EP02-陸:向き合って、逃げ切って


 太合たいごう総合病院、別館。


 前に看護師さんが話しているのを聞いたことがある。何でもここのことを「眠り姫の館」と呼ぶんだと。


 ここは四階建てで、各階に病室は十三室あるから、全部で五十二人の患者さんがいることになる。だけど、どの部屋の患者さんも一様に眠ったまま。だから眠り姫なんだそうだ。


 もちろんそれは病気や老化によるものでしかない。悪い魔女の魔法でもなければ、悪魔の呪いでも何でもない。中には天寿てんじゅまっとうしたという人だっているのに、眠り姫とはいかがなものか。


 過去最高に急ぎ足で、そんな院内を突き進む。正午を過ぎたところだから、割と人は少ない。


 目指すのは三階。三一二号室。あたしの大切な人がまだ眠っている場所。


「入るよ」


 ノックから一秒も待てずに、ドアを開く。いつも通り、眠ったままのその人から返事はもらえない。


 けれど、もうそれでいい。


 今日のあたしは、この人に言いたいことがあって来ただけだから。


「ママ」


 もうどんな返事も期待しない。大好きだからこそ、言葉にしなきゃいけない。


「あたし、ずっとママが大好きだよ」


 ドラマみたいな奇跡がないのもわかる。もう子供じゃない。


「ママが良くなったら、パパとあたしと……コウさんと。みんなでどこか行きたいな」


 そんなことは起こらない。けれど、これはこの人への意思表示だ。あたしができる精一杯の恩返しも含めて。


 言わないという選択肢はない。


「コウさん、脱ぐとけっこうスタイル良いんだよ。だから海に行ったらきっとみんなの視線も独り占めかな」


 もう嘘をきたくない。あたしは好きな人から、逃げたくない。


「あ、でもママは山の方がいいかな。詩集とか読むの、好きだったもんね。じゃあみんなでキャンプして、夜は三人でテントの中でガールズトークとか」


 あなたとそんな風に過ごせたら。何度となくした妄想を、言葉にするんだ。


「パパだけテント別だと怒るかな? でもコウさんだけけ者とかありえないし。あ、ママはあんまりアウトドアじゃないよね。じゃあ、みんなで一緒に季節を楽しむのはどう?」


 この五年間、あなたと過ごしたこの場所で。


「春はお花見で、夏は花火かな? 秋はお月見もあるし、冬はクリスマスパーティだよね。料理も豪華にしてさ。ママと、パパと、あたしと……コウさんで」


 一番、伝えたいこと。それは、あたしの気持ち。ずっと探していた答え。


「コウさんのこと、もう一人の母親だって思ってる。まだ、直接そんなこと言えてないんだけど」


 あの喫茶店のお兄さんと話していて、やっと気づけた答え。


「ねえ、ママ……どうか勇気をください。コウさんのこと、家族だって、ちゃんと言えるだけの勇気を」


 ダメだ。泣くな。泣いたら、この人は悲しむはずだ。ただでさえつらくなるようなことを言っているんだから。


 破局してほしいわけじゃない。この人に死んでほしいわけでもない。


 けれどコウさんを抜きにしてあたしの家族は語れない。あの人がいなかったら、とっくの昔にあたしたち家族はバラバラになっていたと思うから。


 今はコウさんが、あたしのために悩んでくれているのもわかってる。もっと傷つけることになるかもしれない。だけど、このままじゃイヤなんだ。


 ワガママだって言われてもいい。怒られたって、構わない。


「あたしは、パパにも、コウさんにも、笑っててほしい」


 そのほんの一瞬、あたしは自分の目を疑った。言葉に詰まって、一点だけを凝視する。


 うなずいたのだ。寝たきりで、もう治らないと思ってきた人が。ゆっくりだが、確実に。


 重たかったまぶたが、開く。去年からずっとこんなことは有り得ないと思ってきたあたしの前で、今まさにそんな奇跡が起ころうとしていた。


