EP01-壱:喫茶『かざみどり』の店員


 コーヒーの香り。


 何とはなしに、嫌いじゃない。飲むのもだが、オレの場合はれる方だ。


 重力に引かれてこぼれていく黒いしずくを見るたびに、なんとなく安心する。


 ふとカレンダーが目に入った。気づけば今日から四月。この喫茶店でコーヒーを淹れるようになって、もう半年か。


 からんからんと、ドアに取り付けられた鈴の音が来客を告げる。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げ、お決まりの文句。カウンター越しにキッチンがあるというのは便利だ。来客に合わせていちいち行ったり来たりをする必要がない。


 入ってきたのは、馴染なじみの顔だった。


「やぁやぁ、少年。今日も吾輩わがはいのためにコーヒーを淹れてくれたまえ」


「ブレンド一つですね」


 いつものように自信たっぷりに注文をして、本棚から一冊の小説を手に席へ向かった。


 一応はブックカフェだから、本を読みながらコーヒーブレイクをしてくれて構わないのだが、この男はたいてい武勇伝を語りたくてカウンター席を陣取るから苦手だ。


 ふと、違和感を覚える。


 普段ならさきにカウンター席に座るのに、三つしかないテーブル席の一番奥に腰を下ろしている。わざわざ出入口から最も遠くの席を選んで、だ。


 丸いフレームのメガネに映るのは、長い説明と台詞せりふのやりとり。背表紙からしても探偵小説らしい。


 よく見ると今日の帽子もブラウンとベージュのチェックがら。白いワイシャツに、同じくチェックのベストで、チノパンの色まで同系統でお揃いという徹底ぶり。こう、いかにも「私が探偵です」という組み合わせ。よく恥ずかしくないなと思う。


「お仕事ですか」


「おやぁ、バイト少年くん? まさか吾輩の〈できる男オーラ〉を感じ取っちゃった?」


 いや、できる男はツケを滞納したりしない。


 三十は過ぎているだろうおっさんは、オレが持ってきたコーヒーに口をつけながら、得意げに笑っていた。ドヤ顔っていうのは、こういうのを言うんだったか。


「いえ、いつもと座るお席が違いましたので」


「ふふん。そうとも、依頼人のプライバシーを守るのも、探偵の仕事だからね」


 ああ、流石さすがは探偵だな。そういうところに気を配るところは感心する。


 いつもカウンター越しのキッチンにいるオレにも聞こえるように話さなければ、だが。


 しかし、今日はやけにうざったらしいな。


 いや、このパターンはアレだ。依頼人が若い女性なのだろう。たいていがペット探しや不倫調査で万年金欠、おまけにこの美的センスでは彼女もいない様子だし、あわよくば、なんて思っている顔だ。


「そういうわけだからね、バイト少年くん。依頼人が来たら、何も聞かずにコーヒーを頼むよ」


うけたまわりました」


「ところで君さぁ、もうちょっと愛想よくしてくれよぉ? 年がら年中、その黒いシャツで仏頂面。そのエプロンが青空色じゃなかったら、君なんか『センスなさすぎマン』とか渾名あだなつけられちゃうんじゃないかね?」


「善処いたします」


 くるりときびすを返してキッチンに戻る。


 飾り気のないことは認めるが、センスに関してはこのおっさんほどではないはず。


 オレは単に無個性なだけだ。この黒髪もいじる気はないし、目つきが悪いのも生まれつきでどうしようもない。


 まあ、どんな依頼であれ、この人の手元に金が入るならいいのか。とりあえず、それで溜まったツケを払ってもらおう。もっとも、すぐに酒や借金返済にでもてられるのかもしれないが。


 ほどなくして、またドアから来客を告げる鐘の音がした。今度は少し控えめだ。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、確かに若い女だった。今年で二十歳になるオレと、そう変わらないかもしれない。


