EP07-肆:〈N-X-0〉
『親にも内緒で絵の描き方を習いに行っていた……それも一年も前から、か』
オーナーの
本来ならそんな声など耳に残りはしないほどの向かい風。それをバイクで切り裂いて進んでもなお聞き取れるのは、改造人間の特権ということにしておこう。
『しかし、どうして絵なんだ?』
首を傾げているのだろう女主人様は、疑問と推理を口に出していく。
『経歴を確認しても、別に美術で高い評価を受けていたような話もない。それも高齢になった芸術家が個人的に開いている教室に通っている意味とはなんだ?』
聞きながらも周囲を確認しながらマシンを動かす。街のいたるところに置かれたハロウィンの装飾が、ライトの光に反射して不気味な影を映していく。
『教室には、他に
あの地下研究室で頭を抱えている彼女の姿は、容易に想像できる。しかしオレにも、いなくなった女性の心理など完全には把握できるはずもなかった。
とにかく今夜は、一人の動きだけを考えているわけにはいかない。うまくいけば、ここで
「オーナー、目的地に到着しました」
バイクを停めて、ヘルメット越しにその場所を
森か林かと見紛うほどの木々に囲まれるのは、無数の墓標。手入れの行き届いた墓石の光沢が月明かりを反射して
『
毒づくオーナーの声には、どこか冷めた
『ほら、向こうにある趣味の悪い建物。あれがターゲットだよ』
事務所だと聞いていた施設は、想像よりもずっと大きかった。山の
ここがオーナーの……まだ
『かつて行き場のない子どもたちの暮らした家が、気付けば金持ち共の死後の
自分の住んでいた場所が様変わりしてしまったからなのか、それとも嫌な記憶が染み付いた場所だからなのか、とかく氷より冷えた笑い声。
『逆に言えば。敵の一角かもしれない大企業様にとって、ここは潰したくない場所でもあるってことだ』
そう、ここを経営しているのは世界でも有数の大企業〈
何より、養護施設だったここは、あの
『バカ話はこのくらいにして、そろそろ始めよう』
肯定の意味を込めて、左腕をかざしながら口を開く。
『ミッションコード……変身』
『
銀色のナノマシンを
糸を伸ばしては勢いよく枝から枝へと器用に飛び移る〈クモ〉の動き。それを知覚しながら目標を二種類の眼で捉えていく。
『もっとだ、〈クモ〉ならまだ近づける。ここで秘密の出入口を見つけてから、じっくり対策を立てたいからね』
指示通り、操作に集中する。
走査する
こちらの〈クモ〉には、暗視スコープで捉えた情報をスキャンし、
瞬間。
「お久しぶりですね」
壊れたラジオのような声と共に、右肩に違和感。
背後から聞こえたその声に振り返った途端、硬い土の上に何かが落ちる衝撃音。
そちらに動いた視線の先には、白く大振りな一本の剣が突き刺さり。その
『少年っ⁉』
頭の中で響いた主人の悲鳴を合図にして、痛覚が電流となって脳内を走り抜ける。
直接に
「ッ……⁉」
歯を食いしばって悲鳴になり損ねた声を殺す。叫んでいる場合じゃない。
周囲に視線を動かし、相手の気配を探る。
どこだ。確かに声はあった。どこにいる。近くにいるのは間違いない。どこで笑っていやがる、クソッタレ。
『少年、〈クモ〉で距離を取れ!』
オーナーの指示と同時、引き返してきた〈クモ〉が左の前腕部に戻ってくる。
確かにこれが最適解だ。手足に
『
強引に振り上げた左腕、そこから吐き出された形状記憶合金の〈クモの糸〉を命綱に
とにかく木々の陰に隠れて、索敵を完了しなければこちらに打つ手はない。幸い、身を
「どこへ行かれるおつもりで?」
声の主を探した上空には、巨大な
『
がむしゃらに腕を振り上げ、逃げ場となる別の樹木に糸を通す。枝を蹴り、ウィンチに引っ張られるまま退避。それが今取れる最善策。
回転によって加速しながら落ちる極太のドリルを横目に周囲を確認する。次はどこに逃げるか。どうやって敵の所在を突き止めるか。それから……。
「残念、時間切れです」
「ぁ……」
上げていた左腕には、無数の剣先が突き刺さり。武装から伸びていたはずの命綱が、そのシステムの停止を告げるように消失していく。
