EP02-捌:残虐なる死神
今の私は、ひどく後悔をしている。
彼に〈
初めて彼が戦いに身を投じたとき。大切な親友のために命を懸けると告げて、しかし
常に覚悟を持って〈実験体〉に向き合い、殺すことで「救い」を示す。
そう、思い込んでいた。
実際は違う。彼は知っていたんだ。子どもの頃から、あまりにも簡単に人は死んでしまうんだという現実を。自分を
だから彼にとって〈実験体〉というのは、その〈素体〉というのは、大きな事故で致死量の血を流している人間と大差はなかったのだろう。もう楽にしてやった方が、これ以上は苦しまなくていいから殺してやるんだ、と。
それはきっと、目の前で苦しみながら死んでいったであろう両親の姿と少なからず重なっていたはずで。
何一つすることもできずに彼らを見殺しにしてしまったという後悔に直結していたとすれば、彼が自分を「殺戮兵器」と割り切って、死神になったと言えなくもない。
それでも、誰かにとっての「死なないでほしい」という願いを
要するに、今の彼は、信じかけていたんだ。
「自分にも誰かを救えるかもしれない、と……」
先月に救われた少女は、間違いなく〈実験体〉だったのに。彼女を使っていた〈組織〉の意向で設計面が他と大きく違っていたことで、極めて小さな針の穴に糸を通すくらいの希少さで、彼女の身体は〈
では、それ以外の〈組織〉でも同じことが起きると言えるだろうか。
そもそも、各〈組織〉の技術の扱い方や価値観が異なれば、それだけ〈実験体〉の在り方も変わるのだ。だから死の運命から逃れた少女は、今は目覚めるのを待つばかり。ただ、それは偶然を通り越して、奇跡と呼べる代物で。
それなのに、私はそれを否定しなかった。彼がどう思っていたのかさえ、考えなかったのだ。むしろそれを誇って欲しいとさえ、無自覚に願ってしまっていた。
暗闇の中に放り出した幼子に、あるかもわからない希望を求めて意味もなく駆けずり回れ、と言うような身勝手を押し付けてしまったのだと気づかなかった。
誰だって報酬があるからこそ努力ができる。何の見返りもなく行動できる者が
だから私は彼に伝えておくべきだった。こんな奇跡はもう二度とないよ、と。釘を刺しておくべきだったのだ。これからはいつも通りに「殺戮」をよろしくね、と。
たったそれだけを伝えておけば、彼がこんなに取り乱すことはなかったはずで。
すべて私の責任だ。いつか受けるべき報いの罪状が増えてしまった。
けれど。それでも。私は、君を信じている。殺すことでしか救い得ない人々のために、見返りを求めずに戦える君を……その血赤のマフラーを継いだ優しすぎる少年を。
『殺す? いいのかな、人質のことはさ?』
前にも似たようなことがあったな。あの時は捕まった人間との関係は特にないと見せた方が、人質に有用性がないと判断させる狙いがあったが。
だが今回は五十人もの人質を取られていること、そして彼がその死を
どう切り抜けるつもりなのか。だが、そんなことを思案する暇さえなかった。
『
「って、おいおい⁉ 同時展開なんて危険だ‼」
私の声など聞こえていない様子で、彼はその一瞬に距離を詰める。右手の槍が、正確に敵の顔面を狙って打ち出されて。
『あっ、ぶないなぁ⁉』
身体を
完全に人質は意味を成さないという意思表示。たとえ誰が死のうと、お前を殺害するまで止まらないという、確固たる決意の一閃。
『司令塔から潰す作戦ってわけだぁ。でも、本当にそんな覚悟あるのかなぁ? その本気、見せてほしいなぁ‼』
ブラスバンドの指揮者よろしく振り上げた怪物の腕。呼応するように飛び掛かる患者たちは、どんな反撃が来るかなど想定していない素人の動き。
だからこそ厄介だ。彼らは痛みを知覚しないだけで、肉体には確かに負荷がかかっているのだから。それこそ夜な夜なこっそりと動かしてやることで
そんな彼らを、死神が
『はぁっ⁉』
悪意にまみれた司令官へと投げつける。
『
『んぐぅ⁉』
投げつけたのは、単に覚悟を見せたかったわけじゃない。盾を投げつけることで、相手の視界を封じるため。そう、まさしく。
防衛に徹したせいで動かなくなるだろう奴の足に、怒りの槍を突き立てるため。
廊下は人間三人が通るのがやっとの幅しかない。いかに
しかし
だがそれでも充分。少年の目的なら、もう果たしている。
『ぁああ……⁉ こ、これぇぇぇぇ、ど、毒ぅぅうぅうう⁉』
右足に掠った〈ハチ〉の針から毒が通っているようだ。
『はぁ、はぁ、はぁ、いい、のぉ? こんな、こと、したら、さぁ? 患者、たち、もっと、痛いよぉ?』
