EP04-弐:甘味の香りがする少女


 コーヒーフロート。


 氷をたっぷり入れたコーヒーの上にバニラアイスを載せただけの簡素なもの。ミントを添えることで雰囲気だけはなんとか表現するが、本当にこれで合っているのかははなはだ疑問の残るところだ。


 ストローを差したグラスを持って地下へと降りる。客がいないのをいいことに、あれこれ注文するご主人様に小言の一つでもぶつけるべきなのか。


「少年、できたぞ♪」


 この地下研究室に立ち入った瞬間に聞こえたのは、契約相手である麗人の声。


「そんなところで突っ立ってないで、見たまえ。左手武装『S』に特別な通信システムを組んだ。これなら〈ネクロ〉のような特殊な敵の放つ妨害も関係ない」


 ダークブラウンの髪はつややかに美しく。装備の点検にわざわざ白衣をまとってはいるが、その体躯たいくの起伏に変わりはない。何より、初対面の男ならそれだけで目を奪われる美形と余裕たっぷりの笑みだ。


 もう見慣れたはずのオレでさえ、少し汗ばんだ彼女を見るのは心臓に良くない。この人とずっと一緒にいた師匠は、こんな時にはどんな言葉を掛けたのだろう。


「お? アイスが載っているなんて気が利いているじゃないか。いくら地下でも、集中して作業すると暑いからね。本当にこれを完成させるのには苦労したんだ……少年?」


 声を掛けられて我に返る。オレは今、どこを見ていたのだろうか。


「まさかと思うが、具合でも悪いのかい」


「いえ。新メニューの件、なかなか思いつかないもので」


「明日の七夕祭に合わせたやつか。しかしそれ、ここら辺に店を構えている連中が騒いでいるだけのことだろう。気にしなくて良いじゃないか。もらったささだって飾るんだろ?」


「はい。もう飾り付けは終わっています」


 まさか食材を買い出しに行った得意先で、七夕祭の準備がまだなら、と笹をもらうとは思わなかった。それが昨日の出来事で、仕方なく折り紙を切って短冊は用意したものの、あれでいいのかはやはり疑問だ。


「最近じゃ探偵だってめっきり来ないじゃないか。ただでさえ客がいないのに、限定メニューもないと思うがね。というか、このコーヒーフロートで良くないか?」


 どうも気に入ったらしい。


 考えてみれば自然な流れか。オレがれたコーヒーを美味いと言って飲んではいるが、このマッドサイエンティストは甘党だ。


「そうなると、子ども向けにココアフロートも用意すれば充分ですかね」


「あ、それは私が飲みたい」


「では後ほどご用意いたします」


 この色っぽい笑みで、実はまだ子どもなんじゃないかときたくなる。どれだけ甘いものが好きなんだ。


 いや、女性は基本的にそういうものなのか。義母は何でも美味しそうに食べていたが、学生時代のクラスメイトたちなど甘味の話で異様に盛り上がっていた気もする。


「しかし……そうか。明日は七夕か」


「ええ」


 互いに声のトーンが落ちるのを感じる。今も生きて日常を送る人々には単なる季節のイベントの日でしかなくとも。


 この街で死ぬ自由さえ失くした者たちのためにとむらいの死神として戦った英雄が消えた日。正義を語らず、悪だと後ろ指をさされようとも、最後まで笑顔を絶やさなかった男の命日。


 その人が貫いた宿業しゅくごうをオレのような未熟者が背負うことになった日から、明日でちょうど一年になると思うと、なんとも言えない気持ちが込み上げる。


「なあ、少年」


「はい、オーナー」


「私を恨んでいるか」


 座ったままの彼女が、立ったままのオレに見せる上目遣い。許してくれとも、殺してほしいとも告げず。ただ、あの人の影だけを見ているようで。


「すみません、お客様がいらっしゃったようですので戻ります」


 嘘はいていない。確かに店の出入口付近に気配を感じた。足の動かし方からして、久しぶりの常連客というわけではなさそうだ。


 急いで戻ると、客が意を決してドアを開いた瞬間だったようで。


「いらっしゃいま……せ?」


 驚いた。


 いや、背丈のことではない。明らかにこんな場所にいるべきではない、小学校もまだ中盤ではないだろうかという小柄さではあるのだが。左右に結ぶ髪型や、フリフリとした薄いピンク色の服飾、さらにはパンダの柄のポーチなど、そういう年代であることは間違いなく。


