EP05-伍:届かぬ声の、その先に


「今日から皆さんの副担任をすることになった、獅子内ししうちひらくです。よろしく!」


 始まりの季節に出会ったのは、私……鹿本しかもとつむぎの初めての恋。


 子供みたいに笑う新米教師の挨拶から、つまらない日々は変わり始めた。


 名前には百獣の王が入っているのに、どっちかと言えばお馬さんって感じの人で。リアクションが大きくて授業中はまるでびはねてるみたい。身長の高い彼がそんな風にするのが、なんだか可笑おかしくて、でも可愛くて。


 見ているだけで楽しい人というのは、それだけで価値がある。小学生の頃からあんなに嫌だった英語の授業がこんなに待ち遠しくなるんだもの。すごいことだ。


 けど、いくら先生が変わっても、急に勉強ができたりはしない。


「これは一年生の時に習ったと思うけど、わかる人~?」


 そう言われる度に、覚えてないや、と心の中でつぶやいた。わからないことが多いのは、やっぱりいい気分にはならない。


 でもそんなことより。この人をもっと見られないものか。そんなことばかり考えるようになっていた。


 うちの部活、まるで顧問が変わる気配はなし。彼の部活、うちの部活とまったく接点無し。くそぉ、文芸部やめてバドミントン部にしとけば~、なんてボヤいたら三年生の先輩たちに笑われてしまった。うぅ。


 そうして四月の終わり頃、思い切って職員室に突撃した。大義名分は「ここがわかりません、教えてください!」で。


 正直、追い返される覚悟でいたけれど。


「いいぞ。どこで詰まった?」


 意外なほどにあっさりと応えてくれて。空き教室で、懇切丁寧に一年生の内容を教えてくれる彼に、また嬉しくなった。


「ここがわかんないままだったなら、今やってるとこ、ついていくの大変だったろ? ごめんな、気付けなくて」


 困ったような顔で謝っている。それが何だか不思議で。けれど、彼のそんなところも好きだった。


 そうしてゴールデンウィークに入るまで、部活のない日は補習をしてもらった。毎回、暑いから開けといていいか、って窓もドアも開けるのがお決まりで。


 二人きりの秘密の授業みたいで楽しくて。こんな素敵な時間がずっと続けばいいなって思ってしまった。


 しかし、それどころじゃない事件が起きた。


 父が死んだ。


 勤めていた太合たいごう総合病院がテロに遭って。


 爆破された別館にいた患者さんもお見舞いに来た人たちも、もちろん看護師さんやお医者さんも、ほとんど死んでしまったらしい。


 そこから焼死体になって帰ってきたお父さんの死に実感が持てなくて。けれど、隣で泣いているお母さんの背中をさすっているうちに、本当にもう二度と会えないんだと理解するしかなくて。


 犯人は赤いマフラーをした薬物中毒者だってニュースになった。裁判さえ起こせないほど、精神が狂っていたそうで。


 どうして、悪いことをした人が裁かれないのに、何も悪いことをしていない人が死ななければいけないんだろう。そんなことを考える日々が続いた。


 定期テストにも身が入らなくて散々な点数だったけど、誰も何も言わなかった。


 彼を除いては。


「鹿本。次の期末テスト、平均点を超えたら何でも一つ願い事を聞いてやる」


 放課後の部室、鍵をかけて帰ろうとしたところで、やってきた先生がそう言った。


 何を言われたのか、最初は全然わからなくて。


「いや、もちろん寿司だのゲーム機だのって、金のかかるものは出世払いな! ほら、俺もそんなに金に余裕はないからさ」


 冗談交じりに言いながらも、私を元気づけようとしている気持ちが伝わってきて。


 どうして。


 そんな言葉が、この口から滑り落ちてしまって。優しい人だからそう言ったのだと、わかっていたはずだったのに。


 すると彼は真剣な表情になって、答えてくれた。


「俺も昔、妹をテロで亡くした」


 声も出なかった。ただ息を呑むのが精一杯で。


「七年前、ある研究所で起きた爆破テロでな。警官にも死人が出るほどの事件だった」


 私がまだ小さい頃の事件だからか、記憶にはない。でもこの人のまっすぐな瞳が、嘘をついているようには見えなくて。


「あの時、ただの高校生だった俺には何もできなくて。でも、その時の担任がさ、勉強だけはしっかりやれ、って言ってくれてさ。妹の分まで俺がちゃんと生き抜くことが、何よりの供養くようになるからって……」


