EP06-玖:これから君が生きる道


「生きてて良かったねぇ」


 重いまぶたを開けた時、耳に入ったのは聞き覚えのない声。


 その意味するところが読み取れなくて、目をしばたたかせる。


 ていうか、ここはどこだ。朝日がまぶしいからカーテンを閉めて欲しい。


「ああ、安心してね。ここはワシの病院だから。警察病院だと怖いしね」


 何を言っているんだ、この仙人みたいな白衣のじいさんは。俺は警察官だぞ、警察病院が怖いなんて話があるもんか。


 いや、ちょっと待て。そもそも何で病院のベッドの上に寝かされてるんだ。そうくために起き上がろうとした瞬間。


「っぁ……⁉」


 身体中に激痛が走り抜ける。何だよこれ、人間が耐えられる痛みの限度なんか超えてるぞ。


「これこれ、いきなり動こうとするんじゃない。いくら若いからって、手術から三日三晩ずっと寝たきりで。そもそも左腕を切断したんじゃから無理しちゃいかんよ?」


「は……?」


 視線が左腕を探す。


 ない。ひじから先にあったはずのものが、すっぽり無くなっている。


 フラッシュバックするのは、研究所の地下。そこでの赤マフラーとの激闘。


 いや、その後に起こった絶望だ。早乙女さおとめ歩生明あるふぁ、同僚だと思っていた相手が白マントの怪人に姿を変えて。


「何が何だかわかってない、って顔だね。よし、順を追って話そうかの」


 そう言って、猫背の老医師は語り始める。


「まず大神おおがみ正仁まさひとさん。君の症状を説明します。壊死えしした左の前腕部を切除しました。あと一歩でも処置が遅ければ肩から切断していたところです」


「……」


 かろうじて動く右手で、左の肩を触ってみる。ここも、無くなっていたかもしれない、なんて想像するだけでゾッとする。


「また右足の大腿部だいたいぶは裂傷が酷かったのですが、こちらは縫合ほうごうも終えています。しっかりとリハビリをすれば元のような生活にも戻れるでしょう」


 意識を向けた右足。掛け布団のせいで見えないが、太もものところがふくらんでいるのはたぶん包帯でぐるぐる巻きにされているんだろう。動かすこともできない。


「それでね……言いにくいことだけど、医者として言いますぞ」


 ここまでの怪我を告げられて、もっと酷いことがあるのか。


「あなた、薬物中毒状態です」


「は⁉」


 思わず乱暴に訊き返す。何を告げられたのか、理解が追い付かなくて。


「あなたの血液から危険な薬物の成分が検出されました。超常的なまでの筋肉繊維の活性化、痛覚の麻痺まひ、そこからくる恐怖心の喪失、おまけに極度の興奮からトランス状態の誘発まで……何かお分かりですかの?」


 ちょっと待て。それって、五月の事件で摘発された非合法薬物の性質と同じじゃないのか。それこそ赤マフラーが服用しているって考えられていたクスリ。


「ここ数年で若者が服用する割合が増えた脱法ドラッグ、その数倍の濃度をあなたはご自身の肉体に馴染なじませていたことになる。覚えはありますかな?」


「そんなことあるわけ……、ぁ」


 思い出すのは、緑の液体が詰まったカプセル。俺はそこに何度も浸かっている。


 最強のよろいを使うためには、宇宙飛行士と同様のトレーニングと薬品による肉体改造が好ましい、なんて言われて。その言葉を信じて、あの水槽の中に何度も身体を沈めた。


 ずっと仲間だと思っていたあの早乙女歩生明の口車に乗って。


「これから何度も後遺症に苦しめられるでしょうな。それこそ眠れない夜を過ごすこともあるかもしれません……大神正仁さん?」


「俺は……何をしていたんだ……」


 もう医者の声なんて聞こえていなかった。


 ただ震える自分の手を見つめるしかできなくて。


「正義だと思ってやったことが、実は犯罪者の言いなりになっていただけで……。姫澄きすみかたきを討つって息巻いていたくせに、そもそも事件の首謀者が目の前にいたのに気付きもしなくて……」


 言葉と共にボロボロとあふれる悔しさ。それでも、この口を止めることもできない。


「しかも、罠にかけたはずの相手に助けられて……何が正義だ……何が警察官だ!」


 思わず握り拳を額に当てるしかなくて。そのまま殴りつけようとしたが、うまく力が入らずに小さな振動を起こすだけ。


「親父に合わせる顔がねぇ……」


大神おおがみ義仁よしひと刑事にかい?」


 不意に聞こえたのは、父親のフルネーム。どうしてと訊くことにも頭が回らず、ただ顔をそっちに向けるしかなくて。


 そこには、まるで悪戯いたずら好きな子どもみたいな笑顔。


「いや、すまんのぉ。お父さんと君があんまり似ていたもんでなぁ」


「親父を、知ってるのか……?」


「忘れたくても忘れられるもんかい。夜中でも、この子を診察してくれって運び込まれることなんか日常茶飯事にちじょうさはんじだったからねぇ。こっちは外科医だって言っているのに、何でもいいから子どもも診てくれ、って聞かなくて困ったもんさ。ははは」