 女性の服飾など頓着とんちゃくしないオレだが、流行の服なのだろうか。


 白のブラウスの上から、桜色のカーディガン。大胆なミニスカートだが、落ち着きのある黄色だからなのか、それとも愛らしく花をあしらったがらだからなのか、自然と受け入れることができる。長い栗色の髪も相まって、きっと美女に分類されるのだろう。


 ただし、そんな若々しい見た目とは裏腹に、一番にオレの目を引くのは彼女の表情。


 蒼白さは、もともと肌が色白だと言われても信じようがないほど不健康的だ。何日もきちんとした食事をしていないのではないか。何より、どんよりとした瞳が、何かを呪っているようにすら見える。


「ご連絡いただいた、河島かわしまさんですかな?」


「えっと……あなたが、ハシバさんですか? 探偵の?」


「いかにも! 吾輩こそ、名探偵の橋端はしば三平さんぺいですよ‼」


 明らかにいぶかしんでいる。無理もない。オレも最初にこのおっさんの職業を聞いて、同じような表情をしていただろうから。


「まぁまぁ、立って話すことでもないでしょうし。ささ、こちらに座ってくださいな」


 促されるも、少し考え込んでいる様子だ。この男に話して大丈夫か、とか思っているのだろう。


 しかし、彼女はようやく意を決したように席につく。とりあえず言われた通りにコーヒーを持っていくことにしよう。あとは、おひやか。


「ええっとね、では河島かわしま千代子ちよこさん」


「はい」


 上ずった声の主の前に、そっと飲み物を置いた。邪魔にならないようにと、そそくさときびすを返して、キッチンに戻る。


 しかしこんなに若い女性客とは、この店でも久しぶりな気がする。ああ、そういえば、あれを実践するにはちょうどいいかもしれない。聴き耳だけ立てて、準備に取り掛かるとしよう。


「では、ご依頼内容の確認をさせてくださいね。確か送っていただいたメールでは、人を探してほしい、ということでしたが」


 こくりと、人形のようにうなずく少女。河島千代子という名前だったか。彼女の態度はどこかおかしい。


 まるで自分がこれから盛大に怒られるとわかっている子どものように縮こまっている。生まれてからこれまでの人生、探偵に依頼などしたこともないというのはわかるが、この異様な委縮はなんだろう。まさか本当に冷やかしでもあるまい。


