EP06-弐:悪夢と依頼とカカオの芳香


 喫茶店『かざみどり』は、今日もコーヒーの香りがする店だ。


 オレがこうして黒いしずくをカップに落とすと、湯気に乗ってこうばしい匂いが鼻をくすぐる。秋めいて涼しくなってきたこの頃は、客が居なくてもこれだけで落ち着ける。


 そう思っていた日曜日。


 開店時間になると同時に現れた客人たちによって、そんな時間はかき消された。


「それで、神宮かみや慈乃めぐのさん……?」


「はい」


 奥の席で向かい合うのは、二人。


 片や、名探偵を自称する迷探偵……橋端はしば三平さんぺい


 げ茶色でチェック柄のスーツと帽子が「そうです、私が探偵なのです」と嫌というほど訴えてくる。六月の終わり以後、まるで顔を見せなかったくせに。平常運転とばかりに事件の依頼に応じていやがる。


 片や、依頼を持ってきた女性。


 チョコレート色につやめく髪が肩周りでふわりとねる。濃紺のうこんのデニム生地で仕立てられた上着と淡い栗色のロングスカート、そしてブーツという服飾。遊びざかりの二十代らしさと落ち着きの狭間はざまを感じる。


 しかし、この鼻腔びこうを刺す匂いはカカオ。それも甘味としてではない、原料そのままの香りだ。


「調査してほしい人、というのは?」


 あのバカ正直な探偵が何食わぬ顔で話しているところからして、この場の誰も異変は感じていないらしい。


 もはや人間ではないオレを除いては、ということになるが。


 つまりそれは、彼女が敵の狙う〈当たり〉という存在であるという、何よりの証明。


「実は、この人で……」


 緊張した面持ちで差し出された一枚の写真。指で示されたのは、一人の男性。


 おい、待て。その男は、まさか……。


「眼鏡に高そうな背広……こりゃいかにもいけ好かな……じゃなくて、なかなかインテリでお金持ちそうな方ですが? もしかして、婚約相手とか?」


「いいえ。幼馴染おさななじみの同僚で……早乙女さおとめ歩生明あるふぁさんって言うそうです」


 間違いない。オレたちが追う〈スポンサー〉、その組織に最も近い敵の一人。街を陰から牛耳ぎゅうじり、警察さえ身動きが取れないように操る悪魔。師匠がたおしたはずで、今はオレが立ち向かうべき白マントの怪人……〈ネクロ〉だ。


「では、その幼馴染さんの恋人さん?」


「いやいや、正仁まさひと……幼馴染っていうのは男で、この街の刑事をしていて……」


 マサヒト、という音に引っかかりを覚える。


 まさか、大神おおがみ正仁まさひとではないだろうか。もしそうなら、彼女も〈ネクロ〉の標的になりかねない。


 あの怪人は早乙女歩生明という名前で警察組織にせきを置いているらしい。おそらく都合の悪い情報をみ消す役割なのだろう。下手をすれば、この街の裏側を調べる警察官を闇討ちするような仕事もしているかもしれない。


 そんな悪魔のてのひらで転がされているのが大神正仁。笑顔で巧妙に隠した正体など知らないまま、正義に燃える熱血漢は拳を握っている。


 自分自身の首に刃が突き付けられているかもしれないのに。


 あの怪人のことだ。彼の正義感をもてあそんで愉悦を味わい尽くした後で絶望へ誘うということも考えられる。そのために〈X4イクス・フォー〉なんて過ぎた力を与えているとすれば納得できる。


 もちろん、オレや師匠に用いられたサイボーグ技術の図面を引いたオーナーへの嫌がらせでもあるだろう。


 どちらにしろ、オレたちに喧嘩けんかを売っていることだけは変わらない事実だ。


「刑事……? 断っておきますが、警察ってのはね、採用する人材は入念に身辺調査されるそうですよ。いくら名探偵と言っても、わざわざ吾輩わがはいに調査を頼むようなことはないんじゃないですかね……?」


