EP04-玖:虹架ける死神


 地獄のような戦況。


 最初から勝ち目なんてないはずで。止めなければいけなかったのに、私は彼を行かせてしまったことを、こんなにも後悔していたのに。


 だが、この目に映るものは現実ではないのかもしれない。


EMANCIPATIONイマンシペイション


「何だって……?」


 涙でぐちゃぐちゃになった瞳に飛び込んだのは『解放』の二文字。コンピュータに搭載した人工知能が、私の漏らした声を『今の言葉を反芻はんすうし、調べろ』と解釈したらしい。


 Emancipationイマンシペイション


 奴隷など地位の低い状態からの『解放』を示す単語。


「おい、少年……その姿は、いったい何からの〈解放〉なんだい……?」


 画面の向こうに見えるのは、まるで紺碧こんぺきの空を宿したような黒。銀色に輝いていたはずの装甲まで純黒に染まって、粒のようにちりばめられた星のきらめきを強調する。


 燃やし尽くされたはずの血赤のマフラーが風になびき、銀の光を残す仮面に映り込む。


 こちらで確認できるだけでも、彼の武装は再構築されている。だが〈獣核ゲノム・コア〉は暴走状態と言ってつかえないほどの稼働を見せているし、そこから排出されたナノマシンは通常時の十倍を超える量だ。こんなもの、制御できるはずがない。


 それなのに、その静かなたたずまいは〈獣〉どころか〈人〉とさえ思えなくて。例えるなら、そう、まるで無機質な〈機械〉だ。


 なんだ、この状態。今までの〈獣化〉してきた〈実験体〉たちとは明らかに違う。


『それが君の〈獣〉としての姿なのー? なんか思ってたのと違うなー?』


 いや、不利な状況は何も変わっていない。


 敵は四体。〈スポンサー〉寄りの赤い悪魔と、その支配下にある三体。おまけに笹瀬川ささせがわ先生もあの蜘蛛くも型に抑えられている。


『ま、いっか! じゃあ、第三ラウンドも張り切って……へ?』


HOPPERホッパー


 敵の声が不自然に揺らいだ理由に息を呑む。


 気付けば多脚を伸ばす背が見える。つまり、一瞬でそこに到達したというわけで。


SPIDERスパイダー……Exterminationエクスターミネイション


 首を掴まれた敵に、向き直る間など与えない。射出された形状記憶合金と雷撃が頭蓋ずがいを貫き、その内側を焼き尽くしていく。


 有り得ないことだ。いくら至近距離でも、こんな威力が出せる設計なんてしていない。しかもあれだけの強度を誇る敵なら、その胴体と首から上を分断するなど不可能のはず。


 だが現実にはどうだ。捕らえられていた笹瀬川先生の奪回に成功し、数字の上での不利が、この一瞬で軽減されている。


 担ぎ上げた私の恩師を連れて、ほぼ地面と平行にぶ死神。見つめる少女のかたわらに、探していた祖父を横たえて、すぐさま敵へ向き直る。


『うわー、やるね! どこにそんな力を隠してたのか、教えてもらわなきゃっ‼』


 いけない、もうすぐそこまで敵の鎌が迫っている。この位置取り、避けたらそのまま鋭利な刃が二人を引き裂きかねない。


MANTISマンティス……Exterminationエクスターミネイション


 振り下ろされた二つの武器を、極大の鎌鼬かまいたちはじく。通常の倍近い大きさで展開された武装『Ⅿ』の刃だと気付くより先に、高く上げられた右脚が相手へ垂直に下ろされるのが見えた。


 烈風とでも呼べばいいのか。二メートル近い〈実験体〉の身体を斬り伏せてしまったこの一撃は、砂煙を巻き上げるほどの高威力。


 やはり設計上では再現不能なはずのそれだ。第一、〈獣化〉しているなら、先生を助けて戻るなんて行動はできないはず。何か私の理解を超える現象が起きているというのか。


「っ⁉ 少年、前からくるぞ‼」


 叫んだ私より敵の方が速い。あの毒液を流し込む細剣が、天然の煙幕を螺旋らせんに変えて突っ込んでくる。


WASPワスプ……Exterminationエクスターミネイション


 待っていたかのように鳴り響いたのは、必殺の槍を抜いた音。極大の武装が、突き出されるレイピアの先端と激突する。


 火花が散るのは一瞬で。敵の武器を突き崩す一撃が、そのままはち女の脳天を穿うがつ。注入された毒素にやられたのか、ひざから崩れ落ちていく様は糸が切れた操り人形のようで。


『すごいや! よし、ここからは耐久レースで……あれ、リンクできない……? 僕ちゃんのナノマシンが動いて……ない?』


 不可思議なことに、あの悪魔が狼狽うろたえている。


 そこで初めて気付けた。私の造った以上の力を発揮する死神は、敵の〈コア・リンクシステム〉とやらの弱点を見抜いていると。


 あの〈リトロ〉と名乗る敵が言う通りなら、奴が生成するナノマシンを媒介に死亡した彼らの身体に埋め込まれた〈獣核ゲノム・コア〉を励起れいきさせる機構のはず。


 つまり、その無線通信を可能にする微粒子サイズのナノマシンさえ砕いてしまえば、システムは停止し彼らは物言わぬ死体に戻る。


「でも、どうやって奴のナノマシンの位置を特定している……?」


 度重なる改修でも、そんなものを組み込める余地などなかった。今までだって、そんな能力を見せたことは皆無だ。一年前と同じ位置だったとしても、正確に打たねば止められないのはさっきの復活で証明されているはずで。ダメだ、理解が追い付かない。


 そんな疑問への答えはなく。代わりに死神は、ただ悪魔に向き直る。


『ふーん、なるほどねー。これが赤マフラー二代目の力ってわけだ? 流石さすがに〈ネクロ〉が目を付けてるって言うだけあるかな♪』


 四対一という圧倒的に不利な状況がくつがえされたのに、しかし赤い悪魔はわらう。


『じゃ、タイマンだねっ‼』


HOPPERホッパー


 飛び掛かってくる勢いは、ほとんどジェット噴射の様相。対する死神も同じ速度でぶつかっていく。


 拮抗きっこうする力と力。もはや目で追うことすらできない攻防に、私は呼吸すら忘れてしまう。


「互角……なのか?」


 動体視力が追い付いてこなくても、なんとか状況から理解していく。


 相手の鋭い爪が迫っても、決して引けを取らない速度での防御。逆にそこから一転しての攻撃に、敵もガードを余儀なくされている。


 それを互いに高速で、空中でもお構いなしに叩きつけ合っているわけか。


『肉弾戦だけなら〈ネクロ〉より強いかもね……でも!』


 やっとの思いで距離を取ったとみるや否や。かざされるのは右のてのひら。まさか、またあの火炎放射か。


『ばばーん‼』


 噴射された勢いとその色を見て、絶句する。


 青色の炎。間違いなく超高熱の火炎だ。あんなものを喰らったら。


HOPPERホッパー……Exterminationエクスターミネイション


 避けるためにか、跳び上がる。が、そんなもの敵が角度を変えれば無意味だ。むしろ、空中で身動きが取れないのでは直撃するだけ。


MANTISマンティス……Exterminationエクスターミネイション


 二つ同時の極限解放。先月の〈ネクロ〉との対決で使ったという裏技。あれほどやるなと言った私だが、これ以上の最適解を思いつけない。


『そんなの……あり⁉』


『はぁッ‼』


 錐揉きりもみしながら鋭い風をまとい、一直線に灼熱の壁を突き抜けていく。たまらず回避行動にシフトした敵を取り逃がすも、コンクリートの床などえぐるほどの威力。


 惜しい。これをぶつけてさえいれば、勝てたかもしれないのに。


『すごい……すごいよ‼ 君を連れ帰れば〈ホロウ〉も大喜びするかも‼ そしたら、たくさん解剖されちゃうね‼ すっごくたのしそう‼』


 劣勢に立たされたはずなのに、嬉々として叫ぶ道化師。


 口にした名は、こいつ同様の〈スポンサー〉側で幹部クラスか、あるいはそれを造り出す科学者か。


『じゃあ、こっちもとっておき、出すね?』


 奴の左手に光が集中する。


 もしかして、さっき〈獣核ゲノム・コア〉に放出していた虹色の光か。そう思って〈クモ〉からの映像で解析を開始する。だがモニターが提示するのは、理解の範疇はんちゅうを超えたデータ。


「なんだ、これ……まるで微粒子サイズの〈獣核ゲノム・コア〉じゃないか……?」


 ナノマシンを生成する装置であるはずの〈コア〉、それと同じ材質をしたナノサイズの何かだと機械が叫ぶ。


 待て。この地球上に存在しないはずのそれを、あいつは自力で生み出せるとでも。それなら〈ゲノム・チルドレン〉というのは、〈獣核ゲノム・コア〉を創り出す者たちなのか。


『いっけー‼』


 光がはじける。あの左手を震源にして進んでいく虹色の波紋。


 瞬間、少年の視界が揺らぐ。その先には、逃げることもできずに目を見開く二人。この戦場に似つかわしくない老人と幼女。


『ぐぅ……⁉』


 両手を交差させただけのガード。彼の背中には、私が諦めようとした二つの命があるのは明らかで。徐々に押されていく身体が、不安げな顔をしていた彼らに近づいていく。


『あれ、守るの? てことは、やっぱり坂上さかがみあいが命じたってことだよねー?』


 やはり狙いは私か。くそ。いつかバレるかもしれないと思っていたが、こんな危険な奴に目を付けられていたとは、最低で最悪もいいところだ。


 死んだはずの科学者が設計した技術。それをベースにした〈実験体〉が戦い続ければ、おのずと敵もこちらに照準を合わせてくる可能性がある。そう予想はしていたはずなのに、今の私はと言えば、こんなにも震えが止まらない。


 今一番に苦しいのは、彼だとわかっているのに。


『ぐ……ぁ⁉』


 耐えきれずに死神の腕が弾かれる。守られた二人の眼前に転がった身体。その両手の装備が、熱で焼き切られたように煙を上げて。


 あれが〈実験体〉を強制的に暴走させてきた技というだけでなく、純粋に〈獣核ゲノム・コア〉から創り出せるナノマシンを操作する力なら、もしかして破壊もできるのか。


 これ以上に喰らったら危険だ。ただでさえ今の彼がどんな理屈でこの膨大なナノマシンを制御しているのかもわからない状況なのに。


翡翠ひすい……翡翠‼』


 後ろで聞こえた声。振り返った少年の視点から見えるのは、頭から血を流しながら目を閉じてしまっている少女。そしてそれを揺さぶる必死の形相の祖父。


 まさか、今の攻撃の余波を受けたのか。もしあれが〈獣核ゲノム・コア〉と同種の危険性を持つ物質だったとして、〈実験体〉以上に人体に有害なものだったとしたら。彼女はもう……。