少女を押さえつけていた操り人形たちも、似たように震え始めている。痛覚を共有しているというのは、兵器として見れば欠陥だが、こと優しい人間の心を苦しめる見せしめとしては効果的なのかもしれない。
けれど、今の彼は、もう止まらない。
『が、ふぁぁぁうあああ⁉』
無慈悲な蹴りに怪物が舞う。少女の真横を通り過ぎていった化物を、死神が追う。
『や、めろ……。やめてくれ、助けてくれ! 私は、私は死にたくない‼』
一人称が、変わっている。ということは、あれは〈素体〉の方の人格か。ダメージで乗っ取られたはずの人格が表に出てくるということは、有り得ない話ではない。
まずい。せっかく彼が
助けを求めて左手を伸ばす男。もし少年がやはり助けたいと思ってしまったら……。
『……なぁんてね‼』
そんな疑念を破り捨てるように、奴が左手の指を鳴らす。瞬間的に、身体中の
「ワイヤーか⁉」
そうか、有線式で操作する武装。そして狙いは赤マフラーをすり抜けて、さらに後ろへ。
『え……』
震える声と共に、視界が暗転する。どこまで
しかしモニターには、顔に返り血を浴びながら、ただ
『あぁっはっはっはぁ‼ いいねぇ、ヒーロー、やっぱりその子は守るんだぁ‼ そうだよねぇ、そうだよねぇ‼』
少女の身代わりになるために
少女の顔の血は、ここから
『あ、んた……』
べっとりとした感触から悟ったか。守ってもらったということを、それが原因で劣勢に逆戻りしたということを。そのせいか、震える小さな唇から絞り出された声は、今にも消え入りそうだった。
『正義の味方のつもりだったのかなぁ。でもさぁ、こういう格言もあるんだよねぇ。強い者が勝つんじゃない、勝った者が強いんだ、ってねぇ。で、勝つ者こそが、正義‼』
もう毒のダメージから完全に復帰して、動けない獲物を狩ろうと爪を
だが、少年。私は知っているよ。
君はもう、キレているんだろう?
「聞きたまえ少年。そこのお嬢さんの教育には
この声で、察したのか。彼は締め上げられる首をなんとか動かし、マスクを敵に向ける。カメラが私に、迫りくる敵の姿を見せてくれる。
泣くのを必死に
『じゃあ、その仮面の下の顔も、ぐちゃぐちゃにしてあげるからねぇ‼』
振り上がった腕と、非常灯の光に反射した爪。
彼にとって、この殺戮が大義でもなければ正義でもないのだとしても。
私の罪を一緒になって背負ってくれた優しい少年にとって、最も欲しかった支えに、私ではなれないのだとしても。
私は叫ぼう。君の怒りに報いるために。
「切り刻め!」
『
一陣の風が、
『ぁあがぁあああああああッ⁉』
相当の痛みだったのか、ハイエナ顔の〈実験体〉は泣き叫ぶ。
突き刺さった鋲を引き抜いて、だらりと垂れる右腕をそのままに。正義を殺す悪の英雄は、
『なんだよぉ、それぇぇぇ⁉ 反則だろぉぉお‼』
よく言う。散々、抵抗できない人間を使ってきたくせに。だが同情はしてやろう。お前は運が悪かった。よりにもよって、彼の心を
ナノマシンによって構築された鎌が、
これが『Ⅿ』……〈カマキリ〉だ。
一撃必殺に特化した〈ハチ〉とは正反対。攻撃性に特化し、多人数を相手にする場面や強固な障壁を破壊することを目的に設計した切り札。
出力だけなら、全ての装備の中でトップクラス。反面、代償として身体への負荷と、使い過ぎれば理性を飛ばされる〈獣化〉のリスクが最も高い。
そんな
『終わりにしよう』
怒りと悲しみがないまぜになった声がした。ああ、そうだろうね。君の背中を見ている少女の顔は見えないが、きっと君は彼女をこれ以上こんな場所に置いておきたくないろう。
『お前が正義なら、オレが悪だ』
ベルトの右側に取りつけてあるボタンが、そっと左手で押し込まれた。
『
『ふざけるなぁぁああああああああああああああ‼』
俊足は
対して、
その一瞬、腕の行方を追って
『ぁ』
もう一振りの鎌が、引き裂いた。
『ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ⁉』
壁に叩きつけられ、落ちた地面の上で、残された左手で目を
飛び蹴りの勢いを何とか殺しきって、荒い息を吐き出しながら着地した者と。
そんな両者を、まるで美しいものに初めて
『こいつらを動かして、データを集めて、母さんを助け……あれ……俺が不老不死になって、私たち家族三人で幸せに……え、あれ、どうして……違う……違う……違、う……?』
壊れたように言葉を
すると病室の一つが、音もなくドアを開けた。いいや、中から誰かが出てきたのだ。
『ルーカス』
