EP07-伍:夢でも幻でも


「ホントにきたの! せいぎのみかた!」


 ただ、信じて欲しかった。


 まだ三歳の私が悪い奴らに捕まった時、助けてくれたのはくれないのマフラーを巻いた誰かだったと。けれど、どれだけ言葉にしたところで、誰も信じてはくれなかった。


 お医者さんも、刑事さんも、先生も、友達も。何より両親さえも。怖い思いをしたからそんな幻想を口にしていると陰で言っているのが聞こえていた。


 今なら理解できないこともない。何しろ突拍子もない話だ。ガイコツ頭のヒーローが現れて、銃で武装した悪漢たちを蹴散らして。そうして女の子を助け出したなんて、どこの安物映画だと笑われても仕方がないのかもしれない。


 それでも、信じて欲しくて絵を描いた。けれど、母親はそれを見る度に泣いてしまって。不甲斐ふがいない母だったから守ってあげられなかったと。一瞬だって目を離すんじゃなかったと。そう口にする度に、私はどうしていいかわからなかった。


 母が不安定だったのは、父が仕事を辞めたのもあったのかもしれない。私が拉致らちされたせいで職場から大切な研究資料を持ち出そうとしたから追放されたのだと。


 父親は夢を奪われた。あんなに喜んでいた宇宙研究への道を絶たれてしまった。


 その全てが私のせいだと気付いて、独り部屋で泣くしかなかった時。


「いいかい、パパは真由実まゆみのヴァイオリンを聴いていると幸せな気持ちになるんだ。だからその夢を、手放しちゃいけないよ」


 父はそう言って、笑ってくれた。その時になって思い出したのは、あの紅の戦士が最後に掛けてくれた言葉。


(君が、これを奏で続けてくれるなら)


 もしかしたら、ヴァイオリンを続けていれば、また会えるかもしれない。演奏を聴くのが好きなら、また現れるかも。そうしたら、みんなもきっとわかってくれる。


 そんな幻想にすがって、ひたすらにヴァイオリンを弾き続けた。


 いつしか私の演奏で多くの人が輝かせる瞳に、私自身が魅了されていった。泣いてばかりいた母が優しい笑顔になれる旋律に、心から感謝した。


 きっとこれが私の夢。世界中の人たちに、この音を届けたい。そうしたらいつかは、父の夢を奪った贖罪しょくざいになるかもしれない……。


 それが、呆気あっけなく壊れたのは一年前の六月のこと。


 黒銀くろかねコンサートホールは炎に呑み込まれた。天井が崩れ、道がふさがっていく中。衝撃に驚いて落としてしまったヴァイオリン。それを拾おうと伸ばした左手に、燃え盛る炎がおおいかぶさって。


 指先を焼く痛みも、肺をくすぶる痛みも、私に死を直感させるには充分だった。


 逃げることもできないまま、意識が遠のき始めたその瞬間。


 見えたのは、どうしてか赤いマフラー。それを首に巻く誰かに抱え上げられる感触と共に、記憶が途絶えてしまって。


 目覚めるとそこは病院で。父から話を聞けば、三日三晩、眠っていたらしい。そして、あの会場で死亡した母の葬儀も終わった後だとも。


 医者から、もうヴァイオリンを弾くのは不可能だろうと言われた。日常生活に支障がない程度には回復するだろうが、あれだけ精密な指の運びはもう叶わないだろうと。


 生きているだけでももうけものですよ、と笑顔で言われたが。大切なものをうしない過ぎた実感すら薄い私には、とてもそんなふうには思えなかった。


 父の落ち込んだ気持ちがわかっていても、心配するなと気丈に振舞う姿には何も言えなくて。


 満足に左手が動かなくなった私には、どうすることもできず。日に日に、喪失感だけが募っていった。


 ああ、これが夢を失くすってことなんだ。何をしていいのかわからないし、どう歩いたらいいのかも思い出せない。まるでくらな闇の中に放り出されたような気持ちだ。


「自然の中で、絵でも描いてみてはどうでしょうか?」


 カウンセリングの時、若い先生にそうアドバイスを受けた。親切心からか色鉛筆とスケッチブックをくれたせいで、断ることもできず。帰り道、家の近くに自然公園があったのを思い出して、そこへ足を運んだ。


