EP02-玖:詩を織る人


 視界一面の白。


 あたし、今、どこにいるんだろう。もしかして、夢でも見ているのかな。


 後ろでふわりとした優しい風が吹いて、思わず振り返る。


「あ……」


 そこには、大好きな人。困ったように笑っている、あたしの大切な、家族。


「ママ」


 手を伸ばす。けれど、どうしても掴めない。小さい頃、空にいる雲を掴もうとしているみたいな気分になってくる。


「ママ……ママ!」


 走り出す。すぐそこにいるんだもん。走ればすぐだ。だから、走るんだ。


 けれど、どうしても距離が縮まらない。


 どうして。あたしはただママに触れたいだけなのに。触れてほしくて、抱きしめたくて。昔みたいに、頭を撫でてほしい。あの温もりの中にいたいだけなのに。


「ママ! なんで、どっか行こうとするの⁉ あたしのこと、嫌いになった⁉」


 怒鳴ってしまった。でも仕方ない。どうして追いつけないのか、わからないんだもの。ママはそこに立っているだけなのに、そのそですら掴めない。


「逃げないで! お願いだから! あたし、ママと話したいこと、いっぱいあるんだ!」


 謝るつもりで、叫んだ言葉はやっぱり自分勝手だった。そうだと気づいても、走る足だけは止めない。止められない。


 けれど、永遠に走り続けることはできなくて。息が上がって、もう限界で。それでも足に無理をさせて、走る。


「ママ……行かないで……行かないでよ」


 ダメだった。つんのめって、そのまま倒れこむ。すぐに顔を上げようとするけれど、この身体のどこにも力が入らない。


 イヤだ。ママがいなくなっちゃう。ここで顔を上げなきゃ、ここで追いかけなくちゃ、もう二度と会えない気がする。だから、立たなきゃ。


 それでも、もうこの身体は起き上がってくれなかった。うつ伏せになったまま、ただ涙をこらえることもできずに。


「ママ……」


 止めなくあふれ出すしずくを見つめることしかできない。あたしは、無力だ。


「え……?」


 そんなあたしの頭を、柔らかな風が包んでいた。それが懐かしいママの温もりだと気づくまで、時間はかからなくて。


――ごめんね。


「ママ……?」


 直接に脳へ響くような声。ううん、これは心に響いているんだ。きっと、そうだ。


――彩萌あやめ、ごめんね。


「ごめんねじゃないよ。ずっとさびしかったんだよ。ずっと、ずっと、ずっと……」


 違う、そうじゃない。伝えたいことは、そんなことじゃない。素直になって、もっと大事なことを言いたかったのに。


――ママは、大丈夫だから。


「何が大丈夫なの? あたし、わかんないよ……」


 すがり付く。けれど相変わらず空気を掴もうとするみたいな感触しかなくて、もどかしい。


――ちゃんと、ママの一番の宝物、守ってもらったから。


「たからものって、なに……?」


 頭を優しい風が撫でてくれる。まるで本当にママの手が撫でてくれているようで、心地よかった。


――彩萌の声、聞こえていたよ。だから、もう大丈夫だね。寂しくなんかないからね。


「え……」


 徐々に温もりが遠ざかる。顔を上げて、その優しい笑みを見つめる。


 ママも、泣いていた。


「イヤだ。イヤだよ、ママ。行かないでよ……」


 薄らいでいく姿に、両手を伸ばす。そんなあたしの後ろ側に向けて、ママが人差し指を立てた。


――魔法をかけるね。ママが彩萌にできる、最後の魔法を。


「え?」


 振り返る。そこにはまぶしすぎるくらいの光があって。


 あたしは、そのまま呑みこまれていくように……。




「彩萌⁉ 良かったぁ……本当に、良かったぁ……‼」


 聞こえたのは父親の声。情けないほど震えている声にさえぎられて、さっきまで観ていた夢の内容がうまく思い出せない。


「彩萌ちゃん、わかる、私のこと? お父さんも、ここにいるよ!」


 あ、コウさんだ。明るいから、もしかしてあたし、昼過ぎまで寝てたのかな。やだな、洗濯物とか、いろいろしなきゃいけないんだから。


 そこでようやく気付いた。うまく起き上がれないことと、ここがあたしの部屋じゃないってことに。


「ああ、良かった。ほら、お父さんもお母さんも、ワシの言ったとおりでしょう?」


 ベッドにすがり付くようにしている父さんとコウさんの後ろからやってきたのは、白衣のおじいさん。なんというか、見るからにカメって感じ。頭はさっぱりと髪の毛ないし、猫背で身長が低く見えるし、細い眼はすっごい温厚そうだし、白いヒゲは仙人みたいになってるし。


