ピリオド

スリッパ

EP01~親友の形見~

EP01-零:この街のありふれた夜


 その男は、暗い路地裏を走っていた。


 時には振り返り、時には汚いゴミに足元をすくわれながら。


 ただ、ただただ、逃げていた。


 自分が何から逃げているかもわからない。そもそも〈あれ〉が何かなど、誰にわかると言うのだろう。


 少なくとも、ただ逃げるしかない男にはわからなかった。


 しかし、男には一つだけ確信があった。それはこのまま走り続ければ、逃げおおせるだろうということ。


 ずっとこの街で、暴力を振るって生きてきた彼にとって、警察や敵対する組織に追われることなど日常茶飯事にちじょうさはんじ。だから、この先のどういったルートで逃げれば家にたどり着けるのか、それだけは体が覚えている。


 そう、あと少しだ。あと少しだけ、酒と煙草タバコで悪くした身体にむちを打てば助かる。さあ、後は次の曲がり角だ。あそこを突っ切れば、もう逃げ切ったも同然だ。


「うぁ……、ぁ、ぁああッ⁉」


 甘かった。曲がったところで突き飛ばされて、初めて気づく。


「ぁぁぁ……ああああ⁉」


 自分を追っていたのは、人間なんかではなく。


「た、助けて……助けてく、だ、さ……ひぁっ⁉」


 人間大の獰猛どうもうな〈獣〉だったというだけのことで。


「ぁああああああああああああああああああ⁉」


 右肩からかじり付かれて、地面に倒されるのも、当然だった。


「た、助けてくれよぉおおお⁉ だ、誰かぁああああああああ‼」


 こんな夜更よふけの、人のいない場所で、助けなど来るわけもないと頭でわかっている。


 それでも、痛みと絶望に涙を浮かべながら、叫んだ。


「だれかああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 男の断末魔が響くと同時。


 雷でも降ったかのような、光と轟音が男の全てを占拠した。


「ぅぁ……ひ、ぁ、ぁ?」


 肩の痛みは引かないのに、重力だけが彼の味方したようだった。


 さっきまで圧倒的な力で自分を押しつぶさんばかりだった重みが、なくなっている。


「た、たすか……ぃぁあぁッ⁉」


 雷鳴のような音の正体は、モーターバイク。宵闇よいやみに紛れるような黒と、散りばめられた銀の装飾が魔性の輝きを放つマシン。


 しかし男が戦慄せんりつを覚えたのは、その乗り物より、そこから降りた影にであった。


 マシン同様の漆黒が包む身体の上に、白銀の面がおぼろげにきらめいている。〈それ〉が何なのか、ライトの光でぼやけてしまっているために、判断はつかない。


 ただ、およそ人間なら首とおぼしき場所には、血色のマフラーが風になびいていた。


 悪魔か、死神か。それとも疫病やくびょうがみたぐいなのか。


 ふと、男の脳裏によぎった言葉。それが一番にしっくりときた。


――〈怪人〉、と。


「……」


 無言で男の横を通り過ぎた〈怪人〉は、数メートル先で痙攣けいれんしている〈獣〉を見ているようで。


 激痛と出血で、もはや意識を保つことさえ難しくなった男に見えるのは、〈怪人〉の後姿だけ。


 近づいてくる敵への警戒心だけで〈獣〉は立ち上がる。


 それと同時、銀色の軌道を描いて、〈怪人〉が跳び上がる。血赤の翼をひるがえしながらの回し蹴りが、獰猛な毛皮を引き裂いた。


 声なき悲鳴がこだまする中で、漆黒の拳が振り上げられる。瞬間、その腕に銀色に輝くつのが生えた。いやむしろ、その直線的で鋭利そうなシルエットは、針、だろうか。


 少なくとも、ただこの悪夢のような情景を見守るしかない男の目には、そう映る。


「……け」


 つぶやく声の意味を考える前に、針は〈獣〉の首を穿うがっていた。


 息もできないでいた男の見る前で、さっきまで生きていたはずの〈獣〉はみるみるうちに泡となって溶けていく。


 夢ならめてくれ。そんな男の願いは届かずに、〈怪人〉は男の元に戻ってくる。


 ああ、殺される。優先度が高い化物を葬った今、あの死神が次に殺すのは自分だ。


 そう途切れ途切れの思考が、逃げろと命じていた。しかし、先ほどまで酷使した足は震えあがって立とうともせず。痛む肩を抱いたまま、男は何もできずに縮こまる。


 乗ってきた二輪車にまたがって、〈怪人〉は男の方にちらりと顔を向けた。


「……」


 沈黙はほんの一秒。き殺されるのか、と覚悟を決めるしかない男は、震えながら目をつむった。せめて無残に殺される瞬間だけは見たくはない、と。


 エンジンが掛かる。発進した音も、きちんと男の耳が捉えていた。


 それなのに、なにも起らなかった。


「ぇ……?」


 もう限界だと感じていた男が最後に見たのは、過ぎ去っていく黒と銀の影だけだった。

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