EP01-陸:親友のいない雨の日


 この喫茶店の営業時間は平均的だと思っている。朝は十時から、夕方五時まで。


 朝から曇っていたから降るかとは思っていたのだが、ここまで土砂降りになるとは思わなかった。閉店時間ギリギリだし、客もいない。もう店じまいにするとしよう。


 まあ、この雨のおかげで地下にいるオーナーが作業に集中してくれているのは、素直にありがたい。こういう強い雨の日は、あの麗人は後悔や悲しみに暮れている自分を嫌ってか、没頭できる何かにのめりこむ。


 こんな日はたいてい、コーヒーではなくココアだ。流石に半年以上も一緒にいればわかるようにもなる。そうしてココアをれながら、育ての母の教えを思い出す。


 秘密のレシピで作った調味料を、ほんの一つまみだけ、入れる。


「あとは魔法をかけるだけ……」


 つぶやいてから、お決まりの溜め息。


「笑顔になぁれ……か」


 まだ小学生にもなりたての自分が、初めて自分ではない誰かのためにやったことだ。オレは笑顔になれないけれど、誰かを笑顔にしていくうちにいつか自分も、と。結果的にそんな奇跡は起こらなかったし、今もこの表情のままだ。


 それでも、この魔法をずっと繰り返し口にしていくんだろう。オレの出すものを口にする誰かが、せめてその一瞬だけでも笑顔になるように。これだけが、不器用なオレにできる唯一無二の笑顔の作り方だから。


 ふと、ドアの方に気配を感じた。しかし入ってくる様子がない。雨宿りしようとしたらもう閉店時間だった、というパターンだろうか。それにしても、微動だにしないというのは、どこか妙だ。


 そのシルエットを見て、オレはすぐさまドアを開ける。やかましい鈴の音とは対照的に、そこに立つ人間はあまりにも静かだった。


河島かわしまさん……何してらっしゃるんですか」


 雨でぐっしょりと濡れた彼女は、捨てられた子犬のように、ただ震えている。


「探偵さん、来て、ませんか?」


「朝、お二人が店を出てからは見ておりませんが」


「そう……ですか」


 今にも倒れそうな彼女を、とにかく店の中に促した。されるがままの彼女は、放心状態で。仕方なく大きめのタオルケットを頭からかけてやるが、手を動かす気配もない。


「座っていてください。今、何か温かいものを……」


 キッチンに入ろうとしたオレのそでを力なく掴むのは、あまりにもか細い指。弱々しくて、オレが触れただけで壊れてしまいそうな、華奢きゃしゃな手だった。


れい……死んで、なんか、ない、ですよね……」


「……」


 同意を求められているわけじゃないのは、すぐにわかった。


 ただ彼女は自分に言い聞かせているんだろう。目の前に広がった地獄のような事実を、受け止めきれないから。


「探偵さん、きっと、新しい情報、見つけてくれてる。だから、会って、話さないと」


 消え入りそうなほどにかすれた声。あまりに頼りないとわかりきった言葉の羅列られつ


 今朝、ここを出るときの彼女が見せた瞳の中の光を想うと、奥歯を噛みそうになる。今の彼女の眼には、そんな輝きはどこにもない。


尾雲おくも先生が、残念な事件だったね、って。ただの他人の空似だから、玲じゃないんだって。悲しいけど、現実を見ようよ、って……」


 心臓をナイフでえぐられるような感覚。たまたま、オレたちの境遇が似ているというだけだとわかっていても、それでも気持ちのいい言葉ではなかった。


「私が、悪いのかな……? 玲を助けたいなんて……死んだ人は、生き返らないって、そんなこと、わかりきってるのに……」


 虚空こくうを描く闇の中から、大きな光のしずくが一粒。


 ぽたりと落ちたのは、涙。


「玲の笑顔、もう見られないって、信じたくない私の……妄想だったのかな」


 それを拭う気力も起きない彼女のほおを、次々とこぼれていく光。


 気付けば、オレの手はその光の出所でどころに触れていた。


「え……?」


 予測もしていなかったオレの行動に、しかし彼女は抵抗もせず。ただこの冷たい指に、あふれる滴を預けていくだけ。


「座ってください」


「……はい」


 言われるままにカウンター席に腰かける彼女は、人形のようだった。いや、無理もない。大切な人を、その想いまでもを踏みにじられたのだ。それも信じていた相手によって。


「ココアです。良ければ」


 どうしていいのかも見失ってしまったらしい彼女の前に、さっき淹れたものを出す。もうこの際、オーナーには後で新しいものを作ることにしよう。まずはこの娘が凍え死ぬ前にどうにかしないと。