 屋根付きの休憩所があったから、そこへ腰を下ろして色とりどりの鉛筆を並べた。


 けれど、六月の暑さにも負けない彩り豊かな自然も、私には灰色にしか映らなくて。


 適当な色でスケッチしても、すぐに黒で塗りつぶした。そんなことを繰り返すうち、気付けば紅のマフラーと灰色のガイコツ頭を描いていた。


 ひどくバカなことをしていると、また黒で塗りつぶしてしまおうとした時。


「おいおい。こんなに良い絵なのに消しちまうなんて……そんなもんかい?」


 指の隙間すきまからそっと鉛筆を抜いたのは、赤い髪の男。どうしてか暑苦しそうなレザージャケットを着ているのに、表情はとても涼しげで。


 なぜか、彼の放つその雰囲気が、嫌いになれなかった。


 それからも、私が来ると彼は決まって現れた。そうして私の横で、笑ってしまうほど下手な絵を描いては。


「どうよ、おれの自信作?」


 まるで子どもみたいに笑っていて。それが何だか、無性に可愛らしくて。だからだろうか、彼の笑顔を見ていると嫌なことを全て忘れられるような気がした。


 六月も終わりに近づいたある日、梅雨つゆのしとしと冷たい雨が降る中で。


「どうしたよ? 今日はいつも以上に元気がないね」


 気付けば、私は彼に打ち明けていた。


 幼い頃に救われたこと、そこから始まった夢を失ってしまったこと、母を亡くして父が苦しんでいること、これからどう生きていいかわからないこと。


 こんなの、本当は名前も知らない他人に話すことではない。それでも、何故なぜか口に出さずにはいられなかった。彼のかもし出す世界が、そうさせたのだと思いたかった。


「あんたが本当に叶えたかった夢って何だい?」


 思わず振り返った先で、空をあおぐ彼の物憂ものうげな瞳から、目が離せなくなった。


 熱くたぎる炎のようで、けれど物悲しい氷のようなその視線。それはどこか、雨を降らせる雲の向こう、その先にある何かを見ているようで。


「世界中にあんたのヴァイオリンを響かせること? それとも自分の地位や名声を高めることか?」


 何も返せなかった。改めて言葉にされて、そんなの全然欲しいと思えなかったから。


「絵に描いてたスカルマスクのヒーローのこと、今でも夢や幻だって思うかい?」


 どくんと、胸の奥が鳴るのを感じた。この気持ちの意味もわからなくて、うなずくことも首を振ることもできなくて。


 わからない。ただ、それしか言えなかった。


「そっか。でも、たとえ夢や幻でも、おれは良いって思うぜ」


 それはあまりにさびしい声だった。放った言葉以上に、悲しい想いを含んだ旋律で。


「あんたは死ななかった。そんでさ、笑って欲しい誰かの為に、音を奏で続けた」


 その声を彩るのは、優しさ。聞いているだけで、太陽の光が差すような温かさで。


「それなら、助けに来たそいつの想いは嘘にはならない」


 どういう意味かとき返した時。怒りも哀しみも、そんな感情の全てをたたえたまま。ただ彼は笑いかけてくれた。


「笑って欲しかったんじゃないか? 他でもない、あんたに」


 反論なんて浮かばなかった。その瞳が、どうしようもなく美しかったから。


「誰が否定しても、救われたあんたが笑って生きた時間は、嘘にはならないからさ」


 すっと、胸の奥が軽くなる。重たい荷物を一息に下ろしたような、そんな感覚で。


「お、やっと笑ったな」


 口に出されてハッとした。自分でも気付かないうちに、口元がゆるんでいて。


「あそこにさ、独りで住んでるおばあちゃんがいるんだけどよ?」


 指で示されたところには古い一軒家。よく見ると何か看板が立て掛けてある。絵を描いてみませんか、という文字。


