SS-3:Sinner
「
不意に目の前の婦人が語り出す。
オレが読み終えたのを感じ取ったのか。それとも、待ちきれなくなって話し始めたのか。どちらにしても、何と返していいかは思いつかなくて。
「父親も母親も海外で働いていて。一緒に過ごせる時間も不定期。あの子はそれでも、あんまり文句なんて言わなかったの」
なんとなく想像ができる。きっと
「友達も多くはなかったけれど、それでも仲良くしてくれる人はちゃんといた。あなたみたいにね」
そう言って笑いかけられた。
しかし、こちらには返せる笑顔なんかない。むしろ、こうして対面しているだけで罪悪感がずっと胸を締め付けているのに。
「実はね、今日はあの子の誕生日なの」
息を呑む。どうして、この人は笑っていられるのだろう。
この街では、警察内部にすら〈スポンサー〉の息がかかった者が配置されているらしい。おかげで行方不明者のほとんどは
彼女の場合は、どうだったか。改造されたこの身体をいいことに脳波を使ってネット検索を試みる。ああ、死体で発見されたという記事を見つけた。交通事故ということにされたらしい。ふざけやがって。
「本当ならね、生きていればあの子も今日で
お酒も飲める大人の仲間入りだったのにね、なんて笑うのは
知るわけもない。あの悪魔によって操り人形にされた彼女が、絶望の中で死んでいった事実なんて。
「助けてあげられなかった」
この人はオレを責めているわけじゃない。そんなことは判り切っているのに。
すっかり冷めたコーヒーに
「ごめんなさいね。あなたには関係ないのに」
差し出した青空色のハンカチを受け取りながら、彼女は
その表情を見た瞬間、心に作っていたバリケードが崩れていくのがわかった。
ああ、ダメだ。無理だ。言わなければ。本当のことを知る権利が、この人にはある。他でもないオレこそが一番の関係者だ。
普通の生活があった。思ってくれる家族がいた。満点ではなくても、それなりだったとしても、幸せだったはず。コーヒーを飲む度に
身勝手で理不尽な悪意のために、あんな目に遭わされて、どれだけ怖かったか。仮面に押し込められた心も、それゆえに操られた身体も、どれだけ痛かったか。
そんな彼女を……こんなにも信じてくれていた彼女を救えなかったのは……。
オレなんだ。
「あの……
真実を
「あら、猫ちゃん?」
さっきまで大人しく見守っていた黒猫が、こちらに
おい何だ、その顔は。何も口にするな、とでも言いたげな視線は。
見れば見るほど、あの猫に似ている気がしてくるのは
やはり日記を読んで、自然と
とんだセンチメンタリズムだ。
「ふふふ」
さも
「ごめんなさいね。あんまりにも可愛かったものだから」
肉球を押し付けてくる黒猫が、腕の中で大人しくなるのがわかる。やはりこちらの気のせい。この猫が
「実はね、信じてもらえないと思うんだけれど……聞いてもらえるかしら?」
撫でろと言わんばかりに
どこか夢見がちな少女のような表情を浮かべるご婦人が、ゆっくりと口を開く。
「夢にね、智那ちゃんが現れたの」
幻想と言ってしまえばそれまでのことに、どうしてか胸がざわつく。
「あの子がね、お願いがあるのって」
「お願い……?」
「
優しい表情に、死んだはずの彼女の面影が重なって見えた気がして。
まさか、そんなバカな。第一、彼女が死んだのは一年も前だ。幽霊にしたって、どうして
あの力を引き出したオレの〈コア〉は〈
あの悪魔が、一年前からずっと彼女の魂を幽閉した〈コア〉を握っていたとしたら。
こちらをじっと見つめていた猫が、どうしてか
「今朝ね、その猫ちゃんが智那ちゃんの部屋にいて。このノートを
腕の中の猫が誇らしげに鳴く。やはりこの感じ、オレが埋葬した黒猫のようで。まさか本当に生まれ変わりでもしたのか。
いや、まさか。やっと解放された彼女が、オレに伝わるようにこんな姿で現れたとでも言うのか。そんなわけ……。
「ありがとう」
「え……?」
唐突に投げかけられた言葉が、老人の口から出たものだと気付くまで一秒。もちろんその意味することは理解できなくて。
「あの子を、大事に思ってくれて」
「オレは……」
「言わなくてもわかるわ。ずっと泣きそうな顔で読んでいたもの。自分を責めているっていうのも、
違うと叫びたくなった。それを必死に押し止めた反動で、唇が震える。
伝えるべきだと心が叫び。しかし言ってはいけないと頭が止める。
その混乱が顔に出ないよう平静を保とうとはするが、できている自信はない。
「今は笑えないかもしれないわね。けれど、あなたが元気でいてくれたら、きっと智那ちゃんも喜ぶわ。だからどうか、自分のせいだなんて思わないでね」
温かな笑み。きっと全てを受け止めたわけじゃなくて、無理をしているのだろうことは容易に想像ができて。
すっかり暗くなった外を見て、そろそろ帰るわね、と腰を上げるご婦人。
この人に、オレは何も返せないのか。自分の罪を隠して、罰を受けることからも逃げているオレには、何もできないのか。
いいや、せめて。
「あの!」
黒猫を抱えてドアに手を伸ばしたその人に、気付けば叫んでいた。
驚いた様子でこちらを振り返る彼女の瞳は
「オレ……葉音さんに会えて、良かった……です」
ギリギリになって伝えられたのは、こんな言葉だけ。伝えるべき感謝も、告げるべき罪も、何もかもを飲み込んで言えるのは、これだけだから。
それでも。
「ありがとう」
猫が満足そうに笑う。新しい主人の笑みにも負けないくらい、
優しい余韻だけを残して、客人たちは去っていった。
「葉音さん……ごめん」
独り残されたまま、握った拳を見つめて
(殺してやる……殺してやる! お前らなんか、一人残らず、殺してやる‼)
あの日、この手が君の息の根を止めた。親友を奪われた怒りに身を任せた愚かなオレのために。助けてほしいと叫ぶことさえできなかった君を思うと、やるせない。
「ごめん……ごめん……」
けれど。この罪だけは、
君の大切な家族を、これ以上の地獄には引き込めないから。
大切な孫娘を
代わりにもならないが、必ず〈スポンサー〉は追い詰める。君の「いつも通り」の日常を奪い、あんな地獄に
たとえその戦いで、地獄の業火に焼かれても文句はない。君が失った未来を思えば、それでも
けれど、優しい君がこんな痛みをもう二度と振り返らなくていいように。今はただ、祈らせてほしい。
神様、どうか。
彼女には幸せな来世を。
こんな争いなどない、温かな時間を。
ささやかでも、大切な人と生きる優しい日々を。
どうか。
Fin
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます