EP04-捌:喰らいつく殺意


 間に合った。


 うしない続けてきたオレにとっては、これ以上ない奇跡だ。今、この腕の中で不思議そうにオレを見つめる少女は、まだ呼吸をしているのだから。


 向こうで倒れている老人の顔と、オーナーの提示したデータと照合する。間違いない、笹瀬川ささせがわ清兵衛せいべえ博士だ。まさか、この場所に捕まっていたとは。


「あー、確かに雰囲気違うね、二代目くんは。あれ、でもどっかで……うーん?」


 どうやらあのピエロ、オレが一年前にここで戦った相手だとは気付いていない様子だ。まあ、それならそれでもいい。


 もう、あの時とは違う。


WASPワスプ


 右手の武器を展開する。〈ハチの毒針〉とは名ばかりの頑強な槍。この『W』は、少女の拘束を切り裂くには少し大きすぎる武装だが、他では危険が過ぎるのだから仕方ない。


「おじいちゃん……助けてくれる?」


「目を閉じて、しっかり掴まっていられたらな」


 じっと見つめる大きな瞳に、小さくうなずいて返す。すると、こちらを掴む手の強さが変わった気がした。本当なら連れて戦うなんて無謀はしたくないが、まずは二人をここから連れ出さければ話にならない。


 殺すと啖呵たんかは切ったものの、ただでさえ使えるナノマシンが少ない現状だ。ここは一気呵成いっきかせいたたみかけるしかない。


 そんな思いで、一年前にこのアジトに乗り込んだ時にはまだ持ち合わせていなかった装備を構え直す。


「やっちゃえー‼」


 駆け出そうとしたオレに向けて、指示を受けた蜘蛛くもの〈実験体〉が飛び掛かってくる。もちろん、計算通りだ。


MANTISマンティス


 踏み込んだ左足を軸にしての回し蹴り。そこに上乗せされるのは、右足武装『Ⅿ』が起こす風の斬撃。あの道化が傀儡かいらいにしているだけのザコには反応もできない速度と軌道。


 吹き飛ばされていく奴に掛けてやる時間なんてない。さっさと先へ行かせてもらう。


「でもさー、僕ちゃんの手下はそれだけじゃないんだよねー‼」


 奴の声が終わるのが先か、二つの気配がこちらへ武器を向けるのが先か。それぞれ後ろと右横からの攻撃。


HOPPERホッパー


 頭上の空白へぶ。両方向からの攻撃を一発でかわす選択肢はやはりこれだ。細剣も二対の鎌も、攻撃対象を逃して互いにぶつけ合ってっているのが見える。


 今は左手が埋まっているんだ、さっさと片付けてやる。


HOPPERホッパー……Exterminationエクスターミネイション


 押し込んだベルト右端のボタンが、左足の装備『H』を励起れいきさせる。赤く稲光を帯びたその一撃を叩き込まれたカマキリ型の〈実験体〉が地面をえぐりながら転がっていく。


 この〈バッタ〉は、少量のナノマシンでも極限解放の一撃ができてありがたい。おまけに攻撃の反動で宙に逃げられるのも大きな利点だ。おかげではち型の〈実験体〉の刺突がオレを捉え損ねる。


