EP02-伍:家族の境目


 開店時間より早く、店の準備が終わってしまった。


 コーヒーをれるための準備や下拵したごしらえも。そもそもメニューが少ないせいで注文されることもほとんどないから、準備の必要性が低い。


 昨夜から眠っていないせいか、少しばかり頭が重たい。考えていたことは、答えのない問答だ。


 好きなように考えろ、と呆れた顔したオーナーからは吐き捨てられてしまったが。


 考えずにはいられなかった。


 太合たいごう総合病院に潜伏する〈実験体〉は、討ち果たすべきか、否か。


 冷静になって考えれば、倒すべき理由はいくつでも思いつく。まずもって、あのハイエナ顔が言っていたことが嘘だった場合だ。


 それは生への冒涜ぼうとくであり、同時に死への冒涜にもなりえる。奴が救おうとしているという患者たちのことを考えてみればわかる。彼らは自身の意思では自由に生きることも、死ぬことさえもままならないのだから。


 万が一の話、薬品の開発が成功したとしても。患者たちが家族のもとに戻れるかどうかも定かではない。脳内に侵入したナノマシンがある限り、あいつに命を握られていることに違いはないのだから。


 それに、あいつ自身が〈獣核ゲノム・コア〉に呑まれてしまったら。まだ自我を保っていたように見えたが、あいつが先に〈獣化〉して意識が壊れる可能性は消えていない。そうなれば、ナノマシンを仕込まれた患者たちも道連れだ。


 もうこれで、充分すぎる理由になる。そんなことはわかっているんだ。オレは今まで通りに〈実験体〉を狩りながら、〈スポンサー〉に近づくべきだってことくらい。


 それなのに、なぜオレは迷っているんだ。何を躊躇ためらうことがあるのか。


 いや、その理由もわかっている。先月にオレが戦った〈実験体〉のことが、頭から離れないのだ。


 親友を想い、たった一人の母親を守りたい一心で、自分自身を悪魔に売り渡すしかないと泣いていた少女がいた。


 間違いなくオレは彼女を殺すつもりで向かったのに。本来なら絶対に助からない状況でもあったはずなのに。だがほんの小さな奇跡が彼女を救ったことも、事実として在る。


 なら、今度の〈実験体〉は、どうだ。


 オレが殺さなければ、より多くの人が救われる可能性がある。少なくともあいつ自身に戦闘する気はない。つまりは誰かを傷つけるつもりもないということで。ならば、ある程度は静観しているべきだ。相手が暴走するまでは、戦うべきじゃない。


 そうだ、そういうことだ。わざわざ多くの犠牲を出してまで戦う必要は……。


 控えめにドアが開く音を耳が感知した。


「いらっしゃいませ」


「あの……この辺で生徒手帳、見ませんでした?」


 忘れていた。先日この小さな来訪者が残していった落とし物のことを。あの依頼人に押し付けることもできたのに、なぜしなかったのか。


「こちらですか?」


「それ!」


 小さな身分証に貼られた写真よりは元気そうな声で、広井ひろい彩萌あやめが手を伸ばす。その小さくも細すぎない手に、お目当ての物を滑りこませる。こんな冷たい腕の感触を知られないように。


「ありがと。拾ってくれたんだ」


「ええ。けれど、拾った時には既に後姿も見えなくなっていたもので」


「……」


 なんて返答するべきかわからないで迷っているようだ。そのままもじもじとされても、こちらもばつが悪いので、一つ提案をしてみることにしよう。


「もしお時間さえ良ければ、試供品の感想をいただけませんか?」


「試供品? それって、スーパーとかの試食、みたいなやつってこと?」


 まあ、違いはないだろう。そう思ってうなずいて、肯定されて驚いている少女を見つめる。


「えっと……もしかして、そこにあるマカロンってわけじゃ、ないよね?」


「はい」


「どう見ても、売り物じゃん」


「いえ、まだ一人にしか感想をもらえていないんです。作ったのも、昨日が初めてだったものですから。完成度がわかりません」


「はぁ?」


 気分を害するようなことを言っただろうか。そんなつもりはないのだが、荒い声と厳しい視線を向けられるのだから、どうもそういうことらしい。


「ほら」


 突然、てのひらがオレの前に突き出された。変わらない表情で何を要求されているのか、判断がつかない。


「くれるの? くれないの?」


「失礼しました。どうぞ」


 そうだな。こちらが試食を頼んだ側だ。うやうやしく渡すのが筋、というのもちょっと違う気もするが。どうやら彼女の中ではそういうことなのだろう。


 そう断定し、白と黒の焼き菓子が載った皿を差し出してみる。


 まるで小動物のように鼻を近づけて香りを確認する少女の姿は、少しばかり不機嫌そうにしていたとしても、割と微笑ほほえましいもので。それからまんだ一つを口に放り込む。


 その途端、見開いた瞳を輝かせて、オレに向き直ってきた。


「これ手作り、だよね?」


「はい」


「初めてとかウソだ。あ、マカロンは初めてってこと? 普段は他のスイーツとか作るんでしょ? じゃなきゃ、こんなのできっこない」


 どうも自分自身を納得させるために言っている節がある。


「簡単なスイーツなら、いくつか作ったことはありますが……。こんなに本格的なものは初めて作りました」


「ウソ。マカロンだって作るとなったら甘くないよ。それをさらっと作るなんて、絶対にウソだ」


 すごい剣幕で迫ってくる。もしかして彼女は料理評論家でも目指しているのではないか。それもスイーツ専門の。


「でもさ、どうして二色しかないの?」


「チョコレートしか使っていませんので。色付きの砂糖なんてわざわざ買い求めることもないでしょうし」


「なにそれ、もったいない! こんなに美味しいのに、色が白黒だけって絶対ダメ! せめてピンクだけでも入れなきゃ、マカロンが可哀想‼」


 そこまで熱弁されるとは思っていなかった。なんだ、この少女の気迫は。どうやったら甘味一つにそこまで叫べるというのか。


 一瞬の間。彼女は思い出したように目をしばたたかせた。顔がみるみる赤くなっていくところからして、どうも大きな声を出したことを恥ずかしく思ったらしい。


「あ……えっと、ごめんなさい」


「いえ。参考になります。やはり色味は大切なのですね」


「え……今の、参考になるの?」


「むしろ女性客を呼ぶなら、中学生くらいの女性も対象かと。手頃な価格設計ができれば、売れ筋とは思いますから」


 もっとも、この店は売れようが売れなかろうが、そこを構う者はいない。探偵が入り浸れる場所で、時にはそこから〈組織〉の情報が流れてくればラッキー、と考えているのがオーナーで。そもそもツケを看過している時点で、あの人は採算など気にしていない。


 すると彼女は、こらえきれなかったと言わんばかりに声を上げて笑い始めた。


「中学生くらいの女性って! あはは、変なの!」


 どういうところがツボだったのか、さっぱりわからない。しかし、なんとなく彼女が笑っている姿は、見ていて悪い気はしなかった。


 それからはマカロンの作り方だけではなく、色や形についての話が続いた。思った以上に奥が深いようだ、なんて考える。


 しかしこの少女があまりに楽しそうで、少し不安になった。


「こういうお菓子を、よく作られるのですね」


「うん。ママもパパも……両親が好きだから」


「ママやパパで、結構ですよ」


 わざわざ言い直す彼女の姿が、あまりに切なくて、ついそんな言葉を掛けてしまった。そのせいでバカにされたとでも思ったのか、一転して不機嫌な顔に逆戻りする。


「あたし、もう中学生だから」


「失礼。しかしながら、中学生でもそう呼ぶ人はいらっしゃいますよ」


 少なくともオレの同級生では、いたはずだ。もっとも、あちらは親のエゴが大きかったようで、他の呼び方を意図的に除外されて育てられた感じだったが。


「いつもはお父さんって呼ぶし。今の、たまたまだから。だいたい変でしょ? 中学生にもなって……」


「呼び方は確かに重要かもしれません。言葉遣い一つでその人の育ち方を示す場合もありますから。けれど、親愛を伝える方法でもありますよ」


 明らかに、彼女のオレを見る目が変わった。


 そんなに大層な話はしていないが、この少女の生い立ちを多少なりとも知ってしまった今となれば、彼女なりに何かしら意味を見いだせることなのかもしれないと思えてしまう。


 なら、オレもできうる限りを伝えるだけだ。


「育ての親からの受け売りですが。家族というのは、赤の他人が親愛を持って結びついたものである、と」


 息を呑む音がした。どうもオレの生い立ちを、なんとなく察してくれたらしい。説明するたびに、聞いていた相手が沈んだ表情をするのを見るのが嫌いなので、とてもありがたい反応だった。


「あの家族は優しくしてくれました。それでも、結局オレは呼べませんでした。お母さんとも、お父さんとも」


「……」


 どうも、彼女自身にも重なるところがあるようだった。マカロンが載っていた皿に向いているはずの視線は、まったく違うものを見ているようで。


「ねえ、お兄さん……」


「はい」


 ぐな瞳が、オレを射抜く。その姿は助けを求めるようでいて、しかし自分一人でその困難を乗り越えようともがいているようでもあって。


 だから、こちらもただ見つめ返すしかない。それしかこの少女の抱えるものに向き合う方法がわからない。


「もしもだよ。実の母親が死んで、父親が再婚したら、さ……。それって、実の母親を裏切ったことにならないかな」


「裏切る……とは?」


「だって、死んだら好きだった相手は自分のことを忘れて。たった一人の娘も、別の人を母親って呼ぶなんて……ひどいよ」


 実母の気持ちを、想像しているのだろう。


 寝たきりのまま、起き上がる気配がない。確かに死んでもいないが、話すこともできないのなら、その心境を想像するしかないのだろう。


「でも、あの人はもう限界なんだ。ママが倒れてからずっとそう。顔で笑って、心で泣いてるって感じ。仕事だって、コウさんがいるから何とか成り立っているってことくらい、見なくてもわかるんだ。あたしじゃ、支えにもならないってことも……」


