EP05-弐:墓参りと幼馴染 


 せみく声がする。


 もう八月もちょうど真ん中。お彼岸ひがんだし、当然といえば当然か。


「おじさん、今年も来たよ」


 見慣れた墓を前にして、誰にともなく話しかける。


 ここに眠っているのは、アタシとは違う苗字を持つ人。けれど、決して忘れてはいけない人。


 墓石に刻まれる家の名は「大神おおがみ」。アタシの幼馴染おさななじみと同じ苗字。まあ、当たり前のことで。だって、ここで眠っているのはそいつのお父さんなんだから。


「水、かけますよ~」


 誰も清掃なんかしない墓標。硬い正方形の集合体を、隅々すみずみまで丹念たんねんに洗っていく。


正仁まさひとのやつ、全然こっちに来てないのかな。刑事だってお墓参りくらいしたらいいのに。ね、おじさん?」


 いつもの仕事に比べたら別に大して苦労することもない作業だ。毎日のように中学生たちと一緒に掃除をするんだから、このくらいなんてことはない。


 けれどシャツに汗がにじむほどの暑さと日差しがアタシを責め立てるみたいで。それでも心だけは静かでいようと、そっと目を閉じて手を合わせる。


慈乃めぐの!」


 ぶっきらぼうな声で名前を呼ばれて、心臓がどくんと脈打つ。あわてて振り返ると、そこには黒いスーツ姿。


「正仁……」


「そういうの、もうしなくていいって言ってるだろ」


 言葉だけは乱暴に、それでも優しさと申し訳なさが入り混じったような視線がこっちを見下ろしている。


 大神おおがみ正仁まさひと


 今年からこの街の刑事となった、アタシの幼馴染。ボサボサの髪の毛は相変わらずだけど、顔つきはどんどんお父さんに似ていく。


 ああ、昔はアタシの方が見下ろす側だったのになぁ。まあ、同い年だけれど。


「全然お掃除しない正仁が悪いんだから。ね、おじさん?」


 まるで宝石のように輝く墓石を見つめてニヤリと笑ってみせる。息子としては親孝行がしたかっただろうけど、恩返しがしたいのはこっちも同じ。


「悪かったな……。こっちだってバカみたいに仕事が忙しいんだよ。まとまった夏休みのある〈神宮かみや慈乃めぐの先生〉とは違うからな」


「言っておきますけど、中学校教員は夏休みでも大抵は出勤してるんですからね?」


「何してんだよ……休みなんだからそんなに生徒いないだろ?」


「残念なことに、部活動の指導だから生徒たちもいますよ~だ」


 とは言ってもアタシは怪我がないように見ているくらいしかできない。何しろバドミントンとかそういうスポーツは苦手だ。むしろこっちが教えてほしい。


「夏休み明けからの授業に向けて準備しないとだし、中間テストも作んないとだし? あとPTAで使う資料も作んないといけないし、他にも盛沢山もりだくさんだし。もうお盆休みでもないとゆっくりできないし~」