『あれー、死んじゃった? あはははは! ぶっざまー♪』


 あれだけの技を使っていながら、まだ余裕があるのか。あの子の死を喜んで悪魔がわらう。


『だから言ったのに。食べちゃいなよって。惜しいことしたねぇ~、せっかくの〈当たり〉だったのに。僕ちゃんに勝てるかもしれないアビリティだったかもよ?』


 能力アビリティだと。こいつ、本気で人間を喰えば能力が開花するとでも言いたいのか。


 いや、待て。この街の人間で〈実験体〉を造らせる理由が、まさかそこにあるのか。


『この世には、たまーに〈獣〉の力を目覚めさせる資質を備えた人間が生まれるんだって。それが〈当たり〉。ほら、ケーキみたいな匂いがしてたでしょ? それが証拠♪』


 ゆっくりと近づきながら、また左手に光を集約してくるのが見える。


 ダメだ。あのオーロラの光はこちらのナノマシンを破壊できる。あと一度でも受けたら、きっと止められない。


『それとも今からでも食べてみる? 完全に死んでなきゃ効果あるかもしれないし。ほら、左眼が〈当たり〉の部分だったから、ワンチャンあるかもよー?』


 あの白くなっていた眼。連中に狙われるような代物だったなんて。生まれたばかりの頃にはなかったそれが、二年前の両親の死後から発症したと情報にあった。


 まさか〈実験体〉にされた母親の死の後にこの症状が現れたのは、偶然じゃないのか。神様の気紛れ、いいや皮肉だとでも……。


『もう、何も奪わせない……』


『ん?』


 その小さなつぶやきは、誰に向けたものだったのか。その真意を測りかねる悪魔の足が止まった瞬間。


 死神は再び顔を上げて、敢然かんぜんと立ち塞がる。


WASPワスプ……Releaseリリース


MANTISマンティス……Releaseリリース


SPIDERスパイダー……Releaseリリース


 一度に三つの武装が、はじけ飛ぶ。


 モチーフにした生物をかたどって、一心不乱に敵へと向かう。


『そんな時間稼ぎで、何ができるのかなー? あ、もしかして食べる覚悟できた? なら捕食シーンが観たいよー‼』


 左手を守りながらも、昆虫たちの舞を踊るようにかわす動きは本物の道化師のそれか。


 何をやっている、少年。君は今、何をして……あ。


『へ……バイクっ⁉』


 空洞に轟くのはエンジン音。敵の注意をらしている隙をついて、呼び込んだ愛機が敵の横腹に突撃していく。よし、そのまま壁まで吹っ飛ばせ。


『なぁーんてね? そんなの避けられないわけないじゃん!』


 右手で車体を押して、アクロバティックにねる動き。そのまま空中に逃げられる。


 そろそろ光もさっきと同じほどの大きさまで収束している。くそ、万事休すか。


HOPPERホッパー


 敵の頭上へ、死神がぶ。


 あの攻撃を先生たちから逸らすためか。それとも最後の悪足掻わるあがきをするためか。どちらにしろ、二重の極限解放でもあれを止められるかどうか。


 そんな私のマイナス思考を、彼は裏切っていく。


SPIDERスパイダー……Exterminationエクスターミネイション


MANTISマンティス……Exterminationエクスターミネイション


WASPワスプ……Exterminationエクスターミネイション


 嘘だろ。切り離していた武装三つで同時に極限解放だと。


『んあ……え、なにこれ⁉』


 驚くべきはその三つが虹色に光り出したこと。


 ワイヤーが造り出す蜘蛛の巣が敵の全身に行き渡り。二対の鎌が動きを封じられた奴のベルトを挟み込む。そうして、黒光りするバックル中央部に針が突き刺さる。


『な……んだ、これぇ……痛い、痛い……! この、離れろよぉ……、っぁ⁉』


HOPPERホッパー……Exterminationエクスターミネイション


 最後の最後に、四番目の極限解放の音がする。


 敵に張り付いた〈クモ〉の眼から見えるのは。


 絶望に怒りを燃やし、それでもとむらいのために戦うと誓った男の面影が重なるその姿。七色に輝く足を突き出した黒い雄姿に、血赤のマフラーがよく映える。


『はぁッ‼』


『あ……りえないぃぃぃぃぃいぃいいいいぃいいいぃッ⁉』


 叩き込むのは、虹の光を帯びた一閃。


 こんな地獄を創り出し、誰かの希望を踏みにじり、そうして家族を想う優しいなみださえも嘲笑あざわらった悪魔。それを砕いて進むのは……黒と銀の死神。


『ぎゃあぁあああああああああああああああああああああああああああ⁉』


 爆裂が場内の暗がりをき消していく。


 もはやボロボロの床に追い打ちをかけるような地割れを引き起こすのは、変わり果てた道化師の躯体くたい。ガラス細工が粉々になるような音は、何が壊れた合図だろうか。


「勝った……のか」


 知らずに涙があふれてくる。あのバカが〈ネクロ〉を討ち取った時以上の高揚感。苦しみながらの勝利だとしても、勝ったことには変わりがない。




『キャハ……キャハハハ! それで、勝ったつもりじゃないよねぇ……!』




 嘘だろ。


 その声に、顔が強張るのを禁じ得ない。四つの武装を同時に極限解放して、それで死なないなんて。どんな設計をすればそんな身体を造れるって言うんだ。


『ギャハハハ! 僕ちゃんたち〈ゲノム・チルドレン〉は死なない! 生まれたときから持っている〈獣核ゲノム・コア〉は、お前らみたいなのとは精度が違う! その仕組みがわからない以上、一生かかっても〈スポンサー〉には勝てないよっ‼』


