そうな話を聞いて以来、僕は、自分がすごくゆるく生きている気がしていた。少し、気が引けてもいた。正直なところ。自分が全くの苦労知らずにも思えたりして。


「ねえ。ごろちゃん」

 背中からみかんの声がする。

「ん?」

「ごろちゃん、さっきお仕事してる顔、すごくすごく、素敵だったよ。カッコよかったよ」

「何言うてるねん」

 そう苦笑いして答えたけど、僕の頬は一気に熱くなる。

――――もしかしたら、赤くなってるかも。

 僕は、前を向いて、ペダルを踏む足に力を入れる。

「スピード出すで。しゃべっとったら、舌噛むで」 

 

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