「ママ……?」


 かすれた声だけが響く室内で。むっくりと起き上がった母親は、しかし、虚ろな瞳であたしを見ていた。


 昔のように笑いかけてはくれなくて。それでも起き上がっている姿だけで、あたしは泣きそうで。


 何か、言わなきゃ。何か。


「あっ⁉」


 気づいたら、あたしは悲鳴を上げていた。床の硬くて冷たい感触が背中を刺しているように感じていても、それ以外は何もわからなくて。


「ママ……?」


 目の前の人に押されて倒れたんだとわかっても、ゆっくりとベッドから降り出す実の母親の姿は現実味がなくて。


 もしかして、あたしは何か悪い夢でも見ているのか。長い髪を揺らす彼女の姿が、どこかで観たホラー映画のようにしか映らない。夢にまで見た光景が、嘘にしか見えない。


「ママ……なの?」


 本物じゃないのではないか。そんな思いが声に乗ってしまったのか。虚空を見つめて立っていた誰かは、あたしに向き直って。


「……」


 何かを、話そうとしているようだった。でも声が出ないのか、あたしには何を伝えようとしているのか、わからない。


 不意にドアの向こうから、悲鳴のようなものが聞こえてきた。それと、どんどんどん、という何かがぶつかる音。


 彼女の無機質な表情が、それでも口だけを動かして何かを訴えかけている。


 何が、言いたいの。何を、伝えようとしてくれているの。


 それをきたくて起き上がろうとすると、ドアが蹴破られんばかりの勢いで開いた。入ってきた男の顔を見て、あたしは言葉を失った。


 太合たいごうルーカス……のはずだけど、おかしい。まるでハロウィンの仮装でもしているかのように、顔の右半分に何か黒いものがい付けてあるようだった。


「う、あ、がは……痛い、なぁ」


 仰向あおむけのまま何もできないでいるあたしには目もくれず、医者の格好をした〈何か〉は不思議な声を出した。刑事ドラマで犯人が声を変えているみたいな、男と女の声を混ぜたような音。


 何がどうなっているのか、まるでわからない。


「〈獣核ゲノム・コア〉の制御システム、完璧だと思ったんだけどなぁ……消えろ!」


 怖いくらいにえる。その声は、ぶっきらぼうな男のもので。


 何か、おかしい。


 縫い付けられたマスクからのぞく瞳。その異質な視線と、あたしの視線が、合った。合ってしまった。


「……ああ、君かぁ。良かったねぇ、ママがこうして立っているよぉ……黙れ‼」


 何を、言っているんだろう。あたしに、言っているのか。


「……あ、ママとは話せないのかぁ。薬がまだ完成していないんだもんなぁ、ごめんなぁ。まあ、完成させる気もないんだけどねぇ……違う。違う違う! 私は、そんなこと、思っていない! 本当に、この技術を使えば、救えるんだ! 母さんだって、この患者さんだって、助けてみせ……あれれぇ、本当かなぁ?」


 そこには、一人の男しかいないはずなのに。まるで、二人の人間が一人の口を使って会話しているようで。


「だぁってぇ、俺の〈獣核ゲノム・コア〉じゃ、患者さんたちぃ、動く以外の行動、とれないよぉ? どうやって、救うって……違う! 私は彼らの病気のメカニズムを調べ上げて、必ず……作れないよねぇ。お薬、できたってどうせお一人様限定でしょう? だったら、この子の母親の前に、自分の母親だよねぇ‼」


 縫い付けられた顔が、笑っていて。元の白い顔が、泣いていた。


 絶えず、院内は悲鳴と衝突音が鳴り響く。それでも、母親だと思った誰かは動かない。


「ところで君さぁ、なんで生きているの? そこのお嬢さん、君のことだよぉ……逃げなさい! 私のそばから離れるんだ! 急いで外に……助けは来ないんだよねぇ。もうこの館のオートロックは働いているしさぁ……逃げろ‼ 早く‼」