 なつかしさに笑っているんだと気付くまで一秒もかからず。自然とそのしわくちゃの顔に視線が釘付けにされていく。


「彼もよくそういう顔しておった。悪党どもを一斉に逮捕した後、黒銀くろかねの街を守る英雄だってニュースやなんかで騒がれていた時でさえ、ねぇ」


「それって……?」


 想像ができない。確かに親父はあんまり人前で笑わなかったけれど。それでも事件が解決した時にまで、そんな険しい顔をしていたなんて。


「二十五年前、隕石の破片がどうだっていざこざでね、研究者の家族が誘拐される事件は何度も起きた。その時に助け出された子どもたちに話を聞けば、結構な数の子が言ったもんさ」


「何を……?」


「赤いマフラーのひとはどこ、ってね」


 息が詰まる。


 そんなわけない。二十五年も前に、あいつがいたって言うのか。それも子どもを……あれ?


「その子たちが言うには、その赤いマフラーの男、悪い奴をあっという間にやっつけてしまったんだって。銃弾だろうが刀だろうが避けてかわしてキックで一発ノックアウト。で、警察が突入するときには、風みたいに消えてしまうんだと」


「それって……」


「ワシもな、夢を見ていたんだろうって解釈したとも。実際この街には『赤い外套がいとうの悪魔』なんて言い伝えがあるしのぉ。怖い思いをした子たちがそんな幻想で自分の心を守っていたと考えるのが妥当だとうだった」


 ただでさえ恐ろしい連中に連れ去られただけで相当な心的ストレスだ。その解釈が正しいとしか思えない。


「でもね……あの刑事さんは、それを聞く度に悔しそうな顔をしていたよ。思い出してみれば、彼の救出作戦のほとんどは警察側に怪我人はゼロ。組織同士の抗争を見越した動きって評されていたけれど、本人は納得しておらんようじゃった」


 確かに、親父の事件のファイルを見せてもらう機会で、異様に手際が良かったことに驚いた。てっきり、それだけ犯罪集団のことを熟知していて、それで作戦を立てていたからなんだと思っていた。


「ちょっと待ってくれよ。それじゃ、二十五年前にはもう赤マフラーがいて、親父はそれを知っていたってことか……?」


「さぁ?」


 肩をすくめて両手を挙げる老医師に、掴みかかりたい気持ちが湧くが、いかんせん起き上がれない。


「同一人物なのかもわからんし、そもそも実在したかも定かじゃない。むしろ今この街を騒がせている方が、当時の誰かを模倣していると考えるのが自然じゃないかね?」


 確かにそうだ。わざわざ目立つマフラーなんかしている理由があるとすれば、そういうメッセージだって方が納得できる。


 でも、だとしたら。


「どうしてあいつは何も言わないんだよ……自分はテロリストと戦っているんだって言ってくれれば……」


「君は、誰とも知れない人間が突拍子もないことを言っても、必ず耳を貸すのかい?」


 温厚さの中に混ざったのは、刃のように鋭い声音。


「誰よりも君が一番わかっているんじゃないのかねぇ? こんな大事件を起こした人間が警察内部で暗躍していたって事実を」


「ぁ……」


 考えてみれば、当たり前のことだった。


 五月の病院爆破も、六月のホテル襲撃も。全部、手を引いていたのはあの早乙女歩生明だって、本人が言っていたじゃないか。証明できるかは別としても、あの笑い声が何よりも説得力を持っていた。それを間近で感じたのは俺だったのに。


「君をこんな薬物中毒にして、イクスなんとかって鎧で戦わせていた相手だ。私がその赤マフラーなら、そいつに君の命を握られていると感じるし、直接言葉にするなんて愚行はしないと思うよ……いわば君を人質に取られた状態だったんだから」


 言葉にしてもらって、ようやく自分の置かれていた現実を知った。


 あいつが放った言葉の意味、やっとわかった気がする。


(本当にすべきことを見失うな)