MANTISマンティス……Exterminationエクスターミネイション


 間髪を入れずに巨大な鎌鼬かまいたちを起こす。咄嗟とっさの防御など突き破るだけの暴風がレイピアを切り裂いて、そのまま敵を壁まで吹き飛ばす。


「へぇー、やっぱり〈ネクロ〉が言うだけのことはあるってわけだー♪」


 着地したオレに向けて、あのピエロがわらっている。ここで〈ネクロ〉の名前が出てくるということは、やはりこいつは〈スポンサー〉に近い存在か。


 油断できないのはここからだ。まだ配下が隠れている可能性がある。止まっている余裕なんかない。


「もしかして笹瀬川博士を取り返しに来たの? じゃあ、どうぞー♪」


 おもむろに投げ出された人質。あの軌道で進めば、間違いなく頭から地面に激突する。おまけに椅子ごと放られているせいで受け身は取れない。


 罠だということはわかっている。彼を確保した瞬間、そこに生じるこちらの隙を狙っている姿勢など、丸見えだ。


 だから。


HOPPERホッパー


 歯を食いしばっている博士とはすれ違い、そのまま道化師の仮面を狙ってキックを放つ。


「おわっとー!」


 両手を交差させるガードに足裏が当たる。流石さすがに他の〈実験体〉とは違って仰け反りすらしない。


 だがそれでいい。


「って、あれ……?」


 曲げていたひざが、バネのようにしなる。敵の腕とこっちの脚の間に起きる反発を利用しての跳躍ちょうやく。これがオレと師匠の唯一共通する装備……〈バッタ〉の応用力。


 今か今かと落ちていく笹瀬川博士。床にぶつかる寸前で捕まえたところで、身体を回転させる。背中とコンクリートの地面が摩擦を起こすが、この程度は想定内。何とか二人を無事に取り返したのだから、この程度のダメージはむしろ安い方だ。


「おじいちゃん‼」


「翡翠‼」


 拘束を解いた祖父に、孫娘が抱き着いた。良かった、まだ彼は孫娘を抱きしめる程度の力を残している。悪いがもう少し頑張ってもらわないと。


 この二人を逃がすこと。それさえできれば、後はオレの領分だ。


「よーし♪ 博士は返してあげたんだし、もう遊んでも良いよねー?」


 その声を聞いただけで、身体中に悪寒おかんが駆け巡った。初めて〈ネクロ〉と遭遇した時のような、いや、それよりもっと凶悪な視線がオレを射貫いている。


「じゃっじゃじゃーん!」


 見ればピエロの手には、黒い光沢を放つ金属装置。楕円形だえんけいのそれを腹部に押し当てた瞬間、両端から飛び出した細長いものが腰に巻き付いていく。


 あれはまさか、ベルト……なのか。


「ミッションコード、超☆変っ身!」


 刹那せつな


 黒いほむらが奴を包む。そのシルエットは、かつて見た昆虫と恐竜を掛け合わせた巨大な怪物。が、一瞬にしてその泥のような体色が赤く染まっていく。逆に赤かった眼が黒く変わり、ぎょろりと動いてこちらを視界に入れる。