 少し涙ぐんだ彼の瞳が、あまりにキレイで。


 私まで、目頭が熱くなっていくのを感じてしまった。


「だから先生になるって決めたんだ。妹は学校の先生になるのが夢だったから」


 きっと何かを思い出しながら話しているんだろう。


 もしかしたら、死んだ妹さんの姿を見ているのかもしれない。


「最初は自信なかったけど、今は先生になって良かったって思うよ。鹿本みたいないい子に会えたからな」


 くしゃりと笑ってそう言う彼に、私は救われた。


 そう確信できるほど泣いてしまった。


 それからは、前を向いて頑張るって決めた。


 うちの文芸部は、十一月の文化祭に向けて作品を書く。まずはそこだ。


 授業で題材になっていた手話が気になって、指文字というのを知った。手と指の形だけでひらがな五十音を表現できるらしい。これを使ったトリックとかどうだろう。お父さんは推理もの好きだったし。


 私が元気を取り戻したおかげか、お母さんにも笑顔が増えてきた。苦手だった家事でさえ、一緒にやることが楽しいと思えた。


 そうして六月に入った頃。


「紬ちゃん、今月末の期末テストが終わったら、これに行かない?」


 手渡されたのは、なかなか手に入らないチケット。ブライダル・ドレス・フェア、花嫁衣裳の祭典なんて呼ばれるイベント会場の入場券だった。


「勤め先で行けなくなった人がいるって聞いたから貰ってきちゃった。もったいないし二人で行こうよ」


 あの人気モデルを間近で見られるなんて。二つ返事で行きたいと答えて、また頑張る気力をもらえた。


 採点されたテストは土日を挟んでから返却が始まるから、獅子内先生にお願い事を聞いてもらえるかは来週のお楽しみ。テストが終わった解放感に浸りつつ、日曜日はお母さんと一緒に出掛けた。


 でも、今にして思えば。


 あの時、行かなくていいって言ってさえいれば……運命は変わったのかな。


 イベント会場になっていた黒銀くろかねプリンセスホテルは、地獄になった。


 ショーの合間、休憩時間にトイレに立った私の耳に突如として鳴り響いた警報と避難を促す大声。何事かと廊下に出た途端に見えたのは、倒れ伏した誰か。


 ついさっき、待っているからねと笑っていたはずのお母さんが倒れている。胸からは細い煙が立ち上っていて。


「セラちゃん……ふふふ」


 聞き間違いだと叫びたかった。けれど、何度もインタビューで聞いたその声を、大切な後輩への愛情を込めた呼び方を間違えるわけもなくて。


 そこにいた怪物は、私が憧れた寺嶋てらしま姫澄きすみその人だと理解してしまった。


 母親を殺したのが誰なのかと思い至った瞬間。


「邪魔」


 冷徹な声と共に、胸に衝撃。


 天井を見つめながら、ひりひりとした感覚。そのまま身体中にびりびりと痛いくらいのしびれが伝わって。最後には口から血が噴き出した。


 痛くて、怖くて、寒くて。


 必死に手を伸ばしたけれど、何も掴むことはできなくて。




 気付くと、私は薄暗い保健室を見ていた。


 違う、ここは病院だ。個室なのか、誰かがベッドで眠っている。


 どうしてか私は、天井からこの様を見下ろしていて。よくよく目を凝らしてみると、そこに寝ている顔には見覚えがあって。思わず息を呑む。


 だってそれは、他の誰でもなく。


――私?


 ガラガラと、ドアが開く。


 振り向いた先には、あまりに暗い顔をした男の人。


 花束を手にして立っているからお見舞いかな。


――獅子内先生?


