EP04-参:過去からの来訪者


『きのうの朝ね、つまんないことでおじいちゃんとケンカしちゃって。だから、そのせいで怒って帰ってこないんだって思ったの……』


 笹瀬川ささせがわ翡翠ひすい


 モニター越しに見ても天使のように愛らしいこの少女がやってきた理由。それは、昨夜から帰ってこない祖父を見つけてもらいたいという依頼だった。


 もしあのヘッポコ探偵を知っていたなら、絶対に頼まないだろうとは思うが。おおよそネットか何かで調べて最初に出たのがあいつだったのだろうから仕方もない。


『それで探偵さんに依頼したかったのですね。しかし、翡翠様? それなら警察には届けなくてもいいのですか?』


『おじいちゃんが言ってた。けいさつは、信じちゃダメだって』


 あの人らしい考え方だ。不正やねじ曲がったことが大嫌いだったから。他の地域の警察ならいざ知らず、ことこの街の警察は信じられないとは常々漏らしていたっけ。


 まあ、当然と言えば当然か。なにしろ〈実験体〉絡みの不可解な事件ばかりのこの街で、それをみ消すのばかり得意になっていくのだから。


『学校でずっと考えてたの。おじいちゃんはね、〈すじ〉の通らないことは言わないから、怒ったのも、あたしが悪かったって。だから帰ったらちゃんと、ごめんなさいを言おうと思ってたのに……』


『筋……ですか。なるほど』


 少年のココアフロートのおかげなのか、だいぶ落ち着いてくれた。モニター越しに見ても、もう涙はない。


 不思議なものだ、南野みなみの光一こういちという少年が作るものは自然と誰かの心を和ませる。


 そういえば、あのバカも美味いと言って笑っていたっけ。彼同様に改造された身体のせいで味覚を失っていたのに、彼のコーヒーには味があると喜んでいたものだった。


『もしお昼がまだでしたら、サンドウィッチでもいかがですか?』


『腹がへっては、いくさはできぬ?』


『ええ。それも筋の通った考え方かと』


 時間稼ぎだね。いい手だ。料理をしていれば、自然とこの場に留めて置ける。


 不意にモニターに少年からのメッセージが飛び込んだのが見える。この少女と私の関係について知りたい、と。


 いいだろう。情報収集なら両手とこのコンピュータでやればいい。口なら空いている。


 何より彼には、知る権利がある話だ。


「私の恩師の孫娘。同時に、私が初めて〈実験体〉の脅威を知ったときの被害者だ」


 語り始める。既に彼がまゆをひそめているが、これは少年にも無関係じゃない。むしろ彼がこの地獄に引きずり込まれた原因の一つなんだから。


「二十五年前の隕石落下で、宇宙ステーションに勤めていた私の父親は死んだ。基地が全壊する大事件だった。街でも落下した隕石の破片を巡って一悶着ひともんちゃくあったらしいが、まだ一歳になったばかりの私にはあずかり知らない話さ」


 思い出せることなど、ほとんどない。父の記憶など、微塵みじんも持ち合わせがない。


「後を追うように死んだ母親の代わりに私を育てたのは、〈X SEEDエクシード〉という企業の養護施設。〈宙舟園そらふねえん〉と言ってね。孤児を集めては優秀な人材に育てて、そのまま企業の戦力にしようという機関だった」


 後で知った話、そこで行われていたのは尋常じゃないほどの高度な教育だったらしい。もちろん、それに見合うだけの力を持った専属の教師たちだったからこそ、私のようなマッドサイエンティストが出来上がるわけだが。


「私には夢があった。父を奪った宇宙で、人間が生き残るすべを造り出すこと」


 別に死んだ両親に思い入れがあったわけじゃなかった。亡き二人を想って泣いた経験など物心つく頃には既になく。ただ、父のことを話す大人たちが決まって「残念な事故だった」と言って片付けようとするのが気に入らなかった。


「飛び級で大学院を出て博士号を得た私は、予定通り〈X SEEDエクシード〉の宇宙開発部門に籍を置いた。そこで新たな宇宙服の開発に着手していたが、もう一つの設計図を陰でこっそりと描いていたのさ」