 自分の正義を口に出せなくても、それでも俺に伝えようとしていたのかもしれない。


 本当にすべきこと……警察官として、刑事として、俺として……。


 それなのに。


「俺は……何もできなかったっていうのか……守りたいものも、守れずに……」


 悔やまれるのは、気付くのが遅すぎたこと。


 俺が守りたかったもの。生きていてくれるだけでいい、だなんて身勝手に想うだけで。ずっとそばで笑っていてほしかった相手だったくせに。


 あいつが笑ってくれたから、強がっていられたのに。


慈乃めぐの……」


 もう、会えないのか。


 涙なんか流していいわけないのに。俺にはその権利はないはずなのに。俺のせいで死なせたようなものなのに。


 それでも、視界をふさぐ大波は止めなく。




「正仁っ‼」




 ドアを蹴破るような音、それすらかき消すような声。


 聞き慣れたその声を、聞き間違えるわけもなく。無理な姿勢とわかっていても、痛む右腕を支えに起き上がる。


 チョコレート色の綺麗な髪も。高校の時から伸びていない背丈も。笑った時に見せるあどけなさも。全部そのままで。


「め……ぐの……?」


 俺の大切な人は、そこにいてくれた。


 ボロボロの泣き顔が迫ってくる。抱きしめられて、耳元にその吐息を感じる。


 ああ、この感じ。あの日、俺を救ってくれた温もりと同じだ。


「ごめん……正仁……アタシ……また……」


 聞こえてくるのは、謝罪の言葉。


 何か言い返してやりたいが、噛み締めた唇を解放したら、きっと今にこの瞳に溜まった濁流だくりゅうあふれていっちまう。


「マサ……!」


 立て続けに入ってきたのは、尊敬する先輩。


 かつては親父のバディで、今は俺の教育係でもある水早みはや亮介りょうすけさん。


「すまねぇ……すまねぇ……!!」


 俺達二人を包み込むように腕を回して。けれど口を突いて出るのはこっちも謝罪で。


「もっと早くに気付いていれば良かったんだ……あの早乙女の野郎が怪しいって、もっと調べておけば……お前をこんな目に遭わせずに済んだんだ……すまねぇ!」


 ダメだ、こんなの。


 耐えるのなんて無理に決まっている。


「俺が……悪かったんだ……ぜんぶ、俺が……」


 泣きじゃくりながら、素直な気持ちを口に出す。


「何もわかってなかった……もっとちゃんと……俺がしっかりしてたら……慈乃にも、水早さんにも、こんな想いさせなかったのに……!」


 いつぶりだろう、こんな風に泣くのは。


 親父の葬儀も、母親がいなくなった時も、こんな風に泣けなかった気がする。


 決壊したダムみたいに、三人の涙がベッドを濡らしていく。それでも止まらない嗚咽おえつの吐き合いはいったいどれほど続いたのか。


 結局、慈乃だけが最後まで泣いて。それでも、き物が落ちたような明るさが戻ってきてくれて。


「さてさて、そろそろワシも話をしても良いかね?」


 いつの間にか大きな箱を抱えて戻ってきた老医師が笑う。


「大神正仁さん。君が刑事に戻る気があるなら、これはワシと友人からの餞別せんべつじゃ」


 封を解かれた箱の中には、鈍くも銀色に輝く……腕。


「これ、義手、なのか……?」


「昔、海外の医療ボランティアで出会った男がいてね。彼が立ち上げた『ASHアシュ』という会社が造った傑作なんだとさ。強度、伸縮性、精密さ……使い手次第で、どれも生身の時と同じくらいにはなるだろうとさ。まあ、例の鎧には及ばんかもしれんがね」


 冗談めかした笑みを浮かべながらも、差し出された光は本物で。


「もちろん、これを使いこなすならリハビリはさらに長くなる。どんなに早く見積もっても半年間。脚のこともあるし、身体をおかす中毒とも戦わなければいけない。こんな目に遭った警察の仕事を辞めるならば、必要もないじゃろ。どうするね?」


 デメリットの説明中にこの老医師が見せる真剣な瞳が、訴えかけてくる。


 逃げても良いぞ、と。


 生半可なまはんかな覚悟じゃまた同じ目に遭うぞ、と。


「正仁……無理に続けなくても良いんだよ」


「そうだぜ、マサ。お前さんなら、どんな仕事でもやっていける。危険をおかしてまで警察に残る必要なんかない」


 心配してくれる二人の声に、胸がぎゅっと締まる。


 なくなった左腕がうずく。またあの痛みを繰り返すのか、またあんな風に裏切られてまで頑張る意味とは何だ。そう問いかけてくるようで。


(本当にすべきことを見失うな)


 脳裏で声がする。


 何度も追いかけて、いつも掴めない。その血赤のマフラーがちらつく。


「俺、やるよ」


「ほう?」


「俺が本当にすべきこと。そのためには刑事じゃなきゃダメなんだ」


 かたわらで息を呑む二人にも伝わるように、今の俺が出せる精一杯の声を絞り出す。


「何度裏切られても、俺たち警察官が折れちゃいけない。じゃなきゃ、この街の誰もが本当に幸せに笑う明日なんか来ないから」


 綺麗事きれいごとかもしれない。人の世には裏切ったり傷つけたりは自然なことで、こんな理想なんて微塵みじんに砕かれるのかもしれない。


 それでも。


「もう誰もあんな仮面に頼らなくていい街にするために……俺は刑事でいたい」


 これが俺の覚悟だ。


 いつかあいつが、仮面を脱いでいい街にする。もう、あんな風に戦わなくていいようにしてやるんだ。


 俺は俺として、自分にできることをやる。


 姫澄にできなかった分だけ、人を守って。


 親父にだって負けないくらい、踏ん張ってやるんだ。


「正仁」


「慈乃?」


「アタシも、支えるから」


 右手を握ってくれるのは、柔らかで温かな両手の熱。


「もう絶対に、離さないから……」


「俺も……」


 握り返す手に力が入らないのが情けない。


 それでも想いは伝わったのか、泣きらした目元が緩んでいくのがわかる。


 ああ、やっぱり慈乃は、笑っている方がいい。




「生きてて良かったねぇ」

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