EP06-肆:幼馴染の憂鬱


 夕暮れ時の公園。


 ブランコに腰かけたのなんて、いつ以来かな。


「アタシ、バカだ……」


 独りさみしく口に出した言葉が、冷たい風にさらわれて消えていく。


(もし神宮かみや様が、何か伝えたい人がいるのなら、どうか後悔などないよう……)


 脳裏をかすめる声。笑わないオッドアイの店員さんが言ってくれたこと、すごく心に響いた気がしたのに。


 結局、言いたいことがあったはずの幼馴染おさななじみには何も言えないまま、お店を飛び出してきてしまった。迫ってくる疑いの目が、怒りに燃えたあの眼が、怖くなって。そうさせてしまったのが自分なのもわかっているくせに。


「どうしたら良かったのかな……」


 昔から思い込んだら止まらない奴だって、知っていたはずなのに。


 そういえば、初めて会ったのも、この公園だった。


(おれ、おおきくなったらケイジになるんだ! とうさんみたいにカッコいいケイジ!)


 ジャングルジムの頂上まで登って、そんな夢と憧れを楽しそうに語る幼稚園児。刑事って何、って聞いてあきれられたっけ。


(まちをまもる、せいぎのみかたっ! すごいんだぞっ!)


 けどその言葉の通り、本当に正義の味方らしくなっていったもんね。


 弱い者いじめする奴は許さない。相手が何人でも、たとえ上級生でも、挑んでいく。


 困っている子がいたら放っておかない。すみで泣いてたって、必ず助けに来てくれる。


 そんなヒーローでいようとした男、大神おおがみ正仁まさひとこそアタシの幼馴染。


 うまくできなかったのは、小さな子をあやすことくらいだった。


 寺嶋てらしま姫澄きすみ


 中学校に上がった頃のアタシが時々お世話することになった女の子。八歳も年齢が違っていたことより、いつも何かにおびえているあの様子には苦労したっけ。泣くことこそなかったけれど、常に大人を警戒しているって感じで。


 聞けば、親を亡くして養護施設にいたところを、寺嶋プロダクションの社長夫妻に引き取られたばかりだったみたいで。それなのに、新しい両親が仕事で忙しい時はうちに預けられて。


 昔からそれなりに広い一軒家だったからか、近所の子をちょっと預かることが多いのが我が家で。刑事である正仁のお父さんにも同じように息子と仲良くしてくれってお願いされていたし、姫澄ちゃんのこともアタシはその延長って気分だったけど。


 今思えば、姫澄ちゃんは嫌だったのかな。最初の頃は全然笑わなかったし。それこそ人形みたいに動かなくって。まるで、心をどこかに置き忘れてしまったようで。


 それでも笑うようになったのは、たぶん正仁のおかげ。


(黙ったままじゃ、何も伝わらねぇぞ)


 何も言えないでいるあの子に、あいつがぐに向き合ってくれて。あんなぶっきらぼうな言い方じゃ怖がって泣いちゃうかと思ったのに。どういうわけなのか、それからの姫澄ちゃんは、頑張って言葉を出すようになってくれて。


 何があの子に響いたのかは、今でもわからない。


 でも、何を感じているのか言ってくれるようになってからは、お世話もやりやすくなったのは事実で。


 そうして同じ時間をたくさん過ごすうちにだんだん笑顔も増えていって。


(いい顔するようになったな!)


 あやすのは下手っぴのくせに、一丁前にそんなこと言っちゃうんだもんな。


 でも、そんなところも含めて、好きだった。


 ううん。今でもこの気持ちは変わらない。あいつは鈍感だから、たぶん気付いてないだろうけれど。


 それなのに。


 七年前、アタシのせいで正仁のお父さんは死んでしまった。助けてくれたのに、アタシは何の恩返しもできないままで。おまけに今回は、正仁のことも怒らせて。


 信じてなんて言えない。


 ただの悪夢。仕事で疲れているアタシが見た不安の表れ。あの早乙女さおとめ歩生明あるふぁって人と会ったのが、たまたま嫌な思い出しかない警察病院で。だから何となく怖い印象があっただけ。それがきっかけで夢に出てくるだけなんだ。


 そう思い込もうとする度、あの悪夢は現実味を帯びてアタシに忍び寄ってくる。


 倒れた正仁の背中は、生々しい赤と黒に染まって。見る日によっては腕や脚が曲がってはいけない方向に折れていて。


 でも何より、涙を流すあの顔。悔しさと悲しさで今にも叫び出したいのに、何も言えなくなったような苦痛の表情。


 どうして、そんな夢を見るんだろう。何度も考えたけれど、やっぱり答えはなくて。


 一番に近いのは、きっと小学校の頃のあいつの顔だ。離婚したお母さんが出ていってしまって、必死に強がっていた時の顔。泣く寸前でこらえているけれど、それでもふとした瞬間に見せた、寂しさを帯びた素顔。