「すっごーい! これが〈ホロウ〉の言ってた新しいオモチャ! 力があふれてくる!」


 どういう理屈か、身体は震えを抑えられず。あの〈ネクロ〉とすら比べられないほどのプレッシャーが全身を襲うのに、身動き一つできないでいる。


「はーい、みんな起きてー!」


 倒した三体の〈実験体〉がゆっくりと起き上がってくる。すぐさま戦線に復帰できないように攻撃したつもりだったが。


 いや、違う。猛スピードで治っていく。まさか破損した個所の修復に全てのナノマシンを投じているのか。だとしたら、やはり完全に〈コア〉を砕くしかない。


「やっぱり〈コア・リンクシステム〉で動かすなら三体がベストだよね! 遠隔操作じゃ、こっちが別のことに気を取られていると、ちゃんと動きの把握もできないし?」


 なるほど、一年前の教訓を活かしているわけか。〈ネクロ〉同様に破壊されて復元されたのかは知らないが、そういう記憶はきっちり残っていやがる。クソッタレ。


「おじいちゃん……」


 背後で聞こえるのは、不安そのもの。ゾンビのように蘇ってくる怪物どもを見て、恐れを抱くなという方が無理か。


「さー、第二ラウンドも張り切っていこー‼」


 手を叩く首魁しゅかいの合図で、三体が一斉にこちらを向く。


 こちらに残された使用可能なナノマシンの総量は、三分の一を下回っている。本来なら二体も相手にしたら空になる量だが、やるしかない。


HOPPERホッパー


 まずは蜘蛛くもへ向かって跳ぶ。捕縛が得意な敵を残せば、せっかく取り返した二人を取り押さえられる可能性がある。だから必ずここで……殺す。


WASPワスプ……Exterminationエクスターミネイション


 振り絞った右腕を解き放つ。他のどの装備よりも一点集中に特化した毒針。これで動きを止めて、〈獣核ゲノム・コア〉の位置を特定して……。


「ッ⁉」


 吐き出される糸が螺旋らせんを描き、オレの右腕をおおっていく。しまった。捕縛されたせいで軌道がれて、顔面を狙っていた槍は虚空を突く。そのまま横腹を殴りつけられて。


 まずい。締め付けが強すぎて右腕が上手く動かせない。


 そんな思考に囚われながら不時着したタイミング。視界には、緑の両腕から突き出す刃。今まさに振り下ろされる瞬間で。


SPIDERスパイダー


 左腕の装備『S』を無理矢理に起動して、ワイヤーを天井に放つ。間一髪、横合いから攻めてきた斬撃をかわせたものの、こちらの勝率の低さを嫌というほど実感させられる。


 明らかに、さっきより威力が高い。


「ほーらー、逃げてないで戦いなよー♪ つまんないじゃーん?」


 呑気のんきな言葉とは裏腹に、陰惨いんさんな心がにじむ声。


 どう対処するか考える間も与えないつもりか、屈強な二体のスクラムを足場にして、はち型が跳び上がってくる。


 それまでの戦闘では見せなかった速度での刺突。


 こんな空中では避けるすべはない。仕方なく腰を回転させて、固定されてしまった右腕を振るう。だがこんなもの、防御にもならずに身体ごと弾き飛ばされる。


 地面を転がってダメージを逃がすが、残る二体の追撃も速い。ほんの数センチという位置に鎌が迫っている。


HOPPERホッパー


 逃げるしかない。この一体への対処に気を取られている隙に、他の二体から攻撃を喰らってしまえば、そこで終わりだ。次の標的は間違いなくあそこで震えている二人になる。


 それだけは、させられない。


HOPPERホッパー……Exterminationエクスターミネイション


 無理矢理に左手で腰のボタンを押し込む。酷使する左脚の悲鳴を感じつつ、それでもカマキリ型に蹴りを見舞う。よし、ガードを突き抜けてやった。さっきほどは飛ばせなかったが、充分だ。


 早いところ形勢逆転への活路を見出さなければならない。可能なら、一体でも行動不能にして。


「……ッ⁉」


 愕然がくぜんとする。すぐさま立ち上がった緑の身体が、再び鎌を携えて襲ってくる。


 今の一撃で〈バッタ〉が内包していたナノマシンはほぼ出し尽くしてしまったのに。


 右腕を振り上げての防御に切り替える。しかし激突した鎌の勢いの強さが、振動に乗って腕全体にまで伝わって。


「ぁが……⁉」


 実体化を維持できなくなった槍が崩れ落ち、そのまま前腕部を斬られる。だらりと垂れる右腕が、装備を展開するための機構に大きな損傷を受けたと訴えかけてくる。修復にまたナノマシンを持っていかれてしまうが、やむを得ない。


 思考の隙間。カマキリ型と入れ替わるように突っ込んでくるのは、危険色のストライプ。ダメだ、このままの軌道なら〈獣核ゲノム・コア〉を埋め込んだベルトに直撃する。


SPIDERスパイダー


 苦肉の策で突き出す左腕。そこから発射した形状記憶合金の糸で、相手の手首を捕らえて。必死に左腕を振るって攻撃の行先を変えるが、それすら見越していたような跳び蹴りがこちらの鳩尾みぞおちを打つ。


「ぐ……⁉」


 背後に気配。振り返る間もなく首を締め上げる敵のワイヤー。前方からは鎌が上がって。


MANTISマンティス


 力任せに突き出した右足から吹き荒れる二対の刃。しかし敵を弾いたはずの風の剣が、音を立てて崩れ去っていく。こちらのナノマシンが底をつき始めたのか。


 切札を失った今、残された武装はサポート寄りの二つだけ。どちらもエネルギー源たるナノマシンの残量はわずかで。おまけに敵は健在。一体として行動不能はなく、弱体化すらしていない。