 今にして思えば、それこそがこの地獄の始まり。この悪夢を現実のものにした一因。私の犯した最大の罪。


「〈Projectプロジェクト: Maximum-Reverserマキシマム・リバーサー〉……略称を〈MR計画〉。簡潔に言うならサイボーグ計画だ。これなら宇宙という極限空間でも人間が生きられると考えた……私自身の狂気が創り出した産物」


 食事、睡眠、呼吸に至るまでの一切を断絶することになっても、人工物である内部臓器がそれらを代替し生命維持を行う機構。そんなものに改造されたら、おおよそ人間とは呼べなくなるそれを、私は考案してしまった。


「君の目の前にいる少女の祖父……笹瀬川ささせがわ清兵衛せいべえ先生はね、私に宇宙科学を教え導いてくれた人だった。だからさきにその計画を打ち明けた」


 結果は惨敗だったけどね、と付け加える。だが、その日のことは忘れもしない。


「科学は人を幸福に導くものだと何度も伝えてくれた彼に、その時の私は反論した。この研究で人類は宇宙を手に入れるのだから、ほんの一握りの人間の犠牲で全人類が救われるかもしれないのだと」


 偉そうにそんな大口を叩いた私は、そのまま逃げるように彼のもとを去った。


 体調不良を言い訳にして出社を断ったあの時期は地獄のようだった。同じチームにいた先生がどんな気持ちでいたのかを想像するのは、今でも怖い。


「その頃だった。〈スポンサー〉のつかいが私の前に現れたのは……」


 モニター越しに見える彼の表情が強張こわばるのが見えた。


『お兄さん、どうしたの?』


『いえ。探偵さんとどうにか連絡が取れないものかと考えていたのですが。電話番号を聞いておけばよかったなと思いまして』


 下手な嘘だね。君の感じる怒りを、彼女は鋭敏に感じているじゃないか。


 けれど、本当はもっと前にこの話をきちんとしておくべきだった。私自身がこの罪を打ち明けてさえいれば、君に今この瞬間を耐えろと言わずに済んだだろうにね。


「その時に描いた〈MR計画〉と、職場で研究していた新しい宇宙服の〈X4イクス・フォー計画〉。この二つの設計図……そのコピーを私は奴らに売り払ってしまった。巨額の資金と〈獣核ゲノム・コア〉という未知のテクノロジーに目がくらんでね……」


 認めてくれると思った恩師に理解されず自暴自棄になった私には、きっとあの黒尽くしの男が告げた言葉は福音に聞こえていたのだろう。


「だが適合する〈素体〉を探す前の段階で、私は〈獣核ゲノム・コア〉を調べたくなった。それで気付いてしまったのさ。これは地球上には存在しない物質であると」


 当たり前と言えば、そうなのだろう。


 生命体……特に人間と結合させることでナノマシンを放出する魔法のような機械。それがこんな小型であるなら、特許を取得して大儲けができて当然だ。


 しかし〈スポンサー〉はあくまで闇に紛れて、技術者に忍び寄る。この社会で生きていくうえで重要視されるべき倫理観や規範にもとる技術を素晴らしいとたたえて。我々だけは認めているから出資したいなんて、甘い言葉で〈実験体〉を造らせる。


 それが危険でないはずもない。だが研究者としての探求心がその赤信号を見えないように隠してしまう。認められたいという欲求が判断を鈍らせて。狂った研究が孤独を生み出し、そのせいで嫌でも自覚させられる弱さが、道を踏み外させる。


「きっと私がすぐに〈実験体〉を造らなかったのも、笹瀬川先生の言葉がどこかでストッパーになっていたからかもしれない。今だからこそ思う妄想だろうがね」


『……』


「だがいつまで経っても〈実験〉を始める素振りのない私を、連中は見逃さなかった」


 少年の手が止まるのが見えた。まあ、そうなるだろうね。私だって思い出すだけで恐ろしい記憶が蘇るというものさ。


「笹瀬川先生の娘さん……そこにいる翡翠ちゃんの母親が、私のマンションを訪ねてきてね。なんだか苦しそうだったから、思わず上げてしまったのさ」


 本当にただの女にしか見えなかったのに。そういえばあれも七月の頃だったか。


「不意を突かれたよ。彼女が〈実験体〉に豹変ひょうへんして。逃げ場もない私は半殺しにされて。ご丁寧に時限爆弾まで持参してやがってさ。そうして置き去りにされた私も、流石さすがにこれは駄目だめだと思ったよ」