広井ひろい彩萌あやめさん。気分はどうかのぅ?」


 かれたことが呑みこめるまで、何秒もかかった。けれど、率直に思ったことだけを、口にする。


「え……っと。あ、左肩が、なんか、痛いかも」


「おや。では、他に痛いところはありませんかの?」


「あと……起き上がれない」


「ははは、そりゃそうじゃ。一日中ずっと、寝込んですぐに動けるもんかい。ははは」


 嬉しそうに笑うおじいさん。いや、きっとお医者さんなんだろうけど。


 あれ、寝込んでいた、って何? ちょっと待って。


「学校……」


「彩萌、こんなときに学校なんていいんだよぉ……本当にいい子すぎるぞぉ」


「そうだよ。休まなきゃ……でも本当に、良かった」


 どうして、こんなことになってるんだっけ。えっと、連休の間もずっとパパとコウさんのこと、考えてて。それでママのこと、思ってて。ああ、マカロン美味しかったな。そうだ、店員さんと話をしてて……あれ、なんかうまく思い出せない。


「覚えておるかなぁ? 君は、太合たいごう総合病院でのテロに巻き込まれたそうなんだけれど」


「テロ……?」


 ダメだ、ぼんやりとしか思い出せない。


「ひどい爆発だったみたいでねぇ。テレビ局のカメラが壊れちゃうくらいだから、よっぽど危険な爆薬だったのかもしれない」


「ばくはつ……」


 覚えているのは、何かとても怖いのに、すごく怒っていたような気持ちがあったこと。そして、すごい熱が髪の先から靴の先までおおうような恐怖。


 だけど。あたしの左肩を掴む、誰かの腕があった。痛いくらいに強くて、だけどなんでか優しいって思った、手の温もり。


「ママが、守ってくれたのかな……」


 そんな言葉しか、出てこなかった。あたしの手を掴む父親……パパが、その手に額をこすりつけて、泣いている。


 そっか。なら、ママは、きっと。


「ごめんよ、彩萌……。僕は、ママを……ママを守れなかった」


「うん」


 パパの言葉の意味が、わかる。どんな最期だったのか、それをあたしが見たのかさえ、思い出せないけれど。


 でも、きっと。


「ママ、笑ってたよ」


 魔法をかけると言ったママの言葉だけ、その優しい笑顔だけが、浮かぶ。


 あたしの身勝手な夢だったのかな。それとも天国に行く前にママが会いに来てくれたのかもしれない。ううん、それもきっと、あたしに都合のいい妄想だ。


 でも今は、今だけは、そんな奇跡を信じたい。


「コウさん……」


「何、彩萌ちゃん?」


「次の日曜日、行きたいところがあるんだけど」


「え? でもちゃんと休まないと……」


 困惑してる。ああ、早く元気にならないとだ。その日を逃しちゃダメなんだもん。


「身体の方は心配ありません。明日にでも退院できるでしょう。しかし、今の感じだと、ショックで記憶が混乱しているかもしれませんから通院は必要です。お嬢さんも、それでいいかい?」


「はい」


 うなずいて見せると、お医者さんはウィンクしてみせた。結構なご高齢だと思ったけど、元気なおじいさんだな。なんだか嬉しくなって、つい笑ってしまう。


「それで……、どこに行きたいの?」


 涙ぐんだまま、コウさんがいてくる。


 ああ、そうだ。それを言わないと、話にならない。


「あのね……」


 話しながら、考える。退院したら、すぐにこの計画を伝えないと。電話とかすれば、何とかしてくれるかな。


 ううん、あの人なら、きっとわかってくれるし、助けてくれる。


 あたしは、あの青空色のエプロンを思い出しながら、また笑った。

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