理由
「なぁ、紅葉狩りとか行かねぇ?」
視界の隅で、燃えるような赤髪が揺れる。
診察台で寝転がっていた男が、不意にそんなことを言って立ち上がった。パソコンに
対する私は大きな溜め息と共に、その仮面を押し返した。
「知っているだろ。私が悪の組織に追われてこの地下アジトに隠れていると」
正確には、その悪の組織に殺されかけた私を、目の前の男がこの場所に
「そりゃな? でもこんな
「こう見えても私は研究者だ。
泥水みたいなコーヒーを
「また
「
吐き捨てるようにそれだけ言って、作業に戻る。武装の開発を進めないと。まずは右腕の『
左足の『
言ってみれば、小さな笹舟で嵐の海を進むようなもの。勝ち目なんてゼロに等しい。だからせめて生存率を上げられるようにできる努力をするしか……。
「あのさ」
後ろから掛けられた声は、さっきまでの冗談めいたものではなかった。
「おれがこの身体になったことを気にしているなら、それはあんたのせいじゃないからな」
何かが心臓に刺さったような錯覚。そうして振り返った先で息を呑む。
その精悍な顔の上に、痛ましい
まるで、内側に秘めた感情が
「確かにあんたが連中に売った技術で、おれはこうなった……」
悪党どもにされた改造施術が奪ったもの。
この男の場合は、記憶。自分がどこの誰で、どんな生き方をしてきたか。いくら調べても何一つとして手掛かりは掴めずにいると。
「それでもさ、この街にはおれの好きなものがたくさんあるって知ってんだ」
その連中に怪物同然にされたはずの男が、指折り数えたのは何でもない日常を彩る四季のこと。
「冬は雪山だってのにたくさんの人が参拝する神社、春になったら並木道を埋め尽くす桜、夏には港を一望しながら冷たいかき氷。そんで秋は綺麗な紅葉ときたもんさ」
そんなもの、この街じゃなくたって観られる。もっとすごい神社はたくさんあるし、桜の名所もかき氷が美味いところだっていくらでもある。
テレビを
「そんでさ、そんな四季を楽しみながら笑って生きている人たちがここにはたくさんいる」
過去を失くした男は、それでも言う。怒りと哀しみを
「そんで、そんな小さな幸せを生きる人たちを、生きたまま地獄に堕とす悪党どもが、まだこの街でコソコソと
こいつはいつもそうだ。微笑を
私のせいでそんな生き地獄にいるこの男の苦痛が、ぎゅっと胸を締め付ける。
「
ポツリと口をついた言葉に自分で驚いて、思わず目を
私は本物の
そんなこと、わかりきっていたのに。
「おいおい、そんなもんかい?」
そっと顔を上げると、困ったような笑みが一つ。
「あんたが設計したこの身体じゃなきゃできないことがあるだろ」
「そんなもの……」
言いかけて口を
その瞳が、あまりに
「生き地獄に堕とされた誰かの、その
握った拳を見つめる瞳は、これまで私が見た誰のものより
同族の命を奪うことでしか止められない絶望。その
「そんな
それでも放っておけないと。いつかは自分も、同じ
「それにさ、やっと一緒に戦ってくれる仲間ができたんだ」
誰のことを言っているのかと困惑する私のこめかみを、男はそっと指先で突いた。またシワできてるじゃん、なんて口にしながら。
「たとえ世界中が敵に回っても、あんたが味方なら百人力だぜ?」
そんなわけない。私はただの技術者で、あんな暴力になど
「別に同じ場所で拳を握るだけが、一緒に戦うってことじゃないだろ。おれは今まで
ああ、そうか。こいつは自分の境遇を語れる相手もないまま、戦っていたんだ。文字通り、
「それにさ、支えてくれる人がいるだけでこんなに心強いんだって、あんたに
「そんなこと……」
誰一人として味方のない戦場で、それでも戦えたこの男の心臓は鋼なのだと思っていたのに。
本当は普通の人間と何も変わらない。
ただ強がって笑っていただけ。
「よし、じゃあ約束をしようぜ」
「約束?」
「ああ。この街の悪夢が終わったら、デートだ。どこへでも連れてってやる」
冬は
それがとても叶わない夢のような約束だと、一番知っているくせに。
「いつか必ず、あんたが心から笑って生きられるようにしてみせるから」
「約束だからな」
それが、あいつと交わした最後の約束。
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