 あの痛みを思い出す。本当に、そのまま殺してくれればまだ楽だったのに。あんなに痛いまま放置されずに済んだだろうに。


「けどね、そこであのバカが飛び込んできた」


 君ならそのバカを知っているね。


 血赤のマフラーを首に巻いて、〈実験体〉を狩っていた死神。それでいて、化物にされた誰かの痛みを代わりに請け負った……この街のヒーロー。


「助け出された私は、問われるがまま彼女の家を教えた。笹瀬川先生に連れられて、まだ赤ん坊だった翡翠ちゃんを見に行ったから、たまたま覚えていてね。そうして……夫を殺して、次は娘に手を掛けようとする彼女を……あいつが討った」


 サンドウィッチを出す手が、少しだけ震えていたように見えたのは私だけかい。優しい君に、被害者の目の前でこっそりとこんなことを話す私を、どうぞ呪ってくれ。


「それからだ。〈スポンサー〉が他にも街の人間を使って〈実験体〉を造らせていることを知ったのは。あのバカが教えてくれたんだ。そう、君の師匠さ。私の売り払った技術で改造されて、そのせいで記憶も味覚も失くしてしまった哀れな男……」


 ちょうど、君が嗅覚を頼りに料理を作らなければならない理由と同じだ。


 私の生み出した技術の欠陥は、脳にまで多くの手を加えるせいで味覚が著しく機能しなくなること……らしい。あいつに会うまで考えもしなかった。


 もっとも、味を感じるかどうかなんて肉体を生存させるという大義のためなら捨て置いていい、と当時の私はそんなことを平気で思える人間だっただろうが。


 たまたま君は記憶を失わなかったようだが、あいつはそれに少し苦しんでいたね。自分は何者なのか、ってよく自問自答をしていたものだった。


「世間的には死んだ人間である私は、あいつが以前に叩き潰して乗っ取ったという〈組織〉のアジトに、つまりこの地下アジトに転がり込んだんだ。ちょうど資材も揃っていたしね。あとは、ご存じの通りさ。やっていることは今と変わらない」


 無表情のままの君は、何を思っているのだろう。


 師匠のことを想って悲しんでいるか、それとも〈スポンサー〉への憎悪が増しているか。あるいは何も感情など湧かないように押し殺しているのか。


『お兄さん、これもお母さんの味とおんなじ! どうやって作ってるの?』


 驚く幼女の声で現実に引き戻されたらしい少年は、小さく呼吸して。特に難しいことはしていません、なんて答えている。が、対する彼女は納得していない様子で。


『おじいちゃんがよく言ってたんだ。死んだお母さんみたいな料理上手じゃなくてごめんな、って。だから、いつかあたしが上手になって、おじいちゃんに食べさせてあげるの』


 この子の純粋さが、痛いくらいに胸にみる。


 私の記憶が正しければ、目の前で母親を殺されているはずで。どうやったら、そのトラウマを乗り越えてこんな風に話せるのか。


 いや。もしかしたら、いつぞやの事件で生き残った少女のように、ショックが大きすぎて記憶を失くしているのか。それなら、それも良いのかもしれない。


 ずっと過去の痛みで自分を苦しめ続けるような生き方は、そこで笑う天使には似合わない。そんなの我々だけで充分だ。


『きっと上手になれますよ』


『ほんと?』


『ええ。オレも両親をうしなってから、料理を覚えましたから』


『お兄さんも、お父さんとお母さん、いないの?』


 にこりとも笑えないくせに、こくりとうなずく。眼帯少女を見つめる少年の瞳だけは優しげで。近い境遇の相手を放っておけないのは、昔からなのかい。


『二人がいなくなってから、自分の意思だけでは笑えなくなりましたが。それでもコーヒーや料理の味は、相手への気持ちを伝えてくれる』


 しみじみとそう告げる少年を見つめる、大きな右目。黄色味を帯びるアンバーの瞳が、嬉しそうに和らいだ。


『おじいちゃんが言ってた。〈しょくにん〉は言葉じゃなくて仕事で語るんだ、って。きっとそういうことだね』


『まあ、そういうことでしょう。オレはただのアルバイトですが』


『ふふふ♪』


 愛らしい少女が笑っている。


 少年、君はやはりヒーロー向きの人間だよ。まぁ、どうせそう言っても、素直には受け取らんのだろうが。欠陥だらけの「殺戮兵器」ですけどね、なんて素っ気なく返すのかい。


 モニターが情報を受信するのが見えた。ダメで元々と仕掛けておいたGPS追跡装置がヒットしている。今の今まで機能してなかったということは、電源を入れた直後ということか。