 嘘だろ。一年前とは、判断速度も攻撃性能もけたが違いすぎる。まさか〈素体〉は一般人じゃないのか。いいや、どこの軍人だろうが傭兵だろうが、〈実験体〉同士の摩訶不思議まかふしぎが連続で起きる戦闘になど慣れているわけもない。


「ぅ……ぁ……⁉」


 首が締まる。戦闘態勢も整わないまま羽交はがめにされるのに、もう抵抗もできない。まずい、このままじゃ左腕から伸びるワイヤーも保てない。


「あれれー、どうしたのー? もしかして、三体が相手じゃキツかったー?」


 悠然と近づいてくる悪魔がわらう。身動きもできないオレにとどめを刺すでもなく、三体の従僕どもはただ黙っている。


「これ、すごいでしょ? 〈コア・リンクシステム〉って言ってね? 使い物にならない〈獣核ゲノム・コア〉を僕ちゃんのナノマシンで強制的に動かしてるんだよー♪ で、前は〈素体〉に普通の人間を使ってたんだけど、今回は〈ネクロ〉の研究を利用してみたってわけ」


「〈ネクロ〉の……研究……⁉」


「そ。君が殺したって女の子。寺嶋てらしま姫澄きすみ、だっけ? その子みたいに死んだ人間を〈獣核ゲノム・コア〉で蘇生させるってやつ。でも、こっちはその応用編だよー。死んだ人間の身体と脳髄のうずいだけを使えるようにして、人格は壊しておくの」


 それはつまり死体をもてあそぶ悪行。先月オレがほうむった後輩のように、こいつらの身勝手に殺された人間を、さらに再利用しているという意味か。


「痛みも感じないし、無駄な思考もないから命令違反もない。ねー、合理的でしょ?」


 さもテストで満点を取った子どものような笑い声。その不気味で醜悪しゅうあくな姿も相まって、殺意を抑えられない。


「お前……だけは……‼」


「なーに? 僕ちゃんを殺すって? むしろ早くやってみせてよー? まあ、僕ら〈ゲノム・チルドレン〉を殺せる存在なんてこの世にいないのは知ってるけど? でもさ、もうちょっと頑張ってくれないと……つまんないよ?」