 唇を噛むしかない。確かに私たちは〈獣核ゲノム・コア〉のすべては解析できていない。ほとんど何もわからないまま使っているのも同じだ。


 しかし、悪魔の笑い声を聞きながらも少年は動かない。そうだ、彼はもう限界のはずだ。モニターで見る彼の内部は既に危険ランプが点滅しっぱなしで。これ以上の戦闘を続けられるわけもない。


『まあ、今回は引いてあげるよ。僕ちゃんもそこそこ身体が痛いしね?』


 どろどろと溶けていく赤い皮膚を引きりながらも、愉快げにわらう。こいつ、本物の悪魔か。それが〈ゲノム・チルドレン〉という存在なのか。


『坂上愛は生きているのがわかったんだ。この街に生きている以上、〈スポンサー〉が本気で探せばすぐに見つかる。だから次に会うときは、もっとたのし……』


『次なんてない』


 鋭い声が、悪魔の言葉をさえぎった。流石に困惑したように首を傾げた敵が、突然小刻みに震え出す。


『あ……うぁ……⁉ なんだよ、これぇ……身体が、中から、壊れ……⁉』


 もだえ苦しむ姿は、道化でも悪魔でもなく。ただの弱々しい死にかけの羽虫のようで。


『なに、これ……⁉ 僕の中に、ナノマシン……? は、がぁ……ぅぁがぁあ⁉』


 不自然なまでに関節が曲がり、立つこともままならずに倒れ伏すその顔は、火傷でただれたみにくい顔で。


『言ったはずだ』


『っぁ……⁉』


 驚愕きょうがくしたような顔の動きを見せる敵を背にして、死神はそっとつぶやく。


終止符ピリオドだと』


 荒々しい獣すら飼いならす王者のようなその声は小さな波となって。


『ぃゃ……いやだぁあああああああああああああああああああああああああ⁉』


 断末魔。それを発する悪魔が灰のように消えていく。


 まるで幻想のような一瞬。だが間違いなく、これまで〈スポンサー〉側の敵に苦しめられてきた彼にとって、大きな価値を持つ一瞬。


「少年……良かった……」


『罪滅ぼしのつもりか……⁉』


 ハッとして、再度モニターを確認する。


 声の主は、孫娘を横たえた祖父。私にとって、人生を変えてくれた恩師。同時に、私の研究に巻き込んでしまった犠牲者。


『坂上、見ているんだろ⁉ 娘夫婦を殺したのも、お前の造ったサイボーグか⁉』


 否定などできない。先に仕掛けてきたのはあちらだとしても、それすら〈スポンサー〉側が仕組んだことだろう。何より、私の描いた設計図を基に作られた男が、先生の娘さんを手に掛けたのは、変えようもない事実だ。


『あんなに、科学は人を幸せにするためにと教えてきたのに……』


 先生の涙なんて見たことがなかった。いつだって正しくて、ぐで。むしろ泣いている子に優しく接してくれる強い人だったから。


 今、その恩人を泣かせているのは、かつて涙を拭ってもらった側であるはずの……私。


『なあ、あんた……俺たちを守るように坂上に命令されたのか? こんなボロボロになってまで、あんな恐ろしい奴と戦って……!』


 悔しそうな顔で歩み寄る姿が、つらかった。私がそんな風に思うこと自体、間違っているのかもしれないが。


 それでもこっちが泣きたくなる程度には残酷な現実だと思う。ごめんなさいと言うことさえ、今の私には許されない。あの悪魔から救い出せても、それを誇ることなど、到底できなかった。