 理由はよくわからないが、少なくとも本人の意思で端末を操作しているらしい。その付近に設置されている解像度の低い監視カメラには、ちゃんと先生の姿が映っている。監禁されているとか、そういう物騒な話ではなさそうだ。


「少年。今から送信する座標に向かってくれ。もちろん翡翠ちゃんを連れて」


 ちょうど軽食を終えた少女を連れ出すのには、ちょうどいいタイミングだろう。データを受領した瞬間に眉が上がったように見えたが、特に異論はないらしい。


 場所は黒銀くろかね港湾タワー。かつて使われていた灯台を改修しただけのさびれた施設だ。バイクで行けば大した距離ではないはずだから……あ。


 問題は何と言って連れ出すか、だな。


『そういえば探偵さんが、よく港湾タワーというところに行くと言っていました。そこから波を見ていると落ち着くのだとか』


『ほんと? じゃあ、そこに行ってみる!』


 肩からタスキ掛けしているパンダ柄のポーチ、そこから携帯端末を取り出している。どうも場所を検索している様子だ。もしかして一人で行く気なのか。いや、ここにも一人で来ているなら、そこへも一人で行くつもりか。


 その事実がある以上、やりかねない。


 ん? なんだい少年、わざわざ端末を耳に当てて、電話のマネなんかして。


『もしもし、オーナーですか? え、今日はもう店を休みにしていい? 代わりに明日はいつもの倍は働け? ああ、明日は七夕祭ですからね。わかりました。では本日はこれで』


 嘘も方便、という言葉は彼のためにあるのか。どうりで、あの探偵が灯台に行くなんて話は聞いたこともなかったが、それも彼女と一緒に行くための口実か。


『これから暇になったので、良ければお送りしますよ。外は暑いですし、歩いていくには遠いでしょう』


『ほんと?』


『ええ。ただ、モーターバイクしかないのですが』


『バイク、乗ってみたい‼』


 ああ、本当に。どうしてこの子はこんなにキラキラしているのだろう。二年前に大事な人たちを失って、それでも元気に育っているのは奇跡なのではないか。私のようなマッドサイエンティストや、彼のように笑えない人間の方がちょっとばかり異常だとしても。


『では待っていてください。マシンを取ってきます』


『あ、お兄さん。おねがいごと、書いてもいい?』


 そう言った彼女の小さな指が示すのは、笹と短冊の載ったテーブル。どうせ客なんてほとんど来ないから、三つしかないテーブル席の一つを七夕用にしたと言っていたスペース。


『もちろん』


『いっぱい書いてもいい?』


『是非、お願いします』


 笑わない男は青空色のエプロンとその言葉だけ残して外へ出る。


 なんなら自動操縦で店先まで呼ぶことだってできるが、そんなものを誰かに見られれば大問題だ。この街ですら、自動二輪車の完全な自動操縦技術を確立した企業は未だにないのだから。


 ふと店内の監視カメラをのぞくと、少女は色とりどりの短冊に願い事を書いていた。


 赤、青、黄色、緑に紫と美しいグラデーションを笹の葉に吊るしていく。この子には芸術の才能があるかもしれない。笹に関連しているからか、可愛らしいパンダの絵まで添えているのが見えて。


 ちょっと微笑ほほえましい、なんて思うのは何故なぜだろう。私にはあんな愛らしい頃はなかったと記憶しているが、普通の子はこういうものなのかもしれない。彼女が生まれたばかりの頃に見に行ったときは、私が近づいただけでぎゃんぎゃん泣いていたものだったが。


『お待たせいたしました』


 ヘルメットを持って戻ってきた少年も目をみはっている。体裁ていさいだけ整えた貰い物の笹は、きっとこんな風になるはずもなかった。こんなにも彩り豊かにくつがえされた現実に、少年は何を思っているのだろう。