 左腕を掴まれる。今まで感じたことのないほどの熱と、極度の圧迫。補助脳が叫ぶ内容は、このまま放置すると腕をぎ取られるという予測。


SPIDERスパイダー……Releaseリリース


「おっと?」


 武装を自立行動型の〈クモ〉に変化させて切り離す。実体を保てずに消え去った武装は目くらましにしかならなかったが、それでも奴は手を離した。


 よし、ここから挽回ばんかいを。


 瞬間、オレの身体は宙に在った。それが投げ飛ばされたのだと認識するより前に。


「ばーん!」


 悪魔がこちらへ向ける右のてのひらが見えて。


 そこから噴射されるのは、白い炎。


「ぁッ……⁉」


 高温に焼かれる身体。悲鳴さえき消すのは、熱。


 それでも腕は一切として動かなかった。当たり前か。両腕とも内部から損傷していて。修繕に使えるナノマシンなど、ほとんど残っていないのだから。


「ぁ……ぐ……ぅ」


 無様に地面を転がって。もう身動き一つできないほどのダメージで。数千度の火炎をあんな勢いで受けた以上、回復に時間を要するのは当然だった。


 問題は、そんな休憩時間など連中がくれるはずもないということで。


「ねー、どうしたのー? あの〈ネクロ〉の盾を破ったんでしょ? この選ばれし王候補の一人である〈リトロ〉様のことも、もっとたのしませてくれないとー?」


 敵の名前など、今になって知っても遅すぎる。ほぼ全ての武装が沈黙した今となっては。


 それでも怪獣と呼ぶしかないこの悪魔は、ボロボロのオレの胸を足蹴あしげにして嘲笑あざわらう。


「じゃー、出血大サービスしちゃおうかなー」


 奴の左手が淡く光を帯び始める。それは一年前にここで見たにじの輝き。だがそれが思い起こさせるのは、否応なしに精神を殺す悪夢の時間……。


「レッツ☆〈獣化〉ターイム‼」


「ぁ……あ、あぁ……あぁああああああああああああああああああああ⁉」


 降り注ぐ光がオレの〈獣核ゲノム・コア〉を刺激する。身体が内側から食い破られるような錯覚に、のどから出したくもない声があふれ返っていく。


――殺してやる。


 頭の中で声が響く。ひんやりと静かだが、どこか熱を帯びた声。


「ほらほら、どうしたの? 早く暴走しちゃいなよー!」


――殺してやる。


 憎しみに満ちているのに、いやに楽しげなその声の主は、誰か。


「もっと力を見せてくれなきゃ、つまんないし! さー、今の自分を超えてこー♪」


――殺してやる。


 まさか……オレなのか。これが〈獣〉にちるということならば。


「その調子、その調子だよー! さーさー、見せて! 君の中の〈獣〉をっ‼」


 もう、オーナーに自爆装置を使ってもらうしか……。




「だめっ‼」




 奴の腕が放つ虹、その矛先がずれる。


 それは小さな少女が悪魔の左腕にしがみついた反動で。淡い光は彼女の左目に吸い込まれていくように消えていった。


「ゃ……⁉」


「おい、何してくれてんのさ?」


 奴の右手が、少女の首を掴むのが見える。彼女の左目を良く見ようとしているのか、顔を近づけて。


「あそこで震えていれば、後でゆっくり調理してやったのに。てか〈当たり〉だとしても、今みたいなシラけるの、マジでないわー」


「……から」


 かすれた声がした。その言葉の意味を掴み損ねたのはオレだけではなかったようで。


「何? 命乞いのちごいとか無駄だから。てか、うざい」


「たすけて……くれた、から」


 まさか。そんな理由だけで。


 祖父はあの蜘蛛くもに捕まって身動きが取れないでいるのか。くそ、この身体が動きさえすれば。何か、何か手はないのか。しかしこの酷使しすぎた手足は、もうぴくりとも動こうとはしてくれない。


「おじいちゃんも……あたしも……まもって、くれたから……」


 やめろ。やめてくれ。君がそんな奴に立ち向かう理由なんかない。


「あー、うざい。なんか冷めちゃった。いーや、君の眼球以外は要らないし? 胴体とか邪魔だからさ、燃やしちゃっていいよね? 首の上だけ持ち帰ればセーフ的な感じ?」


 奴の左手が、迫る。


 言葉の意味を理解してしまった少女の顔が凍り付いていくのに。


「じゃ、死刑執行ね」


 涙ぐむ彼女が死ぬ姿が脳裏をよぎった瞬間。どうしてか、その顔が信太郎しんたろうと重なって。


HOPPERホッパー


 ムリのある地面への爆裂。しかし敵の姿勢を崩し、その手を離れた少女を掴むのには充分すぎる小さな跳躍ちょうやく


 彼女の頭だけを守りながら、転がる。


 やってしまった。もう武装は全て使い物にならない。何とか少女を抱く形で起き上がったところまでは良かったのに。地に着けた膝も、これ以上は限界だと声にならない悲鳴を上げてくる。


「まだ動けたんだー? そーだ! ねー、その子、食べちゃいなよ!」


 何を言っているのか理解に苦しむはずの一言。しかし、それがすとんと胸に落ちてくるような不思議な感覚が込み上げる。


 それもこれも、この子の匂いのせいだ。人間として死んでから、長らく味わってこなかった甘味の柔らかな香り。どういうわけか〈獣核ゲノム・コア〉が喰ってしまえと叫んでいるようで恐ろしくなる。


「その子、左眼が〈当たり〉だよー! めーっちゃ美味しいと思うよー? 食べれば元気いっぱい〈獣化〉できるはず! さーさー、遠慮なくガブっといきなよー!」


 否定したい言葉の羅列。しかし、その綺麗な純白の瞳を見れば見るほど。あらがいがたい本能が告げてくる。


――食い殺せ。


 違う。この子を殺すためにここへ来たんじゃない。そんなことのために、この力をまとったわけじゃなかったはずだろ。しっかりしろ。


「その子を食べて、力を出して、楽しく殺し合おうよー‼」


 この右手が、オレと向かい合う少女に伸びる。まるで爪を立てる獣のような手を、もう理性だけでは止められない。


――食え。食って、あいつを殺せ。


 嫌な声が頭の中で鳴り響く。嫌だ。そんなこと、オレは望んでいない。たとえどれだけ人を傷つける「殺戮兵器」だとしても、この殺意を向ける相手だけは、二度と間違えないと誓ったはずなのに。


