EP02-弐:生者の眠り


 ママは嘘吐うそつきだ。


 すぐに良くなるって、言っていたのに。


 そんな独り言を口の中で反芻はんすうするくせは、もう何年目だ。


「入るよ」


 広井ひろい詩織しおりと名札がついた病室。そのドアへのノックと共に、いつも通りに声をかける。当然だが返事はない。それも、もういつも通りだ。


「連休だってのに、パパは今日もお仕事。嫌になっちゃうよね」


 そんなことを言いながら、ベッドの上の人を見る。この白い病室に同化するつもりなのかと聞きたくなるほど、白い女が眠っている。


「中学生、思っていたより大変じゃなかったよ。連休に向けて出された宿題だって、もうだいたい終わったし」


 細くなってしまった手に刺さるくだが、あたしが座った振動でかすかに揺れる。


「他の小学校から来た子もいっぱいでさ。クラスメイトも、全然知らない人ばっかりなんだよね」


 声は、虚しく反響するだけ。小さな個室が、嫌に広く感じる。


「部活さ、一応は陸上部に入ったよ。先生、あたしの話、わかってくれて。『広井さんの無理のない範囲でやればいいんだよ』って言ってくれたんだ」


 嬉しかったことのはずなのに。どうしてか、笑顔でいるのがつらくなる。


「家のことも、大丈夫だよ。パパは相変わらずだけど、いつも通りだから」


 この人に、あたしの声は届いていない。届いているわけがない。


「料理、ママはいろいろできたんだってね。あたしも、できるようになるかな?」


 返答はない。そんなものがあるはずもない。わかっているくせに、いてしまうあたしはバカだ。


「コウさん、よく家に来るよ。パパが帰れない時は、一緒に夕飯とか食べてくれるし食器洗いとかしながら仕事の話とかしてくれるんだ。あの人も、料理上手だよ。あたしより、全然うまいよ」


 ベッドのシーツを小さく掴む。でも、反応はない。あるならこんなところにはいない。そんなこと、わかりきっているのに。


「ねえ、ママ。あの人が、パパのお嫁さんになっちゃうかもしれないよ。そうなったら、ママ、どう思う? やっぱり嫌? それとも喜ぶ?」


 バイタルチェックのマシンが、単調で無機質な音を響かせ続けるけれど、欲しい解答はない。答えられるなら、そもそもこんな風にはなっていない。わかっているってば。


 だけど。


「そうだ。この病院のウワサ、聞いた? 酷いよね、どうせ見間違いだってわかりきってるくせに。尾ひれがついて『死人が動く』とか『悪魔の植物人間』とか、言いたい放題してくれちゃって」


 退屈な日常を紛らわせるための噂話うわさばなしのネタにされていることなんて、知っているのか、いないのか。ぴくりとも動かない表情では、わからない。


「勝手に殺すなだし、悪魔じゃないし。お前らより必死に生きているんだぞって、言ってやりたくなるよね」


 本当に、必死に生きていると思っているのか、いないのか。そもそも、今はどんな夢を見ているのかさえも、わからない。


「ねえ。ママ。いつ、良くなるの」


 ぽたりと落ちたしずくの意味を、彼女は感じているのか、いないのか。視界がゆがんでいくあたしには、わからない。


 何も、わからない。


「ママって呼ぶの、いつになったら、やめていいの?」


 この人が入院したばかりの頃、学校の友達で「ママ」と呼んでいる子はいなくて。あたしも「お母さん」と呼んだら「まだママって呼んで」と落ち込むから、そう呼ぶしかなくなった。けれど、それからずっと聞きそびれている。