『多すぎたかな……?』


『いえ。まるで虹がかかったようで、とても綺麗かと』


『えへへ♪』


『では、行きましょうか』


 この無表情という仮面の裏に、どんな感情を隠しているのだろう。対照的なまでによく笑う少女を見る目には何が映っているのか。私にはわからない。


『しっかり掴まっていてくださいね』


『うん♪』


 夏の日差しを受けて、マシンが進む。街を抜けて、港の先を目指していく。


『わぁ……海、きれい』


 時折に聞こえる感嘆の声。彼の背中にしがみついている少女には、流れるような景色が見えているのだろう。よく晴れた日だし、目に見える全てがきらめいているのかもしれない。


 目的地に近づくにつれて、車や人通りが少なくなっていく。普段は外にも出ない私だが、この街でこんなに過疎化した場所など、初めて見た気がする。


 もしかして、あのバカならこういう場所も行き慣れていたのかな。お得意のバイクに乗って、こんな景色を見ていたのかもしれない。


 いつか〈スポンサー〉を叩き潰した後には私をこの研究室から連れ出すとか言っていた気もする。私も大概に馬鹿バカだ。そんなことを思い出すなんて。


 あいつが私たちの前に姿を現すことは二度とないとわかっているのにね。


 雲行きが怪しくなってきた。今日は降らないと言っていたが、通り雨だろうか。ただでさえ暗い雲など好きではないのに、何だか不穏な色合いに見えて嫌な気分になる。


『ここですね』


 辿たどり着いた目的地。昔は多くの船乗りたちが必要不可欠とした光を灯す白い塔。今となっては昼も夜も関係なしに電灯が輝く都市となったせいで、もう老朽化が進んでいる。おかげで人影など一つとして見えない。


 しかし笹瀬川先生は、何の理由があって塔の上などにいるのだろうか。特に船舶に造詣ぞうけいの深い人ではなかったはずだし、ぼうっと海を眺めるような趣味もなかったはずだが。まさか、老けてしまったのだろうか。


『おじいちゃん!』


 灯台に向けて放たれる声に、しかし彼は振り返らない。携帯端末を片手に、ただ海を見ている。


 いや、ちょっと待て。そのまま進んだら柵を越えてしまう。まさか、と思った時には既に十五メートルほどの高さから先生が落ちていく瞬間で。


『お兄さん⁉』


 悲鳴じみた声と同時に〈クモ〉のカメラが暗転する。普通の人間ならダッシュしたところで落下の方が速い。


 だが、彼ならば。


HOPPERホッパー


『ぅッ……‼』


 最後の最後に、少年の左足に備わった〈バッタ〉の力を借りた跳躍ちょうやく。地面すれすれで先生の身体を捉えてくれた。転がってダメージを殺しながらも、ちゃんと対象の身体を気遣うあたり、やはり彼はヒーロー寄りの人間だ。


『おじいちゃん⁉』


『ダメだ……、来きてはいけないッ!』


 駆け寄ってきた少女を、どういうわけか少年の声が制する。まさか命を落としているわけではないだろうに。


 いや、違う。


 この近さでやっとわかった。そもそも、こいつは笹瀬川先生じゃない。だが〈これ〉は……何だ。


 少年の抱えていた白衣の男、その形が徐々に崩れ始める。まるで泥人形が溶けだすような不可思議な光景。


 ぽつぽつと、雨粒が見えた瞬間。




『あっれれぇ~、おかしいなー?』




 雨の中でもよく通る声。それは悪ふざけをする子供のような、しかし悪辣あくらつな意をはらむ中性的な響きで。


『ねぇ、孫娘は博士と二人暮らしって聞いてたんだけどー? てか、そいつ、だれー? 〈ホロウ〉が造ったドール、なんで崩れちゃってんのー?』


 送信される少年の視界のデータ。そこに映るのは、灯台の上に伸びる先端部分に、片足だけで立つピエロの面を付けた――誰か。


『ま、何でもいいやー。どうせ死ぬんだしー?』


 強さを増していく雨の中、わらい声と共に指を鳴らす音が不気味に反響して。


『はーい、それじゃ、いきますよー? ミッションコード、変っ身!』


 灯台から飛び出してきた影は、三つ。そのすべてが〈実験体〉だと理解できる異形いぎょう


 蜘蛛くも蟷螂かまきりはち


 いや、待ってくれ。その姿には見覚えがある。細部に違いはあるが、一年前の七夕、その事件に現れた敵と同じ技術で造られた〈実験体〉たち。それにあのピエロの声も、その時に聞いたものと似ている。