『なんてことだ……すまねぇ。俺には何も返せるもんがない。本当なら坂上に、あんたをそんな姿にした奴に、土下座させてでも謝らせなきゃならんが、それも叶わない……』


 そっと孫を壁に預けて。手拭いで彼女の頭を止血する。そうして二つ結びの髪を撫でて、こちらへ向き直ると。


 先生は、両手を地面につけて額をこすり付けた。


 目を背けたくなる。けれど、背けちゃいけない。少なくとも、私だけは……。


『割には合わないかもしれんが、あんたの気が済むまで殴ってくれ。あんたをそんな姿にした女を育てたのは、他でもないこの俺だ。少なくとも、あんたに通せる〈筋〉は、もうこれしかない……』


 ああ、この人はそういう人だった。いつだって筋を通すことが大切だと教えてくれて。


 人間は社会を形成する生き物だからこそ、相手に信頼されることが一番だと。そうした小さな心の支え合い。そのきずなが繋がっていけば、いつか人類は宇宙にさえ手が届くとも。


 どこか絵空事だと思ってきたその言葉が、今ならわかる。大切な人と繋ぐ手の温かさを、それを失う痛みまでもを知ってしまった、今なら……。


『おじいちゃん……』


 強化された聴覚器官が拾い上げたのは、小さな口から漏れ出した声の波紋。それは彼女に背を向けていたはずの祖父にも届いたらしく。


『翡翠……?』


『いかないで……』


 寝言だろうか。しかし、閉じたままの眼からも涙のしずくが流れ出す。そんな少女の手が、かすかに動いた。


 その指は、まるで親を探して彷徨さまよっているように見えて。


『はっ⁉ おい、待ってくれ……この子だけはやめてくれ⁉』


 気付けば死神は老体の横に立ち、しかし視線は孫娘に向いている。たった一人残された孫娘だけは殺さないでくれとすがりつく老いた腕を取った彼は。


 その太い腕を、そっと小さな指へといざなった。


『手放すな……本当に大切なら』


 告げる言葉は、死神としての声ではなかった。きっと、幾度となく失い続けた少年の声。この場所で大切な人たちを救えなかった、自らの弱さを呪った少年の想いそのもの。


『あんた……?』


『この子から最後の肉親を奪うことが筋だと……そんなものが正義だと言うのなら、オレは悪でいい』


 驚いた顔で見つめてくる先生を置いて、死神は離れていく。主の帰還を待っていた愛機にまたがって、その駆動音を鳴らし始める。


『ま、待ってくれ⁉』


 ハンドルに掛けた手が止まる。


『教えてくれ。こんな目に遭うって知っていてその身を差し出したのか? こんな戦いに身を投じるだけの見返りが、あんたにはあるのか? あの子は……坂上愛は、あんたを苦しめているだけじゃないのか?』


 あくまで無理矢理に改造された彼を想って声を絞り出しているのか。


 ごめんなさい、先生。私はあなたの教えを一つとして守れちゃいない。幸せを与えるどころか、彼の優しさに付け込んで、何の見返りもない戦いを押し付けているのだから。


 罰せられるなら、それは死神になってくれた彼じゃない。そうなることを強要した私だ。


『そんな名前は知らない』


 彼の言葉で、まだ本名を伝えていなかったことに気付く。だが今までの状況で私の名前など察しがついているだろう。それでも君は、そう言ってくれるのか。


『それに……見返りならある』


『いったい、どんな……?』


『かつて……誰かが笑っているなら、それだけで戦えると言った男がいた』


 それが誰か、言われなくてもわかる。一年前、その場所で命を散らした英雄。私の技術によって名前も記憶も奪われ苦しんだ、最初の犠牲者。


 ああ、そうだった。あいつは君に言っていた。笑っていてほしい誰かが笑ってくれるなら、ダークヒーローでもいいんだと。


 そんなバカな言葉が、胸を締め付けるのはなぜだろう。


『オレも……それだけでいい』


 マシンが風を巻き起こし、それが去り行く死神のマフラーを揺らす。発進した彼の背中に届いたものは……。


『おじいちゃんのにおいだ……ふふ♪』


 安心しきった誰かのこぼす、ほがらかな笑みだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る