 その瞬間、閉じかけていた心の奥に、優しい風が吹き抜けた気がした。


「昔から美術の先生やってるらしくてさ、今でもああして教室を開いているんだと。だけど最近じゃ通ってくれる人も随分ずいぶんと減ったのよ、って寂しそうなんだわ」


 立ち上がった彼を迎えるように、雲が途切れていく。まるでお日様が来るのを待っていたみたいに、歩き出した場所へ光が差し込んで。


「人の話を聞くのも大好きって言ってたからさ、あんたさえ良ければ、そのヒーローの話でもしてやってくれよ」


 去り際に笑いながらそんなことを言うのは、なんだか別れの挨拶みたいで。


 名前を教えて。


 気付けば、泣いているみたいにさびしげな背中に訊いてしまっていた。


「おいおい、おれはただの通りすがりだぜ? 覚えなくていい」


 それだけ言い残して、彼は去っていった。追いかけようと立ち上がった時に聞こえたのはバイクが走り出す音。


 それ以来、彼は私の前には現れなかった。


 数日経ってから、ようやく勇気を振り絞ることができて。どうしても彼のことを知りたくて、あの古い一軒家のお婆さんに話を聞きに行ったのだ。


 そこで初めて、彼が多くの人を助けていたことを知った。彼女も救われた一人で、その後はよく話し相手になってもらったということも。


 そして彼が、記憶喪失で自分の名前さえ思い出せなくなっているということも。


「じゃあ、きっとまた誰かを助けに行っちゃったのね」


 そう笑うお婆さんが、彼をモデルにして描いたという絵を見せてくれた。その一枚を見たとき、どうしてか紅のマフラーが頭の片隅を横切っていって。


 もしかして。あの人は、私を助けてくれたヒーローその人だったのではないか。


 死のふちから助けてくれただけでなく、私が笑顔を取り戻すまで見守っていてくれたのだとしたら。


 そんな妄想にも等しい予想が沸き起こったら、もう止まれなかった。


「私、ここで勉強しても良いですか?」


 絵を描こう。あの人が、どんな気持ちでその仮面をつけていたかは、私にはわからないけれど。せめて、あの夜に私を助けてくれた彼の存在を、夢や幻なんかじゃなかったと伝えるために。


 私を救ってくれたヒーローは確かに存在した。その証を、この世に残すために。




「あの女……よくもこんな侮辱ぶじょくを⁉ 坂上さかがみあい……絶対に許さない‼」


 遠くで聞こえた絶叫に、重たいまぶたが開く。


 ああ、そうだった。ばかだな、私。こんな夢を見ている場合じゃないのに。


「絶対にただでは済まさん……絶望の底に叩き落して、徹底的に潰してやる‼」


 昨日まではあんなに静かだった犯人は、クスリの切れた中毒者のように荒れていた。


 月の光も見えない暗闇の独房で、震える以外にできることなど私にはない。けれど、他にも捕まっている女の人がいるのは明白で。昨夜も助けを呼ぶ金切り声が聞こえていた。


 今晩こそは、私の番かもしれない。


 自然と頭の中に思い浮かべるのは、父の顔。ここに連れてこられて、もう何日が経ったかもわからないけれど、きっとまた心配している気がして。もしかしたら、今も私を探して駆けずり回っているかもしれない。


(パパのゆめ、まもってくれる?)


 かつての自分の声が頭の中で響く。閉じたまぶたの裏に、今もあの灰色の仮面が視える。


 どうか、守って。父さんだけでも救って欲しい。こんな悪魔の手に渡さないで。


 もう、ヴァイオリンを弾く約束、果たすことはできないけれど。


 どうか……。


「いや、良いことを思いつきましたよ……ふふふ」


 願いもむなしく、扉が開く音がした。

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