 つまり、まったくこの店に来るような客層の人間ではないという事実。これまでの最年少でも中学生が限度だ。というか中学生でも普通は来ない。


 しかしいびつに感じるのはおおわれた左眼。本当に失明でもしているのか、それとも別の病気なのか。とかくその白い眼帯が、大きな違和感をかもし出す。


 だが何よりも。この少女を見ていると、腹が……そこに埋め込まれた〈コア〉がうずく。まるでこの幼い生き物をえさにして食い殺せと、頭の中で声が響くようで。


「お兄さんが、めいたんてい、さん……?」


 訊かれたことを理解するまで、おおよそ一秒。何とか吹き飛びかけた理性を取り戻して声を絞り出す。


「いえ。探偵さんは最近いらっしゃいませんが……」


「そんな……」


 ひどく落胆した様子の眼帯少女。頭の両側から伸びる小さな束が揺れると、ケーキのような甘い匂いが漂う。それがここ一年の間にすっかり失ってしまったはずの食欲を駆り立てるのを感じて、必死に自制心を働かせないとならない。


 いったい何なんだ、この少女は。オレはどうしてこの子を見ているだけで、こんな感覚を抱くのか。


翡翠ひすいちゃん……?』


 不意に脳内に聞こえたのは、怪訝けげんそうなオーナーの声。


『オーナー、彼女をご存じですか? なら教えていただきたいことが……』


『ちょっと待て、ここに来る理由なんかないはずだ。いや、そもそも笹瀬川ささせがわ先生はどこにいる? あの人が、大事な孫娘を独りきりにするわけない……』


 こちらのメッセージなど届いていないのか、彼女の内から湧き上がる疑問が先行してしまっているのか。どちらにしろ、この子が何なのかを突き止めてもらうためにも、引き留めておいた方が良さそうだ。


「今日はまだ探偵さんをお見掛けしていません。しかし、来ないとも限りません。外は暑かったでしょう。良ければ冷たいものでも飲みながら、少し待ってみてはいかがでしょうか?」


 我ながら無理のある話だ。先月の事件で負傷した探偵は、それ以来、一度も顔を見せていない。今日ここに来る可能性も未知数だし、何よりこの少女がそれを信じるともわからない。


 こうして考え込んでいる目の前の少女が、やはり他を当たると言われたら。そうなる前に、引き留める方法を考えておかなければ。


「お兄さん。けいさつ、よばない?」


 あらぬ方向から突拍子もない要求が飛んできた。ちょっと待て、警察が介入するような話なのか。


『少年! なんとしても、彼女を引き留めてくれ!』


『オーナー?』


『なんだか、嫌な予感がするんだ……』


 脳内で行われる会話など、つゆとも知れない少女は黙ってオレの返答を待っている。その瞳はどこか必死で、言い知れない不安に駆られているようで。


 こんなとき、あいつなら、きっと笑顔を見せて安心させたのだろうけど。


「わかりました。警察には連絡しません」


「ほんと?」


「その代わり、試供品を……試しに作った新メニューの感想をください」


 きょとんとした少女をカウンター席に腰かけさせて、さっさと準備を始める。アイスココアを作り、その上にバニラアイスを載せるだけだが。


「ココアフロートです」


「わぁ……」


 こんな簡素なものにも驚いているのは、どういう理由なのか。外食はあまりしないのか、それともココア自体、あまり飲んだことがないのか。とかく甘味に興味をかれる少女の年相応らしい表情が見えた。


 正直、この少女が醸し出す独特の甘い匂いのせいで手元が狂わないかだけが心配だった。しかし徐々に慣れ始めてきた身体に胸を撫で下ろす。それでも気を抜けば危険だと理性が叫んでいるが、話をするくらいなら何とかなるだろう。いや、そうだと信じたい。


「お母さんの味とおんなじだ……」


 とてもなつかしそうなつぶやき。その視線のやり方に違和感を覚える。まるでもう会えない人間のことを思い出しているようで。


「おじいちゃんも、すきかな……」


 瞬間、少女の瞳がうるむ。ぽたりとテーブルに落ちたのは透明なしずく


「探偵さんに会いたい理由というのは、もしかして、ご家族のことではないですか?」


 着ているエプロンから、青空色のハンカチを差し出しながら問いかける。どうしていいかわからないのか、躊躇ためらうようにしている彼女の目にそっと布を押し当てて涙を拭う。


 どういう理由にしても、こんな小さな女の子があんな胡散臭うさんくさい探偵に頼むような事態ならば、きっと余程よほどのことがあるに違いない。オーナーとの関係も後で聞かねばならないが、今はただこの子の涙を見過ごしたくなかった。


 この街で、汚れた私刑人として誰かを殺すばかりのオレが言えたことではないのだろう。たとえ今のこの姿は南野みなみの光一こういちという喫茶店のアルバイトだとしても。


 けれど。こんな子どもが笑っていない現実が目前に横たわったままの方が、オレは気に食わない。



「あのね……おじいちゃんを、見つけてほしいの」

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