 くしゃりとしたあの笑顔がなくて、気付くのに時間が掛かってしまった。


 待ってよ。これは夢だ、そうだと言ってほしい。でなければ、どうして先生がこんな悲しい顔でいるの。あの笑顔はどこ行ったの。


「鹿本……テスト、平均点どころか八十点だったぞ。すごいじゃないか」


 嬉しい言葉の並びだったはずなのに、哀しい気持ちにしかならなくて。だって先生が今にも泣きそうな声で言うんだもの。嬉しくなんかなれないよ。


「約束しただろ。願い事、言ってくれよ……何でもしてやるからさ……」


 覚えていてくれたことの嬉しさよりも、胸に湧き上がった気持ちの方が勝る。


――なら先生、笑って。


 けれど、いくら呼んでも先生はこちらに気付きもしない。


「頼む、起きてくれ。ツムみたいな……死んだ妹みたいな、こんな終わり方、しないでくれよ……」


 彼が掴んだベッドのシーツが、どんどんゆがんでいく。


 それなのに、その指先で眠る私は、何も答えはしなくて。点滴と呼吸器で生かされているらしい身体は、ただかすかな吐息を返すだけ。


「またかよ……なんで頑張ってる奴ばっかり、奪われなきゃいけないんだよ……」




「クク……、力が欲しいかね?」




 身震いするような冷たい声が響いた。


 まるで昔話に出てくる悪い魔法使いみたいな、しわがれた声。それなのに、触れただけで殺されてしまいそうな脅威に満ちた声。


「あんた……?」


「カカ……! これは失礼。我が名は〈ホロウ〉。悪と戦う正義の使者、とだけ言っておこうか」


 部屋の隅。その陰の中から現れたのは、白のスーツに赤黒のマント。そして顔には鼻の長い仮面。怪人という言葉しか出てこない、不気味な何か。


「フム……、可哀想かわいそうなお嬢さんだ」


「え……?」


「アァ……、赤マフラーさえ倒せれば、目覚めるというのに」


「本当か⁉」


 掴みかかるような勢いで、怪しい男にすがりつく先生は、今まで見たこともないような必死さで。


 それが私の為だという嬉しさより、この怪物が先生を食べてしまうんじゃないかと怖さが勝る。


「ウム……、奴は呪いを振り撒いた。ただ殺すだけに飽き足らず、ゆっくりと死にむしばまれる呪いだ。しかしこの少女は必死にあらがっている。生きようとしている!」


「生きようと……」


「フム……、だが、長くは保つまい」


「っ⁉」


「アァ……、赤マフラーを討ち、その腹から〈コア〉を奪い返せば救えるのに。奴に戦いを挑んだ者たちはことごとく敗れ去った。無念よな……」


 嘘だ。


 直感的にそう思った。


 そもそも、私やお母さんを殺した相手は、首に何も巻いていなかった。それとも寺嶋姫澄が赤マフラーだって言いたいの?


 ううん、違う。だまそうとしているだけ。


「なぁ、俺にできることはないか⁉」


「ホゥ……?」


「この子は大事な生徒で……まるで死んだ妹みたいに思ってて……助けたいんだよ!」


 そっか。私、先生の妹さんに似てるんだ。だから優しかったのかな。


 でも。


「フム……、しかし奴と戦うには、強大な力が必要だ。君にそれを受け入れる覚悟はあるかね?」


「ある! 誰もできないっていうなら、俺がこの子を助ける‼」


 ダメ。やめて。先生の優しさにつけこんで、悪いことをする気だよ。


「クク……、良い覚悟だ。君こそが、最後の希望となるだろう」


 やめて。待って。行かないで……


 先生!




 声はやっぱり届かなかった。




 そうして先生は、怪物にされてしまった。


 いろんな生き物をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような、獣。


 気付けば本当にあの赤マフラーを相手に戦っていて。けれど力を使う度に先生はどんどんつらそうになっていって。


DOLPHINドルフィン


 超音波が銀色の仮面を直撃した瞬間、私はその仮面の中に吸い込まれた。


 そこで見たのは、ひどい地獄。


 赤マフラーと呼ばれて戦う人の過去。家族を亡くして、笑顔を失って。大好きな親友とその家族をも奪われて、助けてくれた師匠まで救えなくて。


 それでも本当の悪に立ち向かうと誓った人。その戦いの中で、テロリストの汚名を着せられただけ。


 太合総合病院の一件、彼は一人も殺したくなんかなかったんだ。けれど、人質にされた患者さんたちは助けようがなくて。たぶんこの時には私のお父さんも……。


 あの場で一人でも助けようと女の子を爆発から守って脱出したのに。そんな状況を知らない警察官たちから銃を向けられて。それでもその子を家族に返してあげて。


 プリンセスホテルに現れた寺嶋姫澄も、〈ネクロ〉っていう悪者のせいであんな姿になったらしい。だけどこの人は、彼女を止めたくてあの場にやって来た。それでも遅すぎた。殺すしかないほど、彼女は壊れてしまっていて。


