第5話 矢田宗次郎

「一生、結婚などしなくてもいい」

 という考えは、高校生の頃からあった。

 実際に、まわりに、結構な年齢なのに、独り者の人も結構いた。

 父親の弟である、おじさんは、40歳を過ぎてもまだ独身、

「あいつは、お付き合いしている彼女もいないようだ」

 と、父親が嘆いていた。

 しかし、おじさんは自由に振る舞っている。

「結婚がそんなにいいものなのかね?」

 といって笑っていたが、それは決して強がりではないという気がした。

 実際に、自分が高校生になった時、

「彼女がほしい」

 と、たまらなく思ったものだったが、実際に、彼女ができた時には、

「あれ? こんなものなのかな?」

 と感情的に胸が躍らなかったのは、確かだった。

 中学時代は、

「思春期」

 という時期があり、誰もが陥る寂しさの紛らわせ方が、意識し始めた異性にだけ、目が行ってしまうのだから、当たり前のことと言えば当たり前であろう。

 そんな草薙だったが、風俗に通うようになり、

「肉体と感情とは、別のところにある」

 ということに気づくようになって、

「結婚なんて、しなくてもいいんだ」

 と思うようになった。

「どうせ結婚なんかしたって、性格か、肉体的などちらかが不一致だったと思えば、それ以降、我慢して結婚生活を続けるか、アッサリと別れるかのどちらかなんだ」

 と感じた。

 草薙は、

「俺だったら、肉体的にも精神的にも不一致だと思った瞬間、一緒にいることはできないと思って、すぐに別れるだろうな」

 と感じた。

 というのは、我慢しても、そこから生まれるものは何もないと感じたからだ。

 もちろん、子供がいたりすれば、簡単に別れるということは難しいのかも知れないが、相手が、

「無理だ」

 と言い出せば、もうそれ以上は無理だということは自分でも分かっている。

 というのも、その瞬間から、見ている方向が違う方向を向いていることが分かるからだった。

 同じ方向を見ているつもりでも、それはあくまでも、自分の感覚なだけであって、錯覚でしかないのだった。

「俺が、最初に感じた思いは、間違っていなかったんだ」

 と、相手も同じことを考えていたことが、別の方を向いていることを証明しているなど皮肉なことであるが、そのおかげで、自分の進むべき道が分かるのだから、それはそれで悪いことではないとおもうのだった。

 平成の時代に、

「成田離婚」

 などという言葉が流行り、その頃から、離婚というものが当たり前のようになり、

「今では、独身というよりも、バツイチの方がモテる」

 と言われた時期があったくらいで、さらに昔の、

「離婚すれば、戸籍に傷がつく」

 などと言われた時代は、

「今は昔」

 というところであろうか。

 そんな草薙が、再度、つかさに出会えたのは、本当に偶然だったのだろうか? つかさはかなり喜んでいる。

「こういちさんは、一体どこで浮気してたのよ」

 と、言って、再会した時、太ももをつねられた、

 冗談かと思ったが、結構強かったのでビックリしたが、

「それだけ、俺のことを思ってくれていたのか?」

 と、正直思ったほどだった。

 風俗というのは、

「相手を本気にさせてこそのプロだ」

 と言われるのだろうが、あまり真剣にさせてしまうと、今度はストーカーにならないとも限らない。いくらダメと言われても、出待ちして、相手が分からないように、後をつけるくらいのことはやりかねない。

 住まいを特定されれば、後は、昼職があれば、職場、学生だったら、どこの大学かくらいは簡単にバレるに違いない。

 だから、その気にさせても、本気にさせてしまうと、危ないということだ。

 いくら警察に話をしても、警察というところは、

「何かが起こらないと動いてはくれない」

 と言われている。

 嫌がらせのようなことをされるか、下手をすれば、危害を加えられない限り、警察は動かないのだ。

 しかも、けがをさせられたとしても、警察が警備してくれるわけではなく、被害届を受理したり、相手に注意勧告をする程度で、

「何ら助け」

 にはなっていない。

 下手をすれば、

「あんたが、その気にさせたから悪い」

 という言い方をされるかも知れない。

 もちろん、自分が風俗嬢だということを分かってのことだ。

 警察というのは、そういう偏見は平気で持っていたりする。それを思うと、何が正しいのか間違っているのか、判断の軸がおかしくなっているのかも知れない。

 確かに、ストーキングをする方から言わせると、

「彼女が、僕をその気にさせた:

