SS-3:Sinner


智那ちなちゃんはね、小さい頃から不器用でね」


 不意に目の前の婦人が語り出す。


 オレが読み終えたのを感じ取ったのか。それとも、待ちきれなくなって話し始めたのか。どちらにしても、何と返していいかは思いつかなくて。


「父親も母親も海外で働いていて。一緒に過ごせる時間も不定期。あの子はそれでも、あんまり文句なんて言わなかったの」


 なんとなく想像ができる。きっと駄々だだをこねたのも最初のうちだけだろう。オレが大学にいた間のわずかな時間しか知らないが、そんな気がする。


「友達も多くはなかったけれど、それでも仲良くしてくれる人はちゃんといた。あなたみたいにね」


 そう言って笑いかけられた。


 しかし、こちらには返せる笑顔なんかない。むしろ、こうして対面しているだけで罪悪感がずっと胸を締め付けているのに。


「実はね、今日はあの子の誕生日なの」


 息を呑む。どうして、この人は笑っていられるのだろう。


 この街では、警察内部にすら〈スポンサー〉の息がかかった者が配置されているらしい。おかげで行方不明者のほとんどは有耶無耶うやむやにされる。最悪の場合、死体すらでっちあげるのだから手に負えない。


 彼女の場合は、どうだったか。改造されたこの身体をいいことに脳波を使ってネット検索を試みる。ああ、死体で発見されたという記事を見つけた。交通事故ということにされたらしい。ふざけやがって。


「本当ならね、生きていればあの子も今日で二十歳はたちだったのよ」


 お酒も飲める大人の仲間入りだったのにね、なんて笑うのは何故なぜだろう。ああ、オレがこの事件の当事者だと知らないからか。


 知るわけもない。あの悪魔によって操り人形にされた彼女が、絶望の中で死んでいった事実なんて。


「助けてあげられなかった」


 この人はオレを責めているわけじゃない。そんなことは判り切っているのに。


 すっかり冷めたコーヒーにこぼれ落ちた透明な光から目が離せなかった。


「ごめんなさいね。あなたには関係ないのに」


 差し出した青空色のハンカチを受け取りながら、彼女は微笑ほほえむ。


 その表情を見た瞬間、心に作っていたバリケードが崩れていくのがわかった。


 ああ、ダメだ。無理だ。言わなければ。本当のことを知る権利が、この人にはある。他でもないオレこそが一番の関係者だ。


 普通の生活があった。思ってくれる家族がいた。満点ではなくても、それなりだったとしても、幸せだったはず。コーヒーを飲む度にゆるんでいた口元を、オレは今も忘れていない。


 身勝手で理不尽な悪意のために、あんな目に遭わされて、どれだけ怖かったか。仮面に押し込められた心も、それゆえに操られた身体も、どれだけ痛かったか。


 そんな彼女を……こんなにも信じてくれていた彼女を救えなかったのは……。


 オレなんだ。


「あの……葉音はおん様……その……オレは……」


 真実をしぼり出そうと口が開く。だが、何と伝えればいい。不思議そうにオレを見つめるこの人に、どんな言葉でびればいいんだよ。


「あら、猫ちゃん?」


 さっきまで大人しく見守っていた黒猫が、こちらにんできた。受け止めた途端には猫パンチ。まるで痛くもかゆくもない、随分と優しい拳が口元を狙ってくる。


 おい何だ、その顔は。何も口にするな、とでも言いたげな視線は。


 見れば見るほど、あの猫に似ている気がしてくるのは何故なぜだ。あいつはもうちょっと大きかったから、きっと勘違いなのだろうが。


 やはり日記を読んで、自然となつかしく思っているのか。


 とんだセンチメンタリズムだ。


「ふふふ」


 さも可笑おかしそうに口元をおおうご婦人。どうにもオレとこの猫のやり取りが面白かったらしい。


「ごめんなさいね。あんまりにも可愛かったものだから」


 肉球を押し付けてくる黒猫が、腕の中で大人しくなるのがわかる。やはりこちらの気のせい。この猫が気紛きまぐれなだけだろう。


「実はね、信じてもらえないと思うんだけれど……聞いてもらえるかしら?」


 撫でろと言わんばかりにほおずりしてくる黒猫の首元に手をやりながら、顔を向ける。


 どこか夢見がちな少女のような表情を浮かべるご婦人が、ゆっくりと口を開く。


「夢にね、智那ちゃんが現れたの」


 幻想と言ってしまえばそれまでのことに、どうしてか胸がざわつく。


「あの子がね、お願いがあるのって」


「お願い……?」


南野みなみのくんに会ってほしいって。きっと自分を責めているからとも」


 優しい表情に、死んだはずの彼女の面影が重なって見えた気がして。


 まさか、そんなバカな。第一、彼女が死んだのは一年も前だ。幽霊にしたって、どうして今更いまさらになって現れる。


 刹那せつな、脳裏をにじの光がちらついた。


 あの力を引き出したオレの〈コア〉は〈EMANCIPATIONイマンシペイション〉と、〈解放〉と言った。もしもそれが〈獣核ゲノム・コア〉に囚われたたましいの解放を意味するなら。