「あたし、もう中学生だよ。誰も母親をママって呼ばないよ。あたしだけ、ずっとだよ」


 正確には、クラスメイトとの話題には出さない。話題になったらはぐらかして逃げる。先生とか大人の前では、母、と呼べばいい。


 五年前から、ずっとそうだ。


「ねえ。ママ。いつになったら、良くなるの」


 この人が入院したのは、ちょうどこんな時期だったか。


 まだあたしは八歳になる前で。父親の顔は青ざめていたのを、はっきりと覚えている。そんな顔で「すぐに良くなるよ」と言うから、たぶん察してはいたんだ。


 入院生活の間、どんな風に過ごしていたのかを聞いていられたのは、去年まで。それまであたしがお見舞いにやってくると、なんとかベッドの上でも身体だけは起こして話くらいはできたのに。


 一年前の、ちょうど今頃。確か、母の日だからって父親と一緒にお見舞いに来た。そうして待っていたのは、物言わぬ母の眠り姿だけ。そう、まさに今の姿と変わりなくて。


 病状の悪化に伴って医者から相談された今後の方針。一緒に聞いたけど、わかったのは治る可能性が下がってしまったことと、このまま眠りの世界から戻ってこない可能性もあるということだけ。


「……」


 本当は泣かないって決めていたのに。せめて、お見舞いの間くらいは、と。


「また、来るね」


 それだけ言い残して、立ち上がる。するとドアが開いて、白衣の男が姿を見せた。


「やあ、広井ひろい彩萌あやめさん」


「……どうも」


 男は、熱心だね、と笑いかけてきた。まだうちの父親と変わらないくらいの若さだけど、この病院の次期後継者となる人、らしい。院長の息子で、この病棟にいる人たちの治療法を研究しているんだとか。


 胸のネームプレートには、太合たいごうルーカス、と印刷がされている。


 名前の通りにハーフだかクォーターだかで、金髪で長身。この端正な顔で作られる自信たっぷりの笑顔を見れば、たいていの女子中学生は喜ぶのかもしれない。あたしは、別にどうとも思わないけれども。


「お母さん、今日は気分が良さそうだね。やっぱり、お見舞いに来てくれる人がいると違うのかな」


 悪気はないのかもしれないし、励まそうとしてくれているのかもしれない。けれども、どうしても、この人には嫌なところがある。


 それは、目だ。


 青い瞳に映るあたしは、なんとも冴えない顔で。けれど、そんな顔をこんなに笑って見ているというのが、一番に怖い。自分は正義の味方で何も怖くない、とか言い出したら完璧なサイコパス野郎だ。


「もしかして、お母さんが良くない状態だって思っている?」


「……」


 返事はしない。というか、できない。なんて言えば正解なのか、思いつかない。


「よく勘違いされるんだけれど、彼女はね、懸命に生きているんだよ。目では見えにくいけれど、とても頑張って生きているんだ」


「……」


 そんなこと、知っている。ここに来るたびに思っていることだ。常に眠ったままで、何も言ってはくれないけれど。一緒に食べることも、一緒に笑うことも、できないけれど。


「それに、病気に対する研究が今も進んでいる。近い将来、薬は完成するよ。それこそ、不老不死の薬だって作れるようになるさ」


「……はぁ」


 溜め息に近い返事をして、会釈えしゃくだけ残してあたしは病室を出る。


「大丈夫。彼女は良くなるよ……きっとね」


 そんな根拠のない言葉が聞こえてきて、あたしは足早に廊下を進んだ。


 胸の中にあふれたのは、何だろう。不快感、とは違うのか。医者が言うべきことを言ったというだけのことなのに。そんなの飽きるほど聞いたはずなのに。


 それでも、なんでか、嫌だった。理由もわからないまま、あたしは病院を出る。


 ふと、誰かに見られている気がして、振り返る。


「ウワサ……なんて」


 どうしてか、背筋が寒くなった。あの医者が、変なことを言うからだ。きっとそうだ。そういうことにしよう。


 帰ろう。夕飯の買い出しをして、帰ったら下拵したごしらえだ。


 そうして自分の気持ちを落ち着けながら、歩き出す。まるで何かを振り払うように、足が勝手に進んでいく。

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