 というに違いない。

 しかし、こういう業界は、その気にさせて、いくらお金を使わせて、自分の人気を上げるかというのが問題だ。

 それこそ、アイドルの世界と同じで、

「人気取りのためには、ファンをいかにその気にさせるか」

 というのと同じである。

 そういう意味で、アイドルと風俗嬢の共通点は、結構あるのかも知れない。

 そんな中で、再会した時、どちらが相手に気づいたかというと、つかさの方だった。

 つかさの方は、確かに、

「お姉さん」

 という雰囲気からは少し変わっていた。

 再会した時に感じたのは、

「いい女」

 だったのだ。

 パネル写真でも最初の店では、ボディを強調した感じだったが、今の場合は、着物を着たり、ナース姿だったりと、コスプレが多い。

 もっとも、移った店のコンセプトが、コスプレやイメージプレイ系だったので、ある意味、今のつかさには、ちょうどよく感じられた。

「熟女」

 というには、少し憚る感じであるが、どちらかというと、

「妖艶さ」

 と言えばいいだろうか?

 だからこそ、服装によって、いろいろな顔を見せることができるというのが、今のつかさのテクニックに思えた。もちろん、その中の一つに、

「童貞の筆おろし」

 という役目を担う姿が、一押しなのは、いうまでもないだろう。

 そんなつかさが、悩んでいる姿が、最近気になるようになってきた。

 本当であれば、

「嬢のプライバシーを詮索するようなことをしてはいけない」

 というのであろうが、悩んでいる姿を放っておけないというのも、草薙のいいところ? であった。

「何か、気になることでもあるのかい?」

 と聞いてみた。

 すると、彼女はそれまで抑えていた気持ちを抑えられないのか、

「わーん」

 と泣き出したのだ。

 これには、さすがにビックリした。

「えっ、なんで?」

 と、まるで、自分が泣かせてしまったのではないかという錯覚に陥り、じたばたしていると、つかさは、すぐに泣き止んで、

「ごめんなさい。普段は気丈に振る舞っているんだけど、こういちさんの前では、どうしても泣いてしまうの」

 というではないか。

 妖艶さをほしいままにし、男性を魅了するその姿は、いかにも、

「自分の筆おろしをしてくれた、あの時のつかさに、さらに女としての磨きがかかったかのような妖艶さ」

 だったはずのつかさが、まさか泣き崩れるなど、そんな姿を見せられれば、男としてだまって見て見ぬふりなどできるはずもない。

 つかさは、何かを言いたそうにしながら、何にも言おうとしない。

 そして、顔を見られないようにして、枕に顔を埋めて、泣き崩れてしまう。

 いかにも、

「魔性の女」

 というべきなのだろうが、冷静に考えれば、

「何かある」

 とすぐに分かるはずなのに、こんな姿を最初に見せられると、男としての、

「助けてやらなければいけない」

 という、気持ちが強くなるのだ。

 その気持ちは、同情なのか、正義感なのか分からない。どちらにしても、

「相手は風俗嬢であり、自分は彼氏でも、ヒモでも、何でもないのだ」

 ということは、百も承知のはずなのに。簡単に引っかかってしまうのは、

「つかさとは、運命の再会だったんだ」

 という思いが頭の中にあるからだろう。

「ただの偶然のはずなのに」

 草薙のように、

「飽きれば次の女」

 というような態度を示していて、