 きっと私は、その時に殺されかけたんだ。あれ……なら、お母さんは……。


 切り替わった場面、ニュース番組に映し出される「黒銀プリンセスホテルでの死亡者」の文言。その中に母親と同じ名前が見えて、哀しいけど納得してしまった。


 赤マフラーの正体……この南野みなみの光一こういちって人が画面を見ながら奥歯を噛み締める感触まで伝わってきて。


 本当に誰も死なせたくなかったんだ。面識なんかなくても理解できる。この人、先生とおんなじ優しい人だ。


 不意に、世界が暗闇におおわれて。そこで初めて、彼が私を見ていることに気付いた。


 もしかしたら、今なら私の想いを伝えられるかもしれない。どうかこの願いを聞いてほしい。


――先生を、止めて。


 しかし彼は首を傾げるだけ。まるで、何を言っているか聞こえなかったみたいで。


 そっか。私の声はもう、誰にも届かないんだ。


 それでも諦めたくなくて、手と指を使って文字を作る。そしてもう一度、口を大きく開けながら、メッセージを必死に届ける。気付いて、お願い。


 けれど彼の目が納得の色を見せることもなく、私はまた放り出された。


 たぶん、今の私は幽霊みたいなもので。けど人を呪い殺すどころか、言葉を届けることさえできない幻みたいな存在らしい。


 だから。


「足りない……もっと、喰わないと……」


 先生が誰の喉元のどもとに噛みついていても、止められない。


 明かりもけられないくせに内装ばっかり豪華なホテルの一室で、ただフワフワと浮かぶしかないのがもどかしい。


 昨日の夜明け前、この黒銀プリンセスホテルにやってきた警察の人。確か、交番に立っているのを見たことがある。今は、ただの死体でしかないけれど。


 先生がこの最上階の部屋を根城にし始めたときから疑っていたみたいで。けれど怪物の力には抵抗なんかできなくて、捕まってしまった。


「ぅう゛……違うッ!」


 美味しそうに味わっていたはずの相手を、思い切り壁に叩きつける。部屋中に響いた声まで、苦々しくて。


 まるでかきむしるように両手で頭を抱える先生は、涙を流しながら血のしたたったままの口を開く。


「助ける……あいつを倒して……ごふっ……」


 苦しそうに吐き出した血は、どちらのものだろう。捕食者である先生か、それとも被食者の警察官のものか。


 どっちにしろ、こんな怪物として生きていくのはもう無理だ。発作的に肉を求めるケダモノと、それをすぐさま否定する先生の心が、両立するわけない。


 人を殺してしまった現実さえ、敵意や怒りで塗り潰して目を背けないといけないこの人が、これ以上誰も殺していいわけない。


――もう、やめて。


 届かないとわかっていても。叫ばずにはいられなくて。


――こんな先生、もう見たくないよ。


「鹿本……?」


 不意に、こちらに振り返る視線。


 想いが通じたのかと、涙が込み上げてきて。


 そして。


「大丈夫……絶対に助けるから……赤マフラーの次は無能な警察だ……〈ホロウ〉ってやつが言ってた……あいつらも同罪……お前のために絶対に殺してやるから……」


 誰も映っていないガラス窓に話しかけて。深夜であっても多くの光を反射する透明な板にほおこすり付けながら笑っていて。


 そんな彼を、私はただ見ていることしかできず。


 すぐ後ろにいる私に気付きもしない彼に、どうしたら伝わるのか。


 いや、もう何もかも手遅れだ。


 そっと、私は部屋を後にした。幽霊だからドアだって音もなく透過できる。だから気付いてもらえない。


――助けてよ。


 独りつぶやく声さえ、きっと誰にも届きはしない。あふれ出した涙すら地面に辿たどり着く前に消えてしまうんだから。それなのに視界はゆがむばかりで、嫌になる。


――止めてよ。誰か……。




『ミッションコード……変身』




 声がした。


 冷たくて怖いのに、なぜか胸が温かくなるような、不思議な声。


 見上げる先には、銀の仮面と赤いマフラー。


 その血の色をした大きな瞳が、まっすぐに向けられて。


 まるで私が視えているように、目の前で立ち止まって。


 手と指でサイン。たった五回、簡単な指文字の連なり。それが示した言葉は。




――と、め、に、き、た――




 口元が見えないから、本当にそう言いたかったのかわからない。本当は私の事なんて知らずに、どこかにいる仲間に合図を送っただけかもしれない。「た」の指文字はサムズアップと似ているし。


 けれど、もし本当に気付いてくれたのなら。


 大きくうなずいた私に、彼も頷いてくれたように見えた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ‼」


 野獣の咆哮ほうこうと共に、ドアを蹴破って現れた怪獣。肩を怒らせて、血走った眼光で世界を見ているのは。


 私の大切な人の、成れの果て。


終止符ピリオドだ」


 反響するのは、怖気おじけなど微塵みじんもない冷たい声。


 赤い瞳が物語るのは、残酷で優しい覚悟。


「お前を殺しに来た」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る