『……その声、父さん? 父さんなんでしょ? ねえ、見えないよ……どこぉ……父さん……どこにいるのぉ……父さん……』
先の一撃で眼球を傷つけられた男は、手探りで父を探す。
そんな哀れな〈実験体〉に、新たに現れた白衣の男はそっとしゃがみこんで手を取った。よく見れば、白髪交じりの髪は荒れ狂うようにぼさぼさとしていて、
おそらく、この男が
『父さん……助けて……死にたくないよぉ』
『ルーカス。母さんが、死んだよ』
『⁉』
沈んだしゃがれ声に、視力を失くした男の顔が引き
『そんな……嫌だぁ、嫌だよぉ……三人で暮らすんだぁ! 昔みたいにっ! そのために……そのためにぃ……こんな、姿にまで……なったって……いうのにぃ……』
『私が悪かった。〈スポンサー〉の口車に乗って、お前を〈実験体〉にした私が悪かったんだ。医者のくせに患者を、彼女を救うことを諦めたのは……私だ』
老人の空いた手の中に握られているのは、何かの端末。
いや、待て。あれは、まさか。
『でも大丈夫だ、ルーカス。私とお前は、すぐに母さんの所に行くんだから』
『ぇ……父さん……何、を?』
『どうせ私が生き残っても、〈スポンサー〉がこの事件を
そう言って、怪物を生み出してしまった老医は。
『……!』
息子にセットされたであろう自爆装置の、起爆スイッチを押した。
『いやだぁあああああああああああああああああああああああああああああああ⁉』
男の断末魔が響き渡るその瞬間。
少女の身体を抱きかかえた死神は、一目散に窓へと走る。が、〈
『
爆炎に呑まれながらも、少女を守るように床を蹴って
四階という高さから落下する二人を、しかし下から見守る人々はどうすることもできず。だが、もう着地までの算段をつけていたのか、彼は辛うじてパトカーの上に飛び乗った。
その反動なのか、少女はぐったりとして動かない。おそらく気絶しているだけだろうが、放っておける彼でもないだろう。
ひしゃげたパトカーの天井に、視線が集まっていくのを感じた。
『うわぁあ⁉』『なんだこいつ⁉』『赤いマフラーの……怪人⁉』
詰めかけていた警官たちがその異形に悲鳴を上げる。
同時に、さっきまで戦場だった建物が、濃紺の空に負けないほどの黒い煙と、それらを照らしだす炎を吐き出していく。
『う、動くな!』
驚く警官たちの中、一人だけ若い警察官が銃を向けていた。
『その子……人質のつもりか⁉ 子どもを解放して、大人しく投降しろ!』
正義感たっぷりの声が、屋外だというのにやけに響く。釣られるようにして、他の警官たちも同じく銃を構えた。
おいおい、君たちでは倒し得ない敵を討ち果たして、こうして生存者を助け出したというのに、この仕打ちか。悲しいほどこの街の状況を知らない警官が多すぎるな。
『
『下がってください! 危険です!』
『僕の娘なんだ! 放してくれ‼』
警官たちの向こう側、これまた大きな声が響いた。確か彼が抱えているのは、アヤメ、という名の少女だったはずだ。
そういえば、この少女の母親が入院していた患者の一人だったか。ということは、あそこにいるのは父親だろう。見るからにインテリですと言わんばかりの丸眼鏡。か細い体で、冴えているとは言い
大方、病院の異変を聞いて来てみればこの騒ぎで、娘は病院を焼いたテロリストの手中にある、と。そんな風に見えているのだろうな。
『頼む、彩萌まで……奪わないでくれよ』
その声が聞こえた瞬間。
血のような赤色が、一瞬だけ画面を覆う。それが跳躍して男の前に着地したことで
『彩萌……おわぁ⁉』
使える左手で乱暴に押し付けたせいか、ただ軟弱だっただけなのか、父親は
『彩萌……彩萌⁉』
目を開けない少女を揺さぶる父親。その後ろから駆けて来る女が見えた。確か、この間の依頼人の女性だったか。
『
泣き叫ぶ勢いの二人は、本物の夫婦のように、娘に
そんな二人を見つめる彼の心は、今、どこを向いているのか。
『待て、このテロリスト!』
さっきの熱血正義漢か。背も高いし、割と引き締まった顔つきは、昔ながらのハンサムガイだが。こんな近くに民間人がいるのに、銃を向けるとは。それでも正義の味方か。
『両手を上げて……んなぁ⁉』
マシンが自動走行してきた。彼が待機させていた愛機を呼んだな。確かに、こんなところに長居は無用だ。
『
『んなぁぁぁ⁉』
跳び上がる姿を見上げて絶叫する警官を
『ま、待て⁉』
銃弾が飛んできたようだが、気にも留めずにマシンは進む。
去り際に、赤いマフラーを揺らして。
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