 まさか〈ネクロ〉同様に〈スポンサー〉に復元されたとでも言うのか。


『ぐ……ッ⁉』


 襲い来るのは、連携した三体の波状攻撃。


 吐き出す糸に絡め取られまいと横にべば、毒針じみた細い剣で突き刺されそうになり。寸でのところでかわしても、今度は別方向からかまひらめく。


 躱しきれずに地面を転がる少年が奥歯を噛むのが聞こえるだけ。


 あのピエロ仮面、観客然として手を叩いているのが腹立たしい。民間人でしかない翡翠ちゃんの見ている前では変身できないのが歯痒はがゆくてたまらない。


 立地も最悪だ。こんな開けた場所では隠れることもできず、包囲網は徐々に狭まっていく一方。雨が邪魔をして、少年の視界だけでなく、その動きまでもが鈍くなっていく。


「少年! 彼女を連れて逃げろ! ここじゃが悪すぎる‼」


 意を汲んだのか、それとも攻撃から逃れるためだったのか。


HOPPERホッパー


 跳び上がった少年の向かう先は、この異常事態にどうしていいかわからず固まったままの少女の方。そちらには、ここに来るまでに乗ってきたマシンもある。敵がすべて一年前と同型なら、奴らの移動速度は承知の上だ。きっと彼の運転技術なら逃げ切れるはず。


 あとは彼女をどこに隠して、そこからどう連中と戦うかを考えれば……。


『ねー、どこ行くの?』


 この目に飛び込んだ情報のせいで、途端に思考が止まる。


『が……はッ⁉』


 一瞬にして少年と少女の間に入ったピエロ面。その細い手足からは想像もできないほどの速度で打ち出されたアッパーカットへの防御もままならず、死神に変身できない少年は弾き飛ばされる。


 その勢いを殺さずにくるりと回った道化師が、震える少女の服を乱暴に掴むのが見えた。


『や……⁉』


『あー、こらこら、暴れちゃだめだよー? これから、おじいちゃんに会わせてあげるんだから、感謝してねー?』


 おい、嘘だろ。笹瀬川先生が捕まってるっていうのか。それも〈スポンサー〉に所縁ゆかりのある敵になんて。最悪なことに、翡翠ちゃんまで連れていかれようとしている。


 頼みの綱である我らがヒーローは……蜘蛛くもの糸で身動きを封じられて、蟷螂かまきりの刃に切り刻まれ、はちの細剣から毒を注入されて。


「少年っ⁉」


『お兄さん⁉』


 ボロ布でも扱うように放り出された少年。ダメだ、自らの意思で〈獣核ゲノム・コア〉を励起れいきさせることもできない状態だなんて。あの毒は〈実験体〉さえ動けなくするほどの猛毒なのか。


 倒れ伏す彼は、それでもさらわれようとしている少女へ左手を伸ばす。


『行……か……』


『うっわー、無様だねー?』


 しかし、その手をピエロがわらって踏み付ける。痛みにゆがむ声が漏れ聞こえるが、ここにいる私には何もしてやれない。


『あ、こんなところに死体を置いといたら、また〈ネクロ〉に怒られるかなー? うーん? まあ、毒も回ってるみたいだし、このまま海に捨てちゃえばいっかー!』


『待……て……』


『あーあー、敗者の戯言ざれごととか聞きたくないでーす! てかさ、どういう関係か知らないけど、さっさと死んで?』


 仮面の下から覗き見えた瞳。その冷酷さに、息が詰まる。モニターを通してもこれなら、眼前にいる少年にはどう映っているというのか。


 ぱちんという音がした。それが三体の〈実験体〉にとって何の合図だったのか。負傷し動くこともできない少年をかつぎ上げて捨てるという残酷な指示。八本という多脚ゆえに力も強いのか、蜘蛛の〈実験体〉によって命令が実行される。


 モニターに映る世界に雷鳴が轟いて。土砂降りになってきた雨に流されるように、海の中へと放り投げられる。暗転する視界が最後に捉えるのは、黒く染まっていく荒々しい波。


「少年……おい、少年っ‼」


 傍観者ぼうかんしゃでしかない私の声は、瀕死ひんしの彼に届くこともなく。


 ただ、むなしく宙を伝っただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る