 おい、ヘッポコ探偵。面倒事っぽいから関わりたくないって顔をするな。


 実際にそうだったとしても、その入念に調べる側が最初から出来できレースをしている可能性はある。今も〈スポンサー〉が〈獣核ゲノム・コア〉の情報を隠し通していられるのは、そういう理由も大きいのだろう。


 つまり、警察内部で情報統制する奴がいる。


 それが〈ネクロ〉だけなのか、他にも大勢いるのかさえ、オレにはわからないが。少なくとも早乙女と名乗っているあの男が、その一人であることは間違いない。


「それなんですけど。実はアタシ、先月この人に初めて会って……それ以来、何度も怖い夢を見るようになって……」


「夢? 夜に見る、夢ですかい?」


 躊躇ためらいがちの表情でコーヒーカップを見つめる依頼者。自分でも疲れているだけかと思った、なんてにごしているが、その顔は本当にショックを受けている人間の顔で。


 ぎゅっと結んだ口元。それを見つめるオレたちの視線をよそに、無音の時間だけが過ぎていく。


「死んじゃうんです……正仁が」


 ぽつりとこぼれだした言葉に、冷たいものが背筋を走り抜ける。


「さっき言ってた幼馴染さんが、ですかい?」


「それも、血塗ちまみれで……。アタシ、見ているだけで、何もできなくて……。その横で、この早乙女歩生明って人が、嬉しそうに高笑いしてて……」


 情景が頭の中で勝手に再生される。


 与えておいた力を暴走させた結果か、それとも〈ネクロ〉本人が直接その手を下すのか。どちらにしても、唐突な裏切りに手も足も出ないまま殺されるあの刑事の姿は、あまりに容易に脳裏でイメージできてしまって。


 今、何も触っていなくて良かった。カップだろうがスプーンだろうが、無意識に壊していたかもしれない。


「で、でも……夢だったんでしょう? ていうか、その幼馴染さんには話してないんですかい?」


「夢を見た朝は、いつも手が震えちゃって。正仁の先輩刑事さんにもそれとなく探りは入れてきたんですけど、普通に出勤してるって……」


 先輩刑事、というのは〈スポンサー〉側か、それとも何も知らないただの刑事か。それによっても反応は変わってくるだろうが。そこも調べておいて損はなさそうな気がする。地下のオーナーに一報しておくことにしよう。


「それでも今朝は何とか直接メッセージを送れて! 仕事が忙しいみたいな返事はあったし、やっぱり大丈夫かと思ったんですけど。だけど……」


「だけど?」


「やっぱり怖くて……」


 揺れる瞳が訴えかけてくる。


 怖くないわけない。


 ほとんど無関係なオレでさえ、そんなことをする邪悪には思わず拳を握りそうになるのなら。殺し合いの世界など無縁の女性からすれば、幼馴染のむごたらしい死というだけで強烈な恐怖に相違ない。


「だから調べて欲しいのは、この人にそんな悪いことできないって確証だけで……ダメですか?」


「むむむ……まあ、でも、そのくらいなら、しょっぴかれたりはしないか……いや、でもなぁ……むむむ?」


 何をぶつくさ言っているんだ。下手なところに突っ込んで逮捕されるとか、そういうことを恐れているのか。


 いや、これをヘタレと言うのは流石さすがに酷だろうな。この街に潜む〈スポンサー〉も含めた権力者にとって、立ち向かう奴はたいていが邪魔者だ。いくら並外れた生命力を持つこの探偵でも、社会的に潰されかねないリスクを考えるのは自然か。