「これも、試供品……?」


「そういうことにしておいてください」


 それだけ告げると、オレはエプロンを外して、彼女の隣の席に腰かけた。


「……おいしい」


「すみません、この店、甘いものはそれしかないんです」


 後は調味料の砂糖でもめてもらうしかない。すると彼女は形だけだが、笑った。まだ瞳の光は戻らない。それでも、少しはマシになったのだろうか。


「店員さん……」


「はい」


「肩、貸してくれませんか?」


「どうぞ」


 額をオレの肩に置いて、そうして彼女は嗚咽おえつを漏らした。それは次第に大きな慟哭どうこくになって。彼女の両手が掴むオレの黒シャツも、引き千切られんばかりにしわだらけになっていく。そして何度も、彼女の親友の名前が聞こえた。


 それらすべて予想はしていた。だからここに座った。問題は、オレの身体は硬いし冷た過ぎることくらいか。人並みに温かければ良かったのだろうに。


 けれど彼女が、それでも受け止めがたい悪意を、あるいは自分の中に芽生えた悪意を、少しでも吐き出せるのならば。


 こんな肩、いくらでも貸してやる。



「あの……」


 少しして、ようやく落ち着いたらしい彼女が、タオルで顔を隠しながら声をかけた。


「はい」


「ごめんなさい。ご迷惑を、おかけしました……」


 控えめな声だったが、それでも多少は気が晴れたらしい。ほんの少しだが、穏やかな感触を取り戻している。


「迷惑料とか、払った方がいいですか……?」


「では、もし夕食がまだなら、試供品を食べて感想をいただければ、と」


「どれだけ試供品を作ってるんですか?」


「オーナーが仕事をしない人なもので」


 嘘は言っていない。あのオーナーがこの喫茶店の仕事をすべて丸投げしていることに関しては、本当のことだ。


 しかしそんな内情など知りようはずもない彼女は、くすりと笑う。


「ふふ。じゃあ、いただきます」


「と、その前に。こんなもので申し訳ありませんが、着替えてください。奥にシャワー室もあります。濡れた衣服は、乾燥機能が付いた洗濯機に放り込んでいただければ」


 予備の黒シャツと、寝巻き用にともらったスウェットを渡す。どちらも洗ってあるから、まあ大丈夫だろう。というかスウェットはほとんど使っていない。満足に眠れたことがほとんどないから、そんなものに着替えることもまれだった。


 きょとんとした彼女だったが、ようやく自分が風邪をひく一歩手前だと気づいたらしい。遠慮すべきか迷う仕草こそ見えたが、彼女はそのまま着替えを受け取って、奥のシャワー室に入っていく。


 さて、その間に作ってしまうとしよう。いかに女性が長風呂ならぬ長シャワーであっても、ダラダラするのは性に合わない。


 野菜を切り、スープを作る。この間のトーストサンドだが、チーズは別の物を使って味を変える。それでもこの隠し味だけは、変えることはしない。


 育ててくれた義理の母親から教わった、オレが唯一「優しい」を表現できる方法。


「笑顔になぁれ」


光一こういち、これお母さんの味! わかった、おいしくなーれの魔法をかけたんでしょ?)


 ふと、小さなころの記憶がフラッシュバックする。この味を再現してやった親友は、そんな風に笑っていたな、と。


 誰よりも優しくて、何よりも誰かの笑顔を大切にして。そのために、命懸けでこの街を守ろうとした男。


信太郎しんたろう……お前は今、どこにいるんだ」


 この事件はどこか一年前と似ている。交友関係の広い親友は、消えた友人を探していた。亡霊のように現れては消えるその子を助けようと、あいつは街中を走り回って。そして、その子が豹変ひょうへんした〈実験体〉に連れ去られた。


 あの時。どんな手を使ってでも、親友の手を放すべきじゃなかった。もしあそこでオレが身代わりになってさえいれば。きっと信太郎は今も、あのだまりの笑顔でいて。そうしてもっと多くの人たちが笑顔になるような生き方をしていたに違いない。