「へぇ、大変だな」


 さもつまらなそうに相槌あいづちを打つこの幼馴染。こいつの顔面を引っぱたこうかと思ったが、すぐにそんな思考はさえぎられた。


 思い出したようにしゃがみこんで、手を合わせている横顔を見てしまったから。


 どこか寂しそうで、けれど絶対にそんなことは言うまいと真一文字まいちもんじに結ばれた唇が、そこにあったから。


「ん? 俺の顔、なんか付いてるか?」


 うげ、気付かれた。こいつ、こういう時だけ勘が良いんだよな。ほんと、ずるい。


「ふむ……目の下にくまが付いておるぞ、おぬし!」


 仕方なく、誤魔化ごまかせそうなキャラを演じる。顔をしわくちゃにできる定番のやつ。


「どこのじいさんだよ! お前、職場でいつもそんな調子じゃないだろうな?」


「あ~、今バカにしたでしょ? 言っとくけど、英語が使えるだけでこの仕事はできないんだからね~? 中学生のハートを鷲掴わしづかみにするのは難しいのだぞ~」


「へーへー。俺から言わせたら、お前も中学生みたいなもんだけどな。身長だって中三の時と変わらないし。あれ、あの頃にはもう俺の方が高かったか?」


「なにをー⁉ だいたい男子はね、どんなに小さくて可愛くても、時期が来ればにょきにょき伸びるんだぞー! ていうかアタシと比較するんじゃにゃーい!」


「ぷっ! なんだよ、にゃーい、って」


「あはは! 正仁こそ、変な顔!」


 他愛ない掛け合いが可笑おかしくて、互いにおなかを抱えて笑いだす。


 ああ、やっぱり正仁は笑っている方がいい。正義の味方は笑っていなくちゃ。他の誰よりも憧れ続けたお父さんの跡を継いで刑事になった今なら、尚更なおさらだ。


 七年前には、もうこの笑顔には戻らないかもしれないって思ったけれど。やっぱりそんなことなかった。


「でも慈乃が元気そうで、良かったよ」


「え?」


「覚えてるだろ。姫澄きすみのこと。お前によくなついていたしさ……」


「あ……」


 言葉に詰まった。


 思い出されるのは、ニュースに出ていた惨状。


 今年の六月。黒銀くろかねプリンセスホテルを襲撃したテロリストの事件。そこで犠牲になった二十七人の死亡者の中に、アタシたち共通の知り合いの名前があった。


 寺嶋てらしま姫澄きすみ


 あの日、事件現場になったホテルで開かれたイベントに出場していたモデルにして、所属していたプロダクションの社長の一人娘。そして、アタシたちが中学生の頃から知っている妹みたいな子だった。


「赤マフラーっていうんだっけ? 酷いことするよね……姫澄ちゃん、まだ高校生だったのに。そういえば、うちとは別の中学だけど、被害に遭った子がいるって聞いたよ」


 口に出してから自分を呪う。


 そんなこと、きっとこいつは知っているはずで。もしかしたら、その子の父親が五月の病院爆破テロ事件で死んだ医者だったことなんかも頭に入っているかもしれない。


 だとしたら、正義感のかたまりである正仁が、何も思わないわけないのに。


「あいつは最低最悪の卑怯者だ。仮面で素性を隠して、コソコソと動き回る。そのくせ頑丈な装備で身を固めて、自分は絶対に捕まらないようにおとりまで使う……」


 握った拳は、今にも血がにじみそうなほど力を込めて。言葉にはらんだ怒気以上に、彼の正義感ゆえの苛立いらだちを感じずにはいられなかった。


 いや、よくよく見れば。右手の甲を白いものがおおっている。


「正仁……手の包帯、どうしたの?」


「え……いや、これは、あれだ……その、ちょっと、包丁で切っちまってよ」


「嘘でしょ、それ」


 言葉を詰まらせる幼馴染をじっと見つめる。


 すると誤魔化ごまかしきれないとわかって諦めたのか、溜め息交じりに両手を挙げてみせる。その不機嫌そうな顔こそ、中学生の頃から変わっていない。


「幼馴染にだって言えないことくらいあるだろ」


「刑事らしく、犯人と殴り合いした名誉の負傷、とかじゃないんだ?」


「あのな……、一応は生活安全課としてストーカー被害にも対応はするが、そんな殴り合いばかりじゃねぇよ!」


 知るか、そんなの。


「だったら何で隠すの?」


「お前に言うようなことじゃないだけだ」


「まさか正仁……、上に止められている案件を捜査しているとかじゃないよね……おじさんがアタシを助けてくれた時みたいに……」


「違うッ!」


 あまりの覇気に、思わず身が竦む。


 学校で勤務していれば、男の先生が怒鳴るのを聞く機会だってある。けれどそれはあくまで子どもを想うがゆえの声だ。怖くても、どこか愛情を感じる部分があるもので。


 でも、今の正仁の声は……憎しみに駆られた獣みたいな声で。


「あ……悪い……」


「こっちこそ、ごめん……」


 どちらが謝っても、この空気は変えられない。


 いや、悪いのはアタシだってわかっているんだ。命の恩人の息子に、その父を死なせた相手が思い出させる記憶なんて、良いものなわけがないのに。


「あのさ、慈乃。七年前にも言ったけどさ……」


 遠慮がちな声がする。


「あれは慈乃のせいじゃないから」


「でも……」


 そこで、出そうとした言葉が途切れた。


 わかっている。こんなのただの強がり、せ我慢なんだって。けれど、それをさせないというのは、このバカな幼馴染には何よりも残酷なことで。


 七年前の八月。


 その頃、大神おおがみ義仁よしひと刑事……正仁のお父さんは、超能力を研究する機関を調べていたらしい。危険な実験をしている可能性だとか、テロ組織と繋がっている疑惑が浮上しているだとかで。


 けれど、どれだけ上層部に掛け合っても取り合ってもらえなかったそうだ。証拠がなければ動けない、とかなんとかで。


 当時まだ女子高生だったアタシは、その一味に拉致された。


 たぶんバイトの帰り道だったと思う。後ろから声を掛けられて、薬をかがされて。そこからの記憶がほとんどない。次に目覚めたときには、薄暗い部屋で手足を縛られていたこと、何かで口をふさがれていたことしか、わからなかった。


