EP07~狂騒の面影~

EP07-零:紅の残光


 不思議な記憶の陰影いんえいを追う。


 薄暗い屋内に立ち込める硝煙しょうえんの香りと、十月の夜風が吹き抜ける冷たさ。それを、今もはっきりと少女は覚えている。


かなえ博士、何を心配しているんです? 可愛い娘さんの命と、研究に使う隕石の破片。どっちが大切かなんて、火を見るよりも明らか! ……でしょ?」


 通話機に吹き込まれるのは、男の笑い声。それが誘拐ゆうかいした娘の父親への脅迫だというのは、幼い少女にも理解できた。


 逃げ出したいほど恐ろしい状況でも、かたわらには銃で武装した屈強な傭兵たち。まだ園児と呼ばれるようになって一年と経たない少女にとって、ただ怖い大人たちがたくさんいるという事実しか理解できなくて。おまけに手足を縛られ、猿轡さるぐつわまされている現状では、身動きの一つもままならない。


 古ぼけたソファに無造作に放り出されたまま、ただ残忍な笑みを浮かべる犯罪者たちを前に震えるしかない少女。その瞳が捉えるのは、通話機を握る男の悪辣あくらつな笑み。


「どうせ警察も近くにいるんでしょうから、先に伝えておきますよ。お嬢さんの首には時限爆弾を仕込んだチョーカーを付けさせてもらいました。私の合図一つでドカンですからね? もちろん私が意識を失ったり死んだりしても……ね?」


 父親を脅迫する男は、たのしげだった。ぎょろりとうごめく視線だけで、怖れにし潰されそうになっている少女をめまわす。その首に巻かれた黒い首輪を確認するように。


「大丈夫ですよ、博士。そちらは隕石の破片を持ってくるだけ!」


 馬鹿ばかみたいに高い身代金も逃走用の車も不要、と付け加えながら。


「研究所は何か言うかもしれませんが、娘さんの断末魔だんまつまを聞くよりは……でしょ?」


 そうして、男が狂気じみた笑みで通話を終えると。


「良かったですねぇ、お嬢さん? パパが迎えに来てくれるそうですよ? まあ、ここでパパと一緒に死んでもらうんですけど、ね?」


 言葉の意味をゆっくりと考えるまでもなかった。


「実はこの爆弾、外すのは不可能なんですよ。〈スポンサー〉様のご要望だから仕方なくてねぇ? だから、君たち親子は抱きしめ合った瞬間に、ドカーン! ってわけ」


 完全な劣勢、絶対に存在しない脱出口。助けに来る父親も諸共もろともに、自分たちを殺すという宣言。そこに嘘も偽りもないと言外に告げるような笑み。その眼光こそが、助からないという証明そのもの。


 逃げ場なんてない。それくらい、幼い身でも察することができてしまって。


 それでも少女は泣かなかった。


 泣くことすらできず、父の言葉が脳裏でリフレインしていた。


(正義の味方はね、本当に良い子のところに来るんだよ)


 テレビで見たなマントのヒーローは、来てくれるだろうか。


 泣いている誰かを助けにやってくる正義の味方。そんなフィクションの英雄など会ったこともないけれど。もし、こんなピンチの自分を見つけてくれたなら。


 本当に、助けてくれるのだろうか。


「あん?」


 不意に、この広間を照らす小さな明かりが消え失せる。ただでさえ暗闇では怖くて眠れないような少女にとっては、最後の希望が消えてしまったような恐怖。


「おい! 誰かブレーカー確認して来い! ったく……」


 さっきまでの余裕が苛立いらだちに変わった男の声が響き、複数の足音が遠ざかる。ライターの火で周囲を照らしながら、奥の方へと歩いていくのが見えたが。


 その薄闇の中、聞こえたのはうめくような悲鳴。続けざまに、何か重たいものが地面をる音。そこには、淡くも美しく揺らめくくれないの残光。


「おい、何やってんだ! 遊んでないで、さっさと電気を……」


 男の声をさえぎるように、銃声。そして、今度はホラー映画でも聞かないような、絶叫。


 少女の視界には、ひらりと舞う紅のマント。いや、あの細さはマフラーだろうか。


「侵入者だと⁉ くそがっ‼」


 ライターの灯火ともしびだけでは襲撃者を見つけることなどできず。しかし、それでも男たちは銃器を手にして身構える。


 だが。


「ぐふっ……⁉」


 一人、また一人と倒されていく音だけが場内に反響する。その度に、あの紅のきらめきが暗闇に舞い踊る。


 ナイフをはじくキックに、銃を握る腕ごと折るようなパンチ。あまりにも華麗なその動きをする度に、はねを広げるちょうが舞うような錯覚。


 どうしてか少女の目には、そんなものが映っていた。


「どこかのエージェントさんよぉ、この小娘が微塵みじんになっちゃってもいいの?」


 長い髪を乱暴に掴まれた少女は、その首をしばる危険物が今にも爆発するのではないかと思わず怖くなって。救いを求めるように紅のマフラーの幽霊の姿を探す。だが、どこにも見えない。


UNLOCKアンロック


 そのとき、唐突に首が軽くなるのを感じて。地面で鈍い音を立てたのは、さっきまで自分を縛っていたはずの爆弾チョーカー。


「な……勝手に取れただと⁉ 解除コードなんて存在しないはず……ごふっ⁉」


 少女を襲ったのは、初めての浮遊感。自分を盾にしていた男が倒れたのだと気付いた時には、もう遅くて。今か今かと、硬い床が眼前へ迫ってくる。


 激突の寸前、まぶたを固くつむる。


 しかし、その身に来ると思った痛みはなく。代わりに、ただ力強い温もりがあった。


 開いた瞳に映るのは、燃え尽きた骸骨がいこつのように鈍い灰色の仮面と紅のマフラー。おおよそ英雄然としていない姿のそれは、けれどしっかりと少女の身を抱えていた。


 どうしてか、怖いという気持ちが失せていくのに、涙だけがあふれていく。


 そっと涙を拭ってくれた大きな指。言葉はなかったが、しかし意味することだけはなんとなく理解できたから。


「あなたは、せいぎのみかた?」


 そういた。助けてくれた礼よりも先に、ただその疑問をぶつけてしまった。


 びくりと指が痙攣けいれんを起こすのが見えて。それが質問に対する反応なのか、あるいは別の理由からくるものなのか、何も知らない少女には判断さえできなくて。


「パパのゆめ、まもってくれる?」


 思いついた願いをそのまま口に出す。


 その言葉が、いったいどんな意味を持つかも考えられないまま。


「君が、これを奏で続けてくれるなら」


 返ってきたのは、鋭い刃のようでありながら、けれど、とても温かな声。


 差し出されたのは、ヴァイオリンのケース。父親が買ってくれたばかりの誕生日プレゼント。彼女の宝物で、父親との約束が詰まった大切なもの。


「やくそく?」


「ああ。約束だ」




 どうしてか、少女の記憶はそこで途切れた。

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