「それで、詳しいお話は会ってから、とのことでしたな」


「はい……」


「メールでお伝えした通り、その人の顔写真はお持ちですか?」


「……」


「あの、どうかなさいました? あ、もしかしてコーヒーお嫌いでした?」


 おい待て。さっきコーヒーを出せと言っていたのに、まさか何のリサーチもしていなかったのか。


 もっとも、紅茶を出せと言われても、この店にはないので出しようもないわけだが。


「そうじゃ、なくて……」


「ああ! 安心してください、あの店員、見かけはひょろひょろでずる賢そうですが、意外にも口の堅いバイトくんです。だから安心してください」


 そう言って親指でオレの方を指す探偵に、しかし彼女はそれも違うとうつむいたままだ。


 わかってはいたが、訳アリだ。こんないかがわしい探偵に依頼している時点で、だいぶ困窮しているのは明白だが、その事情すら語れないほどとは。


 いや、わざわざこんなところまで来たのに、見るからに冴えないおっさんが探偵ですと現れたのだ。それは反応に困るというものだろう。


 彼女から依頼金をもらえる可能性はなくなったと思った方がいいだろうか。そう思えるほどの長い沈黙が流れていた。


「河島さん。吾輩はね、この黒銀くろかねという街で探偵をして長いんです。どんな人間だって見つけ出してみせますとも!」


 おそらく嘘は言ってない。いくら万年金欠の売れない探偵でも、この街にずっといることだけは事実だ。


 だがそれは励ましにもならない空虚くうきょな言葉の羅列られつでしかないと、彼女の瞳を見れば明白だった。


「もしかして、別れた彼氏さんとか? いや、それとも生き別れの兄弟? あ、ひょっとして、吾輩みたいな素敵な男を探してた、とか?」


 ひょいとキッチンからカウンター越しに顔を出してみる。


 おっさんよ、今の一言、致命的だったようだぞ。彼女、きゅっと口を結んで、瞳はコーヒーカップの暗闇しか見えていない。信じた私がバカだった、とでも言いだしそうだ。


 案の定、彼女は勢いよく立ちあがった。そのまま、失礼します、とだけ言い残し、ドアの方へ。間違いなく、出て行こうとしている。


 いやちょっと待て。それは困る。この探偵が廃業しようがどっちでもいいが、こっちはきたいことがあるんだ。


「か、河島さん⁉ じょ、ジョークですからね⁉ 今のはね、探偵ジョーク‼」


 ここで依頼を逃したらまずい、と声だけで彼女を止めようとしているダメな大人がそこにいた。こっちも困窮しているのは同じだろう。金がない、という意味合いでだが。


 無論のこと、彼女には止まる道理などない。


 しかし、その足が止まる。


 いや、オレがドアの前に立ったせいで、足を止めるしかなくなった。


「あの……」


「食べてください」


「え……?」


 暗い眼をした彼女は、突き出された皿を呆然と眺めた。


 トーストサンド。


 キャベツやトマト、ベーコンといった具材を、オーブンで焼いたチーズとパンで挟むだけの簡素な食べ物。あまりに簡単で、今のオレでも作れる数少ないラインナップの一つだ。まともな料理かと問われれば、雑な一品であるとしか説明のしようもないが、少なくとも今はこれでいい。


 少し考えるようにしていた彼女は、しかしすぐにオレを見つめ返した。


「あの……もう、帰ります」


「いえ、これは試供品です」


「試供品……?」


 ほんのりと湯気を立てるサンドと、それを差し出すオレを交互に見る彼女。どうやら香ばしい匂いに刺激された食欲と、しかしさっさとここから出なければという気持ちの間で揺れているようだった。


「あのおっさ……探偵さんのことはお気になさらず。別に話したくないなら、話すこともないでしょう」


「ちょっとバイト少年くん⁉ 君ね、この名探偵の仕事をだね……」


「わかりました。じゃ、今ここでツケ払ってください」


「あ、君ってば、汚いよ⁉ そういうことは大声で言わないで‼」


 テンパってオレから距離を取る探偵を一瞥いちべつだけして。改めて彼女に視線を戻した。


 彼女も、どうしていいかと迷っているらしい。手持ちの小さなポーチをちらちら見ているところからして、気にしているのは金額か。そういう善意と見せかけた詐欺さぎもあるくらいだから、当然の反応だな。


「でも……」


「じゃあ、代金はあの人が払う、ということで。もともとコーヒーもそういうつもりでお出ししていましたので」


 またもぎょっとした表情のおっさんを横目に。目をぱちくりしている彼女の横を通って、テーブルに料理を置いた。


「召し上がられるかどうかは、お任せします。こんな程度の物なので、かじっていただけるだけで幸いですが」


 良く考えれば、こうするべきだった。いきなり突きつけられたって、そこで掴んで食べたいとは思えないだろうに。我ながら馬鹿だ。


 そんなことを思いながら、キッチンに戻った。別の作業に取り掛かってから数秒と経たずに、椅子に座る物音に顔を上げた。


「……おいしい」


 小さく声が漏れたのも聞こえた。


 声の主が、ぽろぽろと涙を皿にこぼしている情景が、オレの瞳のレンズに映った。


 ああ、やっぱりまともに食事もできていなかったか。金銭の問題だけではなさそうだが、とにかく生身の人間が何も食べないのは、良くない。


 あいつも、よくそう言っていた。


れいの作ってくれたのと、同じ味がする……」


 レイ? それが、探し人の名前だろうか。


 ほどなくして、彼女は改めて探偵に向き直った。


「探してほしいんです。玲を……死んだはずの親友を」


 親友。


 その言葉がオレ……南野みなみの光一こういちの胸を、ちくりと刺した。

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