 いつからあいつは、弱音を言わなくなったのかな。


(正義の味方が泣いてたらダメだから……俺は泣かねぇ……父さんみたいに強くなる)


 気付けば、そう口に出していることもあったっけ。


 きっと自分に言い聞かせていたんだ。お母さんがいなくなったのは、正義のために働いていたお父さんのせいじゃないって。


 今でも、どうして正仁のお母さんが息子を連れていかなかったのか、その理由はわからない。うちの両親にいても、夫婦でもわかりあえないことだってある、としか言ってくれなくて。


 今は実際、教師って役職になってみて、いろんな家庭の事情も知ったけれど。どれに当てはまるのか。


 仕事一筋で家族を大切にしてくれない夫に嫌気がさしたとか。子育てを押し付けるだけで身勝手な父親なんかに子どもと一緒にいて欲しくないとか。子どもができた途端に浮気性が露呈した男なんて見限ってシングルマザーとなって育てているとか。


 でもこれ全部、夫が悪いパターンなんだよな。むしろ可愛い我が子を守るために、ってお母さんの方が多い。


 授業参観や三者面談にお父さんが来る割合も増えたってベテランの先生たちは言うけれど。それでもほんの一握りなのは変わらない。むしろお母さんがいない生徒のほとんどが正仁みたいなタイプじゃない。しっかり者というか、大人しいというか。


「わかんないや……」


 独りでいくら考えても、答えなんか出るわけない。わかっていても、考えてしまうのはアタシの悪いくせだ。


 空はすっかりあかね色を失くして、暗闇におおわれ始めている。


「お店、もう営業時間じゃないよね……今度、おびにいかないと……」


 あのアルバイトの男の子には悪いことしちゃったし。目の前で幼馴染同士のケンカなんか見せられちゃって困っただろうな。何かお菓子でも持っていくか。


 そういえば。彼を見ていると、どうしてか正仁のお父さんを思い出す自分がいた。


 顔の感じ、じゃない。当たり前かもしれないけれど、正仁の方がお父さんに似てきている。けれど雰囲気はアルバイトくんの方が近い気がする。


 笑わないから、かな。正仁のお父さんも、ほとんど笑わない人だったし。凶悪犯罪を取り締まる刑事だったから、って彼を知る人たちは言うけれど。


 もしかしたら、あのお父さんもまた、正仁みたいに強がっていたのかもしれない。


 誰かを守るためには強くないといけない。だから泣いている弱い姿を見せられない。どんなにつらくても、負けられない。


 そうだったなら、余計に悲しい。妻にも息子にも弱音を吐けないまま、別れの言葉すら交わせなかったなんて。


(生き残った人間は、ただ信じるしかない)


 なら、あの店員さんも。


 きっと言いたくても言えなかったたくさんのことを、ずっと抱えていくんだろうな。


 それは、正仁も同じなのかな……。


「正仁……」




神宮かみや慈乃めぐのさん、ですね?」




 不意に呼ばれた名前に振り返って。


「っ⁉」


 ぎょっとする。


 その姿は、アタシの悪夢に出てくる怖い人。


「早乙女……さん?」


「おや、覚えていてくださったなんて光栄ですね」


「あの、アタシ、もう帰りますか……ら……?」


 突然に、世界が揺らぐ。


 目の前にいたはずの相手が見えなくなって、どうしてかアタシは足に力が入らなくなって。


 変な臭いがする。普通の薬品とは違う、明らかな異臭。


 それにこの不思議な浮遊感。これ、持ち上げられてるんだ。それも米俵こめだわらでも担ぐみたいに、乱雑に。


 あれ。ちょっと待って。この感覚、どこかで……。


「もしもし、大神刑事ですか。例のエサに赤マフラー側が引っ掛かったようなので。こちらも準備をいたしましょう」


 待ってよ。


 どういう意味なの。


「今夜こそ、私たちの勝利の凱歌がいかが響きそうですね」


 なんとか視線だけを動かす。


 状況を確認しなくちゃ。どうしてこの人がアタシを連れていこうとしているのか聞かなくちゃ。


 けれど。公園のミラーに映った男の顔を見た瞬間、そんな思考の全てが吹き飛んだ。


「ふふっ……」


 この笑顔を、どうして恐れていたのか思い出した。


 アタシはこの顔を知っている。アタシ自身が、自分を守るために心の奥深い底に沈めていたはずの記憶が浮かび上がってくる。


 七年前、拉致された場所で見たあの残酷な笑みと舌なめずり……。


 こいつは、アタシを拉致した奴らの一人だ。


 ダメ。助けを呼ばなきゃ。やっぱり正仁が危ない。


 お願い、誰か。こいつの悪意に気付いて。誰か、誰か、誰か。


 そんな気持ちとは裏腹に、アタシの意識は薄れていって……。


「さて……今夜は最高のショーになりそうだ」


 最後に聞いたその声が、また悪夢へと誘う。


 誰か。


 この悪夢を、止めて……。

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