落下した先、
『撤退だ‼ 敵の位置が掴めない以上、今は逃げるんだ‼』
勝てない。だから逃げろと主人が叫んでいる。
だが。
「どうしたんです、二代目くん?」
木々の間から声の主が現れると同時、示し合わせたように月光がその姿を照らす。
『こいつ……〈ネクロ〉、なのか……?』
オーナーの驚きに満ちた声が、そのままオレの思考と一致する。
「待っていましたよ、
男の左眼を
腰のバックルと同じ金色に染まった右の眼光が、オレを捕らえて放そうとしない。
不気味。いや、そんな安易な言葉では足りないほどの、異質。
ダメだ、逃げられない。こいつの放つプレッシャーは、これまでとは比べ物にならないほどに
なら、できる手はこれしかない。
「ミッションコード……解放……‼」
『
燃えるように膨れ上がる感情と共に、ベルトに埋まった〈コア〉がナノマシンの
「ぅ……っ」
左腕には焼けつくような痛み。刺し込まれていた武器を全て
いいや、それでも。今度という今度こそ、この悪魔を
「そうでなくては面白くない……せっかくの〈実験〉ですからねぇ!」
こちらの殺意などお構いなしに、さも愉快そうに両手を広げて
「では参りましょうか?」
新たな武器でも出すのかと身構えた瞬間。
「ミッションコード、超変身‼」
狂気を
現れる
顔面を守るのは
「お見せしましょう、最強のシステム……〈
『
振り上げた右足……〈カマキリ〉の武装が生み出す二対の刃で斬り伏せる。軌道が変わって地面を転がった槍の行方など考えず、そのまま飛び出した。
片腕を奪われていたとしても、この〈解放〉の力は鈍っていない。七色のナノマシンはオレの戦意に沿って動いてくれる。このまま最大出力をぶつけてやれば。
「
「……⁉」
「二本目も、いただきますよ?」
発した言葉の意味は、あまりにも簡単で。そして何より、残酷だった。
「ぐ……ぁッ⁉」
見えたのは、奴が新たに形成した剣と、それを振るう姿。
まずい。左足の〈バッタ〉だけで、この局面を乗り切る方法はあるか。左腕の修復には時間が足らず。右腕を失くした今の状態では、満足に起き上がることもできない。
それでも考えろ、諦めるな、思考を止めたら終わりだ。
「はい、ゲームオーバー!」
大きく弧を描いた一撃が眼前に迫る。
『
足裏に集約したナノマシンで強引に空中へと逃れる。
だが、この先はどうするべきか。今の状態で何ができる。
「残念でした♪」
下で聞こえた嘲笑が、真上に広がった絶望と共に反響する。
視界を
『少年、おい、返事をしろっ⁉』
あまりにも無様だった。
何の抵抗もできず、重力に
『少……お……聞こえ……何か……言っ……』
揺れる視界の中で、大きな月が
「さてさて、その顔を拝ませてもらいましょうか?」
悪魔の剣先が、この傷だらけの仮面をなぞるのに。身体にはもう力が入らなくて。
「坂上愛が選んだのは、どんな人間だったのか。特にこの〈解放〉という力……こんなドーピングをやって、それでも壊れない素体には興味がありますよ?」
ダメだ。ここでオレの正体を知られれば、どこにオーナーがいるかを教えるのと変わらない。オレがここで死ぬだけでは済まないんだぞ。
それがわかっているのに、
「では……ん?」
瞬間的に感じたのは、何かが
「バイクを自爆させた……? 何です、それは? まさか時間稼ぎのつもりですか? それとも降参の合図とでも?」
何を
どういうわけか、小さな破裂音と共に、視界を白い霧が覆っていく。
「っ⁉ 煙幕なんて、古典的な手を……ぅぐ⁉」
月も何も見えなくなって、不意に訪れた浮遊感だけが支配する。
まるで幼い頃、母親の腕に抱き上げられた時のような、不思議な
「おのれ⁉ このガス、私のナノマシンを狂わせるだと……⁉」
怒り狂う声も、遠ざかる。代わりに聞こえるのは、エンジンの駆動音。走り出したマシンが起こす振動が、どこか心地よくさえあって。
「おのれ……おのれぇ、赤マフラー‼」
その
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