 つかさの方も、風俗嬢として、いくつかの店を転々としているようだったので、

「またいずれどこかで」

 という可能性は高かったはずなのだ。

 つかさに関しては、宣材写真もまったく違った感じだったし、源氏名も違う。少しでも似ているところがあったとしても、同じ女かどうか、分かったかどうか、分からなかった。

 つかさの方も、今まで、どれだけの男の相手をしてきたというのか、

「童貞キラー」

 として、童貞を卒業させた男性だけでも、相当な数だろう、

 中には、もう二度とこなかった客もいれば、草薙のように、何度も足しげく通ってくれた客もいるだろう。

 マジで、その中には、

「ストーカー気質」

 の人もいただろう。

 特に、童貞の最初の相手ともなると、

「忘れられない女性」

 として、心の中に刻まれ、まるで、自分の彼女のような錯覚を起こす人もいるだろう。

 ストーカーにまではならないまでも、

「また彼女に入ると、抜けられなくなる」

 という思いから

「他の女の子に、相手をしてもらおう」

 と思う人もいるに違いない。

 そんなことを考えていると、急につかさから、

「あなた、誰かを殺したいと思ったことある?」

 と聞かれた。

 いきなりビックリしたが、

「つかさのような仕事をしていると、理不尽な思いと、さらにそこにお金が絡んできたりすると、歪んだ精神状態になるのかも知れないな」

 と考えた。

 まさか、本当に誰かを殺すようなことはないだろうが、殺したいと思うような相手がいるということである。

「どうしたんだい? 何か嫌なことをする客でもいたのかい?」

 と思わず聞いてしまった。

 ひょっとすると、もっと奥の深いことで悩んでいるのだとすると、客に嫌な人がいるくらいは、何でもないことだ。逆にそのことに触れられるのは、自分が却って嫌な思いをすることになるだけだと思うと、つかさとしても、やり切れない気持ちになって。歯ぎしりでもしたくなるのではないだろうか?

 歯ぎしりとまではいかなかったが、何か苛立ちが感じられたことから、

「客に嫌な人がいるというような、浅はかなことではないということであろうか?」

 と考えるのだった。

 つかさは、

「そんなわけじゃないんだけど、まあ、いいわ。さっきの話は忘れてちょうだい」

 といって、自分で弱気になりかけた自分を制して、そして、戒めているように思えてならなかった。

「うん、分かったけど、何か本当に苦しいことがあったら、いうんだよ」

 と諭すように言った。

 それは、完全に今までと立場が変わったことを示していて、草薙としては、

「これまでの恩を返すことができる」

 という思いと、

「これで、自分が主導権を握ることができる」

 という思いとが重なっているかのように思えたのだった。

 草薙が、つかさのことを気にしているそんな時、草薙がこの間まで通っていた別の店で、一人の男が、店の常連になりかかっていた。

 彼は、矢田宗次郎というサラリーマンだった。年齢は、草薙よりも少し年上で、28歳だった。

 会社では、第一線の営業として、やっと一人前の仲間入りができたのだったが、そんな矢田が、草薙との一番の違いは、

「矢田は、妻帯者だ」

 ということだった。

 矢田は、端正な顔立ちということで、学生時代から女にはモテた。高校時代から、叶もいて、童貞も高校時代に無事に卒業できたのだが、彼の最初の相手も、草薙と同じように、風俗嬢だった。