「やっぱり、ダメですよね。いいんです、ごめんなさい。アタシ、帰ります」


 立ち上がった彼女は、足早にドアへと歩を進めようとした。


「神宮様」


「え……?」


 気付けば、オレは彼女の前に立っていた。


 我ながらバカなことをしたと後悔がやってくる。何も引き留める言い訳がないのに。


 だが、今ここで帰すことはできない。


「探偵さんならきっと神宮様が恐怖する夢に答えを出してくれると思います」


「え? でも……」


 ここまで来たら自棄やけでも何でもいい。振り返る瞬間など与えるものか。


 驚く彼女とオレの行動に面食らう探偵の間に滑り込む。


「そうですよね? ツケを溜めがちで茶目ちゃめっ気たっぷりながら、しかし超が付くほどの名探偵、橋端三平様?」


 眼力をめろ。おいコラそこでコーヒーカップを落としそうになった探偵。お前のツケがどれだけ溜まっているか忘れたわけじゃあるまい。さっさと動け。


「ちょっと少年、怖い言い方しないでよ⁉」


「まさか涙する女性を放ってコーヒーに舌鼓したづつみなんて、名探偵ならしませんよね?」


「ぐはっ……そんな言い方されたら、やらなきゃいけない気がするぅっ⁉」


 今だな。左手からそっと〈クモ〉を放つ。狙いはもちろん依頼人の方。服の下にこっそりと忍び込んだオレのもう一つの目と耳が何かしら情報を掴むことを信じよう。


「ええぃ、わかりましたよ! 男☆橋端三平、この調査、請け負いましたぞ‼」


「本当ですか……?」


「男に二言はありませんっ! まあ、見ていてください。そんな優男やさおとこの素性の一つや二つ、軽~く調べてやりますよ!」


 よく言った、ヘッポコ探偵。


 まあ、そっちには特に期待してないが。ただ彼女がこの店に来る口実が欲しいだけだから。


 しかし最悪の場合、彼女をここにかくまうことも考えるべきか。あの〈ネクロ〉が狙っている人間である可能性が高いなら、この人だって攻撃対象の外にいるとは限らない。


 むしろ。


(ねー、その子、食べちゃいなよ!)


 あの七月の戦いで〈リトロ〉と名乗った敵が放った言葉を思い出す。


 オレにしか感知できない香りをかもす〈当たり〉と呼ばれる人間を、奴は喰えと言った。喰うことで力を得られるという趣旨の発言。腹の底に埋まったオレ自身の〈コア〉がそれを肯定するように語りかけてきたことからも、きっと嘘ではないのだろう。


 つまり、彼女も同じようにオレたち〈実験体〉が喰らうことで意味を持つのなら。その中でも上位の強さを誇る〈ネクロ〉であっても欲するという仮説は成り立つはず。


 ならば。


「ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 直角に程近い角度で身体を曲げて頭を下げる女性の背中を見つめる。


 この人も奴らに渡してはいけない相手だろう。敵の戦力が増長するのも厄介だが、それよりも。


 大神正仁同様、この街で笑って過ごすべき一人だ。できるなら、殺させたくない。


 たとえオレが「殺戮兵器」であっても。その殺意が向く先だけは、もう二度と間違えてなるものか。


 急がなければならない。〈X4イクス・フォー〉攻略のシミュレーションは続けているが、もっと詰めておくべきだ。それこそ、どんな卑劣な罠を仕掛けてくるかもわからない。いかなる状況でも対応できる心構えだけはしておかなければ。


 左足が熱い。


 待機中の〈バッタ〉がうずいている。


 わかっている。お前が頼りだ。どれだけ強い敵でも、お前さえいれば負けはしない。


 師匠と同じ武装で、初めての戦いからずっとオレを支え続けてくれる相棒。攻撃力では右側の〈ハチ〉や〈カマキリ〉には敵わず、情報収集能力なら〈クモ〉には及ばないけれど。


 それでもオレの特別だ。


 これまでとは違う。殺すわけにはいかない相手との戦いだ。しかし今までの戦闘では例を見ないほどの威力を出せる白銀の武装。


 この街を守りたいと叫ぶ熱い刑事を、〈ネクロ〉の手から救うため。


 どうか、今度も力を貸してくれ。

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