 そのとき。


「いいよ……」


 弱々しい手が、オレの右手に伸びて。切なげな表情で、その小さな口が開かれる。


「おじいちゃんを……助けて、くれるなら……」


 バカか、オレは。


 この子が求めているのは、最初から何も変わらない。ただ大切な人を助けたいという純粋で無垢むくな願いで。


 大切な人に手を伸ばせなかったオレなんかと一緒にはできない。自分を棄ててでも諦められない相手を、この子は知っている。


 白い眼球をにじませる涙が、オレの〈獣核ゲノム・コア〉へと落ちていく。すると、胸が締め付けられるような想いが込み上げてきて。


 危険信号なのか、見える世界は赤く染まっていく。その中心にいるこの子の顔が、あの日の親友の姿に重なって映る。


(泣いている人たちを……笑顔に……)


 柔らかなほおへとあふれて止まらない透明のしずくを、震えるこの指で受け止める。そのまま、不思議そうにこちらを見据える相手の頭をそっと撫でて。


「下がってろ……」


 声を絞り出し。残された最後の力で立ち上がる。


 背中に感じる視線も、内側から湧き上がる本能も、無視して。


「あれれ、食べないのー? それじゃ、戦えなくなーい?」


 返事などしない。そんな余力は残っていない。ただ今は、対峙たいじする敵を仮面の内側から見据えるだけ。


「ミッション、コード……」


 崩れ去った武装を再構築するには、もう一度やるしかない。身体中が拒絶反応を起こし、その証明と言わんばかりに口から人工血液があふれ出す。それでも、もう止まれない。


『ダメだ、少年‼ やめろ‼』


 通信を切っていたはずのオーナーの叫びが聞こえた。遮断もできないほどダメージを受けているのか。なら、もう仕方があるまい。彼女の声は聞き流そう。


『もういい! 逃げろ……! 逃げてくれ……』


 どんどん弱くなっていく声が、いやに頭の中で反響して。ああ、こんな声を出させるために力を望んだはずじゃなかったのに。


『頼むから……生きてくれよ……』


 オーナー、すみません。無理そうです。


 返すこともできない言葉を想いながら、口に力をめる。


 この呪文を言わなければ、死んでも死にきれない。たとえこの身が殺意に呑まれるとしても。たとえオレが南野みなみの光一こういちという人間であったことさえ忘れ去ってしまったとしても。


 大切な人たちを見殺しにしてしまったオレだから。


 あの人たちが生きて、願いを叶えるためにできたはずの分を、せめて……。




「……変身……!」




 果たして、身体の奥底まで声は響き渡る。機械的に反応した〈獣核ゲノム・コア〉は赤々ときらき、純黒のナノマシンを外界に放出していく。


 それはさも降りしきる雨のように、この身体を包んでいく。


 同時、内側では〈獣〉がわらう声がする。


――殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。


 ああ、待たせたな。今からお望み通りの殺戮をさせてやる。


 だがこの力の向かう先を決めるのは、お前じゃない。正義なんかなくても、この殺意はオレの背負う悪だ。


 くそ、世界が黒く染まっていく。これも〈獣化〉の影響か。




(そんなもんかい?)




 不意に後ろで風が吹く。優しくもどこかなつかしい温かさに乗ってやってきたのは、声。


 もういないはずの人の声が聞こえたとき、右の瞳が燃えるように痛みを灯す。


 すると、真紅の世界が白く変わり始めて。




EMANCIPATIONイマンシペイション




 七色のグラデーションがオレの視ている世界を一変させた。さっきまでの赤だけでも黒だけでも、まして白だけでもない。


 光彩を取り戻した世界に揺らめいたのは。


 燃え尽きたはずの、血赤のマフラーだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る