――あの日、オレが死んでさえいれば。



「あの……シャワー、ありがとうございました」


 盛り付けまで終えてそのまま固まっていたオレに、恐る恐るといった具合にかけられた声。顔を上げて、いえ、とだけつぶやく。それしかできない。


 オレの服を着ているせいでくろだ。スウェットはゴムひもだからいいが、上も下もまくらないと大きすぎたらしい。彼女はオレより頭一つ分ほど小さいのだから、当たり前か。


「わぁ……」


 そんなことも気にせず、こんな粗雑そざつな料理を出されたにもかかわらず、彼女は両手を合わせた。どこか幸せそうな表情で。


「いただきます」


 スプーンですくって、一口。咀嚼そしゃくして、飲み込んで。そのまま、トーストもかじる。伸びたチーズに驚きつつも、たったそれだけのことで、彼女は微笑ほほえむ。


「おいしい」


「それは、良かったです」


 笑えないオレは、そのままうなずくだけ。それ以外に、できることなんかない。しかし彼女はオレの表情など気にも留めずに手を動かす。そのたびに、ほっとしたような笑み。


「やっぱり玲の味がする……。なんでだろ。どこかで料理、習ってたんですか?」


「いえ。育ての母が、料理教室の講師をしていたくらいでしょうか」


「育ての……?」


「ええ、幼いときに、実の両親は他界していますので」


 驚いた表情のまま固まってしまった彼女に、淡々といつも通りに説明する。


「交通事故で。珍しくもない話ですよ」


「ごめんなさい……つらい話、させて」


「いえ、もう終わった話です。ただ……」


「ただ?」


「医者が言うには、そのときのショックが顔の神経をどうにかしたとかで。今も、うまく笑えません」


 また、固まっている。今度はさっきより大きなショックを受けたようだった。


「それって……ずっと?」


「ええ。ずっと、です。幼少の頃からこの顔が原因で引き取り手の施設もたらい回しでした。だから最後に行き着いた家族には、今も感謝しています」


「どんな人たちなんですか?」


 やっと、ほっとしたような顔でいてくる。ああ、その話をしたら、またこの綺麗な顔がゆがむのではないだろうか。まったく本意ではないが、しかし問われた以上は答えるしかない。


「さっきも言ったかもしれませんが、育ての母は料理上手でした。育ての父は大きな会社を経営していて。その間にはいつも笑顔の一人息子。世界中のみんなが笑顔になるようなことをするんだと、誰も頼んでいないのに常々わめいていましたよ」


 ただありのままを伝える。あの人たちの笑顔、受け入れてくれる優しさ。


 あの日のオレにとって、そんな彼らの当たり前が、どれだけ残酷で、どれだけありがたかったのか。失った今なら、わかる。わかってしまうのが、余計に苦しい。


「あの……もしかして、その人たちって……」


「ええ、もう二度と会うことは叶いません」


 おそらくオレの表情の、ほんの微妙な変化だけで、そのことを察してしまったのだろう。ああ、予想通りにしょぼくれた顔だ。


 そういう顔は、もう見たくないと思ってきたのに。


「あなたの親友と、オレを親友と呼んだその一人息子、少しだけ似ている所があります」


「それって……笑顔?」


「ええ。どんなときも、笑っていました。苦しい時も悲しい時も。今もあいつがここにいたならば、きっと誰かを笑顔にしていたでしょう。だから、オレはここでコーヒーを淹れています。それくらいしか、誰かを笑顔にできるすべがないから」


「……」


 小さな沈黙。それが何を意味しているのか、オレにはわからない。表情が伝えてくれる情報なんて、たかが知れているのだから仕方もない。


 ただ彼女が何かを考えていて、それがオレに対する言葉だということだけは、わかる。


「そんなこと、ないと思う」


「そんなこと、というと?」


「まだコーヒー、ちゃんと飲んでないから、どんな笑顔になるかわかんないです。だけど店員さんは、こんな話は誰にも信じてもらえないかもって思っていた私の味方でいてくれた。それだけで私は勇気をもらえたし、笑顔でいようって思えたんです」


 ぐな瞳。まだ彼女は、信じている。オレが善意でそんなことを言ったのだと。


 違うと、叫びたかった。


 だが、何も返せなかった。返してやれる言葉なんて、持ち合わせていなかったから。


「だからね、店員さん。玲が帰ってきたら、きっとコーヒー飲みに来ます。二人で」


 そんな希望に満ちた笑顔を向けないでくれ、と叫びたいのに。


 この口は、淡々と嘘だけを吐き出す装置に成り果てる。


「ええ。そうなることを、祈っています」


 するりと、そんな言葉が飛び出した。何の根拠もない奇跡なんて、起きるわけないと知っているのに。


 そんな自分を心の中で嘲笑いながら。そのくせ表情だけは作り笑いさえできない自分を呪いながら。


 食事を終えた彼女の服が乾くのを待って、傘を持たせて帰した。


 誰もいなくなった店内で、独り、つぶやく。



「信太郎……。お前ならこんなとき、どうした?」



 さっきよりも弱まった雨音に、しかし声はかき消されていく。

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