挙措を失う

三鹿ショート

挙措を失う

 整然と並んでいたはずの机や椅子は、教室の内部に散らばっていた。

 教室の内部には一人しか存在していないにも関わらず、誰の仕業かと考えてしまったのは、彼女が乱暴な行為に及ぶわけがないと信じていたからだ。

 立ち尽くしている私に気が付いたものの、彼女は声をかけることもなく、無言で教室の内部に液体をばらまいていく。

 その臭気から、彼女が何をばらまいたのかということに気が付いたのだが、やはり信ずることができなかった。

 容器に入っていた液体を出し切ると、彼女は表情を変えることなく、廊下に出てきた。

 そして、衣嚢から燐寸の箱を取り出すと、私に顔を向けながら、

「危険ですから、離れた方が良いです」

 思わず、その言葉に従ってしまった。

 私が離れたことを確認すると、彼女は燐寸を擦った。

 そして、それを教室の内部へと放り投げた。

 想像していた通り、教室は即座に火に包まれた。

 彼女はそれを数秒ほど眺めた後、私の手を掴むと、

「では、逃げましょうか」

 それから、私は彼女と共に学校から逃げ出した。

 彼女の行為を理解することができず、困惑が脳内を支配していたのだが、それでも彼女の手の柔らかさが気になってしまった。


***


 彼女は、優等生だった。

 誰よりも優れた能力の持ち主だが、それをひけらかすことなく、常に穏やかな笑みを浮かべながら他者と友好的な関係を築いていた。

 だからこそ、彼女があのような行為に及んだ理由が、まるで分からなかった。

 近くの公園まで逃げると、共に荒い呼吸を繰り返す。

 先に呼吸が整った彼女は、自動販売機で飲料を購入すると、それを私に差し出した。

 私が感謝の言葉を吐くと、彼女が長椅子に腰を下ろしたために、私もまた隣に座った。

 飲料を口にし、夜空を仰いでいると、彼女が問いを発した。

「何故、あのような時間に現われたのですか」

 それよりも言うべきことがあるのではないかと思ったが、あまりにも変わらぬ様子だったために、私は答えてしまった。

「明日までの課題を片付けるために必要な資料を、教室に忘れてしまったことに気が付いたのです」

 私の言葉に、彼女は納得するような声を出した。

「確かに、それは大変な話です。担当の教師は課題を提出することが出来なかった相手には、厳しいですからね」

 彼女は先ほどの悪行のことなど忘れてしまったかのように、平然と会話をしている。

 ゆえに、私は教室での一件を訊ねて良いものか、悩んでしまった。

 彼女が触れないのならば、このまま何事も無かったかのように過ごすべきなのだろうか。

 落ち着いた様子で放火をするような人間性を思えば、私が蒸し返した場合、口封じと称して何をされてしまうのか、分かったものではない。

 己の身の安全のためには、私は無言を貫くべきなのだろう。

 だが、それで良いのだろうか。

 どれほど優秀な人間だとしても、罪は償うべきである。

 それは、人間として当然のことではないか。

 しかし、それを口にすれば、私は徒では済まないのではないか。

 想像しただけで、身体の震えが止まらなくなってしまう。

 寒いわけではないにも関わらず震える私を見て、彼女は口元を緩めた。

「通報しても、私は気にしません。罪は露見しなければ罪ではありませんが、それが他者の知るところとなった場合には償うべきであると思っていますから」

 それほど潔い思考を持ちながらも、何故愚かな行為に及んだのか。

 私は、その理由が知りたくなった。

 自分でも驚くほど震える声でその疑問を発すると、彼女は夜空に目を向けながら、

「聞いたところで、面白い話ではありませんが」


***


 彼女は、優等生である自分が嫌いだったわけではない。

 自分を優等生として扱う他者を、嫌っていた。

 彼女は己の能力を高めるために努力を続け、その結果、現在のような優れた成績に至った。

 他者から褒められるために行動していたわけではないが、賞賛の声は悪いものではなかった。

 だが、何時しか彼女は、賞賛するだけで自身に続こうとする人間が存在していないことに、疑問を抱くようになった。

 自分を尊敬するような言葉を吐きながらも、何故それに近付くための行動に及ぶことがないのだろうか。

 誰にでも限界は存在しているだろうが、それは実行してみなければ分からない。

 もしかすると、自分よりも優れた結果を残す場合も有り得るのだ。

 しかし、人々は一歩を踏み出そうとはしなかった。

 その瞬間、彼女は自分が過ごしている空間に愚かな人間ばかりが集まっていることを嫌悪するようになった。

 ゆえに、火を放ち、その空間を消したのである。


***


 他者に対して彼女が抱いた疑問と、他者が彼女のように努力をすることがないということは、私には理解することができる。

 おそらく、努力したにも関わらず、優れた結果を残すことが出来なかった場合における落胆を避けたかったのだろう。

 無駄と化す可能性が存在する時間ならば、最初から自分にとって愉しい時間にすれば、人生は良いものと化す。

 人々は、そのような思考を抱いているのだろう。

 だからこそ、彼女に続こうとしなかったのだ。

 私がそのことを説明したが、彼女は首を傾げた。

 その反応を見て、彼女が他の人間たちとは異なる視点の持ち主だということに気が付いた。

 見ている景色が違っているのならば、互いを理解することができないということは、仕方の無い話である。

 ゆえに、私が彼女に伝えることができる助言は、

「誰がどのように生きるのかは、その人間が決めるべきことではないでしょうか。誰にでも共通するような生き方など、存在していません。何故なら、私ときみは、異なる人間なのですから」

 私がそう告げると、彼女は初めて、困惑したような表情を浮かべた。

 顎に手を当て、何かを呟いている。

 私が声をかけても反応することがなくなってしまったため、自分の世界に入り込んだのだろう。

 これ以上は時間の無駄だと察し、私はその場を後にした。

 最後まで通報するべきかどうかを悩んだが、結局、私は彼女の報復を恐れ、口を噤むことにした。


***


 彼女が放火の犯人だと露見することはなかったが、彼女には大きな変化が訪れていた。

 それは、これまでのような人当たりの良さが消えたということである。

 私の言葉から、下等な存在を意識するゆえに苛立ちを覚えるのだと考えるようになったためなのだろうか。

 人々は彼女の態度に困惑し、やがて距離を置くようになったのだが、彼女にとってはこれが最善の道だと私は考えた。

 何故なら、苛立ちを覚えるような相手と接触することがなくなれば、彼女が二度と放火することはないのである。

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