EP07-陸:取引とエゴイズム
目の前には、
待て、どうしてお前がオレたちの隠れ家にいる。
いや、それよりも。
やめろ。そのまま力を
手を伸ばそうとすると、床を叩く鈍い音。地面に目をやれば、オレの腕が転がっているだけ。
そこで初めて、自分が四肢を
だが、そんなことよりも。
――にげろ。
今、誰よりもそれを伝えなければいけない人の口が、そんな形に動いた。
ダメだ。あなたを死なせたら、オレは師匠になんて謝ればいいんだ。
鮮血が舞う。見慣れた研究室の床を、見知らぬ朱色が埋め尽くしていく。
嫌だ。こんなの嘘だ。誰でもいいから、何かの間違いだと言ってくれ。
悪夢なら、
「およよ~、起きたか~い?」
荒い息を吐いていたのが自分だと気付いた時。
暗闇の中、誰かに話しかけられたのだと認識する。だが、首を固定されているのか起き上がることもできず。しかし、その甲高い声が一切として聞き覚えのないものだと思い至るまで時間は掛からなかった。
「ようこそ~、
一瞬にして
拘束されている。しかも台の上で
瞬間、走馬灯のように
いや、待て。ここにいる誰かは、今オレを何と呼んだ。赤マフラーの死神でもなければ、街を脅かすテロリストでもなく。
南野光一、と。
オレの本名を、こいつはハッキリと口にした。それが意味することは、ただ一つ。
正体を知られてしまった。
「……ぅッ⁉」
「まだ寝ていた方が良いと思うよ~? 全身ボロボロだったわけだしね~」
「お前、〈ネクロ〉の仲間か……」
「え、そういう方向に行く? 勘違いって怖~い♪」
そう思っても仕方ないか、なんてあまりに
逆光の中だが、だんだんと目は慣れてきた。おかげで、ぼやけていた相手の
白衣の
だが一際に目を引くのは、その
大人と呼ぶには小さすぎて、しかし子どもと呼ぶには
「で、気分はどう~? まだ右腕がくっついて一時間も経ってないけど」
その言葉で、改めて視線を自分の右側に送る。
五本の指、
「回収チームがぼやいてたよ~、右腕だけ別のとこに落っことしておくな~って」
よくよく見れば、ここは手術室のような場所だった。オーナーがこの身体のメンテナンスをする地下研究室とよく似ている。大小さまざまな機材の配置だけでなく、薬品や手術器具が放つ独特の匂いまで。
「まさか、オレは助けられたのか……?」
「そうとも! このボク様、
「プロフェッサー、ジーニアス……?」
「そそ。気軽にジーニーって呼んでね?」
子ども。その一言が、妙に引っ掛かる。待て、七夕に
「お前も……〈ゲノム・チルドレン〉、なのか……?」
瞬間的にオレを捕らえたのは、
「半分は正解。でも、それが〈スポンサー〉の手下かどうかを問うなら不正解」
どういう意味だ。〈ゲノム・チルドレン〉というのは〈スポンサー〉の下にいる幹部たちのことじゃないのか。
「〈スポンサー〉の敵、そして人類の味方……それがボク様たち〈アンチ・ゲノム同盟〉の使命。
メイクセンス……「意味は分かったか」とでも言いたいのか。
この強気な笑みの真意はわからない。ただ、確かにあの幹部たちは〈アンチ〉という言葉を使っていたのを覚えている。それが〈スポンサー〉に対抗する組織のことだったとは知らなかったが。
「でね、南野光一くん。君に来てもらったのは、取引がしたいと思ったからなんだ」
「取引……?」
「あの〈ネクロ〉がとんでもない武装を創り出したのはご存じの通りさ。その強さの前に死にかけた君ならわかるよね。で、おそらく次の標的は
思わず奥歯を噛み締める。こいつ、脅しているのか。協力しないなら、坂上愛が……オーナーがどうなるか知れないぞ、と。
「そこでだ。南野光一くん、ボク様の〈実験体〉にならないか?」
告げられた言葉の意味を理解しようと
「坂上愛博士、彼女は間違いなくボク様に次ぐ天才さ。それは君や、君を救った赤マフラーを観察していれば嫌でも理解できる」
何と、言った。それはまるで師匠のことを知っているような口ぶりで。
「でも惜しい。何しろ〈
その一言が、心に重くのしかかる。〈獣化〉しかけた師匠が自爆装置を作動させてまでオレを逃がした記憶が、脳裏を
「だから今のままでは〈ネクロ〉には絶対に勝てない……そう、今のままでは、ね?」
まさか、あの〈解放〉の力さえ超えるものがあるとでも。
「〈
勝てる。あれだけの強さを振りかざす〈ネクロ〉を、今度こそ
その言葉が、胸の奥底を刺激する。
「手足の補修作業をしながら、もう下準備も済ませた。今すぐにでも始められるよ?」
理性が叫ぶ。こんなの
「ボク様たち〈アンチ・ゲノム同盟〉からの要求は一つだけ……その力で〈ネクロ〉を
だが本能に近いものが訴えてくる。手を伸ばせ、その力を手に入れろ、と。
「もちろん、タダでとは言わない。そちらへの
細い指が三本、間近に迫ってくる。そして大きな瞳にはギラギラとした笑み。
「一つ、〈スポンサー〉の情報。二つ、〈ゲノム・チルドレン〉の秘密。そして三つ、〈
提示された内容を、脳内で
オレたちが追い詰めたいと願いながら、その一切が今も謎に包まれたままの敵……〈スポンサー〉の正体。
元が人間だったとは思えないほどの能力と残忍さで、この街を踏み
そして、いつ終わるかもわからないと、心のどこかで不安に感じていた殺し合い……この〈実験〉の
「魅力的な報酬だと思うんだけど、どうする?」
このまま待っていても、オーナーは助からない。あの〈ネクロ〉が彼女を狙っている以上、いつかは決着を付けなければいけないのも事実だ。それに何よりも、あいつを野放しにすれば、もっと多くの
師匠と親友の顔が浮かぶ。オレのせいで死んだ二人が守ろうとしたこの街の笑顔。それを壊して下劣な嘲笑を浮かべる奴らを止められるのは、誰だ。
「約束しろ。オレが死んでも、オーナーの安全は保障すると」
こいつの思い通りの
「……ぷ!」
「OK。君の気高きヒロイズムに誓って、必ず彼女の無事は保証する。それでいい?」
「ヒロイズムなんかじゃない……オレのは、ただのエゴだ」
「
意味不明な言葉を
「ちなみに強化改造は
「あぁぁっぁぁぁっぁっぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁあっぁぁあああああああ⁉」
肉を
「ぐぅ……ぁ……ぅッ……⁉」
だが。
耐えてやる。誰の
(泣いている人たちを……笑顔に……)
いつも誰かのことを想い、多くの人を笑顔にしてきた親友。
あいつの
(誰にも消せない
絶望にすら笑顔で立ち向かい、怪物に
彼がオレに託した、熱い想いも。
どちらも継げるのは、今はもう。
オレしかいないから。
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