 あの人、というのは父親のことか。伴侶の病気が精神的な負担でないわけもない。だがそれを娘に見せまいと気張ってきた、ということなのだろう。


 そんな人の娘だからこそ、無理をしている父親を見ていてつらいのかもしれない。互いへの優しさが、互いの心を締め付けて傷つけている。


「あたしは家のことくらいしかできないし。あの人は難しい技術とか研究とかが仕事で、あたしじゃ何をしているのかも全然わからない。コウさんは仕事でも手助けしてくれているんだって」


 この街はあらゆる分野の技術者たちが集っている。ゆえに〈革新都市〉なんて呼ばれているし、それが〈スポンサー〉が高度な技術を持つ者を支援している理由の一つでもある。


「あたしとお母さんがいなくなれば、二人で幸せになれるのにね」


「それは、違うと思いますよ」


「違わないよ」


 ない声。しかしオレはそれを否定しなければならない。


 いや、否定したいんだ。


 かつて、オレがそうされたように。そうしてもらったように。


「昔、育ての母親に言われました。天国に行った二人にあなたのことを任されたんだ、と」


「それって……」


 薄っぺらい財布の中から、一枚の紙片を取りだす。まじまじと見る機会もほとんどなくなったが、それでも捨てられないもの。


 まだオレが〈ただの人間〉だった頃の、思い出。


「生まれて初めての家族旅行の写真、そのコピーです。すっかり時間が経って、もうボロボロですが」


 にこやかな男と女が、ぶすっとした子どもを抱いて笑っている。もちろんその子どもが、オレだ。


「育ての親からもらったものです。父や母にとって、彼らは良き友人だったようで。よくメールが来たものだ、と」


「メールには、なんて……?」


 写真の中の子どもからオレに視線を戻しながら、少女は恐る恐るく。その瞳が、いつかのオレ自身にさえ見えて。懐かしさと自己嫌悪でないまぜになっていく頭で、それでも応える。


「無愛想な息子の様々なことを。初めて歩いたとか、話せる言葉が増えたとか。中には、いつか自分が死ぬ日が来ても、どうかこの子が幸せであってほしい、なんて言葉まで」


「大切に、されてたんだね」


 ぽつりと漏れた声は、うらやましさと寂しさの色を帯びていた。昔の自分自身がおそらくそうだったのだろうと、思わずにはいられない。だからこそ、伝えたいものがある。


「そうですね。だからこそ、義母はオレに強制しなかった」


「何を?」


「お母さん、と呼ぶことを」


「!」


 呆気にとられたような、しかし天啓てんけいでも受けたような、そんな顔。この少女が、何かを見出しつつある。そんな予感だけを頼りに、ある日の義母の言葉を反芻はんすうする。


「君のお母さんの代わりになりたい、と。けれど死んだ彼女その人にはなれないから、できることは何でもしたい、とも」


 言葉を切って、ほんの数秒間。きゅっと結んだ少女の口元が、徐々にゆるまっていく。


「コウさんも、よく言ってた。ママが戻るまでは何でもしてあげるからね、って」


「ええ」


 うなずきながら思う。良い表情を彼女が取り戻しつつある。そう思わせてくれるのは、少女の小さな笑みと、そのほおを伝う澄んだ軌跡。


「ママが入院してからは、本当に毎日のように来てくれて。あたしにとって、もうあの人は、他人なんかじゃない」


「血の繋がりだけが家族ではない。一緒にいた時間や、その中で生まれた親愛が、赤の他人を友人にも仲間にも、家族にもしてくれる。死んだ義父の受け売りですが」


「うん。そうだよね。コウさんは偽物でも裏切り者でもない。あたしの……」


 そこまで言って、突然に彼女は立ち上がった。


「お帰りですか」


「寄りたいところ、思い出したんだ」


 その瞳に、もう迷いはない。自分のしたいことを決めようとしているのだろう。ならばこれ以上は何も言うまい。伝えたいことは全て出し切ったはずだ。


「マカロン。また食べに来るから」


「ピンク色、次はご用意しておきます」


 無愛想なオレの一言に、歯を見せて笑う少女。ドアを開け放ち、彼女は駆け出した。


 店の中には、皐月さつきの優しくも心地よい風だけが吹き抜けた。

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