 あの悪魔が、一年前からずっと彼女の魂を幽閉した〈コア〉を握っていたとしたら。


 こちらをじっと見つめていた猫が、どうしてかうなずいた気がした。


「今朝ね、その猫ちゃんが智那ちゃんの部屋にいて。このノートをくわえているのを見たとき、確信したの。きっとあれは本物の智那ちゃんだったんだって」


 腕の中の猫が誇らしげに鳴く。やはりこの感じ、オレが埋葬した黒猫のようで。まさか本当に生まれ変わりでもしたのか。


 いや、まさか。やっと解放された彼女が、オレに伝わるようにこんな姿で現れたとでも言うのか。そんなわけ……。


「ありがとう」


「え……?」


 唐突に投げかけられた言葉が、老人の口から出たものだと気付くまで一秒。もちろんその意味することは理解できなくて。


「あの子を、大事に思ってくれて」


「オレは……」


「言わなくてもわかるわ。ずっと泣きそうな顔で読んでいたもの。自分を責めているっていうのも、うなずけたわ」


 違うと叫びたくなった。それを必死に押し止めた反動で、唇が震える。


 伝えるべきだと心が叫び。しかし言ってはいけないと頭が止める。


 その混乱が顔に出ないよう平静を保とうとはするが、できている自信はない。


「今は笑えないかもしれないわね。けれど、あなたが元気でいてくれたら、きっと智那ちゃんも喜ぶわ。だからどうか、自分のせいだなんて思わないでね」


 温かな笑み。きっと全てを受け止めたわけじゃなくて、無理をしているのだろうことは容易に想像ができて。


 すっかり暗くなった外を見て、そろそろ帰るわね、と腰を上げるご婦人。


 この人に、オレは何も返せないのか。自分の罪を隠して、罰を受けることからも逃げているオレには、何もできないのか。


 いいや、せめて。


「あの!」


 黒猫を抱えてドアに手を伸ばしたその人に、気付けば叫んでいた。


 驚いた様子でこちらを振り返る彼女の瞳はぐにこちらを見据えて。その腕に抱かれた猫はどこかエールを送るような視線で。


「オレ……葉音さんに会えて、良かった……です」


 ギリギリになって伝えられたのは、こんな言葉だけ。伝えるべき感謝も、告げるべき罪も、何もかもを飲み込んで言えるのは、これだけだから。


 それでも。


「ありがとう」


 猫が満足そうに笑う。新しい主人の笑みにも負けないくらい、ほがらかに。


 優しい余韻だけを残して、客人たちは去っていった。




「葉音さん……ごめん」


 独り残されたまま、握った拳を見つめてつぶやく。


(殺してやる……殺してやる! お前らなんか、一人残らず、殺してやる‼)


 あの日、この手が君の息の根を止めた。親友を奪われた怒りに身を任せた愚かなオレのために。助けてほしいと叫ぶことさえできなかった君を思うと、やるせない。


「ごめん……ごめん……」


 けれど。この罪だけは、懺悔ざんげできない。


 君の大切な家族を、これ以上の地獄には引き込めないから。


 大切な孫娘をうしなっただけでも苦しいはずなのに、それでも前を向いて歩いていこうとする強い人に、オレはこれ以上、もう何もしてあげられない。


 代わりにもならないが、必ず〈スポンサー〉は追い詰める。君の「いつも通り」の日常を奪い、あんな地獄にとした奴らは、絶対に止めてみせるから。これ以上、君のような犠牲を出さないためにも。


 たとえその戦いで、地獄の業火に焼かれても文句はない。君が失った未来を思えば、それでもあがないにさえならない。


 けれど、優しい君がこんな痛みをもう二度と振り返らなくていいように。今はただ、祈らせてほしい。




 神様、どうか。


 彼女には幸せな来世を。


 こんな争いなどない、温かな時間を。


 ささやかでも、大切な人と生きる優しい日々を。




 どうか。


Fin

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