 泣いている左側の瞳。その中にある光が、あたしの中の疑問を燃やし尽くしてくれた。


 詳しい事情は知らない。けれど、この医者が狂ってしまったことも、その結果に彼の顔に張り付いているもう一人が暴走していることも。


 意を決して立ち上がる。けど、そこからどうやったら逃げられるのか、わからない。


 諦めるな、考えろ、あたし。


 今、あたしとドアの間にいるのは二人。狂った医者に何かをされた母親と、狂いきった医者本人。ただあたしを見ている母親は何もしてこない。


 問題はこの男だ。狂った人格とまだマトモな人格と、どっちが今の彼を支配しているのか。それによって、あたしの取るべき動きは変わってくる。


「父さんに、院長に、このことを知らせてくれ‼ 頼む……」


 その悲痛な声の懇願で、わかった。今のこの人は、まだマトモの方だ。


 それだけを信じて、ドアに向かって飛び出す。


 この状態でママを連れ出せるとは思えない。この部屋の外がどうなっているとしても、院長とやらを連れてこなければ、ママを助けることはきっとできない。


 そう思った矢先、あたしは転倒した。右腕を掴まれたせいだと気づくまで、数秒は息を吐くのも忘れて目を見開いたままで。


「はい、ざぁんねぇん‼」


「……⁉」


 男の右手が、あたしの右腕を握っている。骨を砕こうとするほどの力。


 見れば、男の腕は肩から爪の先まで人間の物じゃなくなっている。野獣のように毛深くて、鋭利な爪が長く伸びている。


 ダメだ、とても振りほどけない。痛くて、たまらない。空いた手で叩いても、びくともしないなんて、反則だ。


「あは、あはははは! そうだよねぇ、痛いよねぇ? 俺さぁ、もう我慢できないんだぁ。君みたいないい具合に肥えたエサ、食べたくて堪らなかったんだぁ……逃げろ‼」


 男の左手が、怪物の手に食い下がる。でも、あたしを掴んだ野獣の前足は、獲物を逃がそうとはしない。


「くそ、くそ、くそっ⁉ なんで、離れないんだ、よ……ダメダメぇ。そんな非力さじゃ。対等にしなくちゃねぇ。ほうら、実験のためにやむなく医者の道を外れる自分を~とか言ってたけど、本当はお前自身が望んだように一つになるしか……うるさい!」


 右手の血液が一ヶ所で止まるのがわかる。このままじゃ本当に腕を千切ちぎられるか、それともこいつに食い殺されるか。


 そのときだった。不意に、右手が軽くなったのは。


「え……ぁあん⁉」


 物言わぬ人形同然に静かだった母親が、あたしを掴む男を突き飛ばしたのだ。


 そのとき、やっとわかった。この人がさっき、あたしに何を伝えようとしていたのか。


「ごめん……」


 それだけ残して、あたしは病室の外に走り出す。なんとしても、この館から出るんだ。院長でも警察でも何でも呼んできてやる。


 あの口の動きは、たった三文字を表していたんだ。そう、つまりはあたしの……彩萌あやめという名前。彼女がつけてくれた、あたしの名前。


 助けてみせる。絶対に、あたしの大切な人を。


 こんな状況でも、娘の名前を呼ぼうとしてくれた、あたしの――。


「逃がさないよぉ。って、なんだこいつ、放せよぉ……やめろ、やめろぉ!」


 背中に聞こえる声が、悲痛さを増す。閉まってしまったドアの向こうから、生々しい音が聞こえた気がした。


 何かあったのではと振り返った瞬間、後ろ髪に何かが触れる。その気配に、恐る恐る、視線を向ける。


 柱の陰から飛び出した誰かの手とハサミ。はらりと落ちていった髪の毛。そして虚空を見つめる誰か。


「っ⁉」


 見慣れた患者衣を着ているその老人から、思わず距離を取った。そのままあたしに詰め寄ってくる姿は、やっぱり現実味がない。けど、ここで捕まってやるわけにはいかない。


 頭の中で、必死に逃走ルートを考える。この人の向こうに非常階段があって、そこまで走れば一階まで一直線で駆け下りていけるはずだ。もちろん後ろにも同様に階段はあるけれど、いつあの壊れた医者が出てくるか、わからない。


 行くしかない。


「ああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 叫びながら、突っ走る。思った通り、ハサミを突き出してきた。


 昔から小さい身体を活かしたすばしっこさだけなら誰にだって負けない。あたしはくるりと身体を回して、老人を抜き去った。


 階段に差し掛かったところで、いきなり電気が消えた。もしかして、病院そのものがおかしくなったのか。そう思うと、背筋が凍るような感覚だった。


 でも、行くしかない。手すりを頼りにしながら、一段一段、駆け足で下っていく。暗がりのせいなのか、かんかんかんという足音がうるさく感じてならない。嫌な汗が止まらなくなって、握った手が熱い。