 確証があったのか、それとも刑事の勘だったのか。上層部の判断を突っぱねて、大神義仁刑事は一人で研究所に乗り込んでしまった。


 最悪なのはここから。アタシを連れ出そうとした彼は、しかし研究員たちに反撃されたらしい。そうして施設ごと爆破されてしまった。


 アタシには、ただ朦朧もうろうとしていた記憶しか残ってなくて。


 病院のベッドのかたわらで、この幼馴染が普段なら絶対に見せないような切なげな顔をしていた。それくらいしかまともに覚えていなくて。


 起き上がろうとしたアタシを抱きしめて、無事で良かった、とだけ繰り返しながら泣いていたこいつのことしか、きちんと思い出せなくて。


 後で別の刑事さんに聞いた話、爆破された施設の近くでアタシは倒れていたらしい。おじさんが逃がしてくれたおかげで死なずに済んだようだった。


 けれど、そんな話を聞かされて正仁に何も言えないわけもなく。


 お見舞いに来た幼馴染に、バカみたいに謝った。泣き崩れて、もう何を伝えているのかもわからなくなりながら。


 そうして、こちらが泣き止むまでただ聞くに徹していたこいつは、目に一杯の涙をたたえたままアタシに言った。


(親父は警察官として、市民を助けに行っただけ。息子の幼馴染だからじゃなく、この街で幸せに笑っているべき一人の人間としてお前を守っただけだから)


 一緒に育った幼馴染のはずなのに。聞こえてきたのは、なぐさめでも怒りでもない冷たい言葉で。


 けれど、それがこいつなりの最大限の優しさだということも知っていて。あの日のアタシは、何も言えずにすがりついて泣くだけだった。


 尊敬する父への敬意と、助かった幼馴染への精一杯の強がり。


 そういうことを言うこいつが、どこまでも切なくて。


「おい、慈乃? 大丈夫か?」


「え? あ、ごめん……ちょっと、ぼーっとしてた」


「暑さにやられちまったかよ、大先生? そんじゃあ休憩がてら、久しぶりに飯でも食いに……」


 聞きたかった言葉は、知らない着信音にき消される。スーツの胸ポケットから出てきた携帯端末を操作するまで、その音は騒がしく鳴り続けた。


 女の人からじゃないといいな、なんて思ってしまったことは口に出すまい。


「もしもし、早乙女さおとめか? 今日は非番って事前に連絡していたと思うんだが……」


 本当に忙しいんだ。まあ、そりゃそうだよね。


 この街は技術の〈革新都市〉だ。アタシたちが生まれた頃に比べれば、治安はだいぶ良くなったって聞くけれど、犯罪の種はどこにでも転がっているんだろう。


 それこそ酷いテロ事件があってからまだ二ヶ月と経っていないんだ。非番でだって呼び出されることくらい日常茶飯事かもしれない。


「赤マフラー絡みの可能性……?」


 不穏な単語が正仁の口から飛び出した。


 待ってよ、それって姫澄ちゃんを殺したテロリストのことじゃ……。


「わかった、すぐそっちに行く。車で三十分もあれば着くから」


 怒りと憎しみ、しかしどこか嬉々とした感情が混ざり合った声。その眼はどこか、血気盛んに獲物を追い詰めようとする野獣のようで。


 込み上げてくる感情の名前がわからなくて、胸が痛い。


 不安……。いや違う。


 もしかして、怖いのか。あのバカみたいに正直で熱血漢な、しかしどこまでもこの街の人たちを想う優しい正仁が、まるで別人になってしまったようで。


「悪いな、慈乃。仕事、入っちまった」


「良いよ、わかってるって。その代わり、今度は焼き肉おごってね」


「おい待て、そこは割り勘だろ」


「ほーら、若者よ、頑張ってこい! 店の予約なら任せとけ~!」


「へーへー、そうかよ。てか、そのぶりっ子顔、全然可愛くねぇぞ!」


「知ってまーす♪」


 冗談交じりの言葉で、胸の内にたまったいびつな感情をさらににごす。


 大丈夫に決まっているじゃないか。あの正仁が変わるわけない。いつもみたいに正義の心が先走っているだけ。


「それじゃ、慈乃も気を付けて帰れよ」


「うん。頑張れ、ヒーロー!」


「アホ言うな、俺は刑事だ!」


 駆け出す背中を見送りざまにまたコントみたいな言葉の応酬。子どもの頃から変わらない、どうでもいい言葉の投げ合い。


――大丈夫、だよね。


 自分の心に言い聞かせる。


 でもどうしてか。アタシの胸から、この不安は消えてくれなかった。


「正仁……いなくなったり、しないよね……?」


 口かられ出た声は、せみの声にさらわれていった。

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