 ようやくたどり着いた一階も、非常灯の電気しかいてないからか、もう世界が死んでしまっているみたいで。


 いや、それにしても暗すぎる気がする。まだ昼過ぎだっていうのに。


 とにかく外へ出ようと自動ドアの方に向いたとき、ぴたりと足が止まった。


 さっきのような患者たちが徘徊している。しかも、自動ドアや窓にはシャッターが下りていて、とても近づける雰囲気ではない。


 これじゃ、出られない。


 どうすべきかとゆっくり考えている暇もない。あたしがいることに気付いたのか、ゾンビじみた動きで近づいてくる人影が一つ、二つ、三つ。まずい、どんどん増えてる。


 隠れなきゃ。逃げられる方法を考え付くまでの間、どこかに身を隠さなきゃ。捕まったら、さっきの老人みたいに否応なく、殺しにくる。


 でも、どこに?


「ぁぁ・・・・・・・」


 近い。もう階段の方に来てしまう。


 そうだ。トイレならどうだ。あそこにだって小さい窓があったはずだ。あんなところにシャッターが付いているとは思えない。おまけにあの大きさなら、ギリギリでも通れるかもしれない。


 一か八かだ。近づいてくる人たちを無理にでも突破して、トイレに駆け込もう。


 息を吸って。三、二、一。


 一目散に走りだす。途中、襲い掛かってくる誰かに何度もぶつかったけど、勢いだけで駆け抜ける。何人を抜いたかも、五人から先は数えてない。


 絶対に負けるもんか。やっと答えが見えたんだ。好きな人を好きって、大切な人に大切だって、伝えるって決めたんだ。


 トイレに滑り込む。壁の高いところに設置されている窓を見て。


 愕然がくぜんとした。


「なんでよ……なんでよ⁉」


 気付けば、叫んでいた。しっかりと外からシャッターが下りていて、中からはどうすることもできそうにない。


 後ろから、ゾンビのうめき声のようなものが聞こえてくる。たぶん、さっきぶつかった患者たちの何人か。


 まずい。このままじゃ襲われる。せめてと思って、奥にある用具室から箒(ほうき)だけ掴んで、個室に隠れた。鍵を掛けて、握った棒を構える。


 もし入ってこられても、これで追い返してやる。そしたらまた逃げてやるんだ。


 そんな、楽観的な気持ちだけで自分をふるい立たせて。でも二つの足はずっと震えているのも気づいていて。


 うめき声が、トイレ内に反響する。遠からず、入ってくるか。


 一分か、十分か。もう時間の感覚もずれているのかもしれないけれど、それでも誰も、個室を開けようとはしなかった。うめき声が徐々に薄れていって。


 最後には、何も聞こえなくなった。


「……?」


 もしかして、助かったのだろうか。いや、こういう時はたいてい、鍵を開けた瞬間に殺されるものだ。ドラマや映画ではお馴染なじみの鉄板。そのくらいあたしだってわかる。


 便器のふたを閉めて、その上に乗ってみる。自分の背丈が低いのが恨めしい。ちょっと背伸びをして、トイレ内の状況を見る。


 誰もいない。それを確認し終えると、そのままぺたんと座り込んだ。そうして大きく息を吐き出しながら、ひとまず生き残ったことを安堵あんどする。


 ダメだ、考えろ。今、何をするべきか。


 怖い。


 ダメだ。方法を探すんだ。外と連絡を取る方法。あ、携帯電話がある。これならと取り出してみたが、圏外だった。


 もしかして、あのシャッターがダメにしているのか。どうしよう。音を立てずにあれを外せるかどうか。いいや、リスクが大きすぎる。


 怖い。


 どうする。どうすればいい。


「ママ……」


 そうだ。あたしを逃がすためにあの壊れた医者にぶつかっていった、あたしの大切な人は、結局どうしただろう。どうなったんだろう。どうなって、しまったんだろう。


 助けに行くべきか。でもまずは外と連絡を取らなきゃ。でもどうすれば、うまくいく?


「怖いよ……」


 にじんだ涙が、視界を揺らす。


 わからないけど、今は動かないことにしよう。少なくとも、この涙が止まらなきゃ、逃げることもきっとできないから。




「パパ、コウさん……ママ」

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