 さすがに、その相手がつかさだったというのであれば、

「話ができすぎ」

 ということであろうが、残念ながら、相手は別の女性で、彼女も同じように、

「童貞キラー」

 としては有名だった。

 その最初に相手をしてもらった風俗嬢の話では。

「たまたま私につく男の子に、童貞さんが多かったというだけで、ただの偶然にすぎないわよ」

 といっていたが、

「いやいや、童貞君が、この人に相手をしてもらいたいと思って指名するわけでしょう? だとしたら、それを偶然なんて言い方をすると、選んでくれた童貞君たちに悪いよ」

 と言われたものだ。

 確かに、最初は、たまたま彼女に童貞が多かっただけなのかも知れないが、彼女のことが、

「童貞キラー」

 といって、皆から認識されるようになると、

「そうかしら?」

 と、ツンとしてそういうのだが、内心では喜んでいるようだった。

 何と言っても、

「風俗嬢というのは、イメージが大切」

 これはアイドルにも言えることであり、何か人に誇れるものや、人にはないいいところが見えてくると、それが宣伝になるのである。

 矢田が風俗に嵌ったのは、結婚してからだった。

 そもそも、結婚というのも、

「したくてした」

 というわけではない。

 いわゆる、まったく面白くも何ともない、世間でいうところの、

「馬鹿の一つ覚え」

 もような、

「できちゃった婚」

 であった。

 そもそも、赴任をしなかったのが悪いのだが、女の方も、

「今なら、大丈夫だから」

 といって男を安心させたという意味での、確信犯だったのだ。

 というのも、矢田という男は、親が金持ちで、会社社長の一人息子だということだ。

 いずれは社長ということで、結婚相手は、最初から、

「社長か、大臣か、医者」

 か、あるいは、そのタマゴのような人を探していたのだ。

 親が社長であれば、リアルに考えて、将来社長への道が約束されている、

「坊っちゃん」

 であれば、確実であろう。

 知り合ったのも、年収が高いか、あるいは、高学歴の男性が集まるという、一種のお見合いパーティのようなところであった。

 矢田は、高学歴ということで、会員資格があったのだが、それ以上に、

「父親の、顔パス」

 だったといってもいい。

 それだけ、有名会社の社長であり、しかも、同族会社、当然、後継は、矢田一人しかいないといってもいいだろう。

「親の七光り」

 という言葉、中学時代くらいまでは嫌いだった。

 実際に、そういわれている間、学校で苛められていたのも事実であるし、まだその頃には、自尊心のようなものの欠片があったのだろう。

 そんなことは分かっていたくせに、そのうちに、

「どうすれば苛められないか?」

 ということばかり、考えるようになった。

 中学に入るまでは、苛めがあっても、見て見ぬふりをしていた。しかし、中学に入ると、今度は、家での、

「帝王学」

 というものが邪魔をしてか、苛めをしているような姑息な連中が許せないという、正義感に目覚めたのだった。

 それは本当の正義感ではなく、教育から生まれた正義感ということで、本人もよく分かっていない感情だった。

 それなのに、

「君たちやめたまえ」

 というような、正義感ではない正義感を振りかざすことで、苛めっ子の方には、それがすぐに、

「演技に近いものだ」

 ということを悟ると、苛めの対象は完全に、矢田の方に移ってしまう。

 矢田とすれば、助けてやったんだから、助けたやつが、

「自分の味方になってくれるだろう」

 という気持ちになるはずだが、実際には、苛められていたやつからすれば、

「よかった、自分の身代わりに、矢田がなってくれた」

 と思い、二度と関わり合いになりたくないと思うことだろう。

 たぶん、彼が苛められるようになったのも、誰かを庇って、そのせいで矛先が自分に向いただけだったのかも知れない。

 そういう意味で、前に自分がしたように、

「身代わりになってくれるやつの出現を待つか」

 あるいは、

「苛めに疲れてくるのを待つか」

 の二択しかないということだったのだ。

 そんな苛めがあった時、矢田は、妖怪が出てきた怖い話を思い出していた。

 あれは確か、一人の男が山の中で彷徨っていて、どこをどう歩いたのか分からないが、ある広っぱのようなところに出てきたのだ。

 そこで、

「おーい」

 という声が聞こえるではないか?

 すると、その広場の少し奥まったところに、一人の男が立っていた。

 頭から蓑をかぶっていて、まるで、雨除けの恰好のようだった。

 最初は、

「少年かな?」

 と思ったが、近づいてみると、立派な大人だったのだ。

 子供に見えたのは、蓑をかぶっていたからであって、その分、小さく感じられたのだ。

 しかし、さらに近づいて、その男の全貌が明らかになってくると、

「あっ」

 と思わず声に出してしまった。

 その男は、人懐っこい顔になって、

「こんなに嬉しいことはない」

 といって、本当に喜んでいるようだ。

 その男は、まるでかかしのようであった。足元は一本の竹馬の竹のようであり、その一本だけで立っている。しかし、腰から上は自由に動かすことができ、要するに、下半身だけが、かかしの状態だといってもいいだろう。

 男はその喜んでいる様子があまりにも大げさで、しかも、目の前の男に対して、まったく警戒心を抱いていないことを見ると、自分も、警戒心がないことに気づいてはいたが、顔を見ると、

「本当に人恋しかったんだな」

 と思い、

「自分がいいことをしている」

 という、正義感に目が狂ってしまったのだろう。

 男が、

「ああ、本当に人恋しい」

 といって、やってきた男の前に両手を必死に伸ばしている。

 男は、まったく警戒心が解けてしまい、手を伸ばした男性に対し、無意識に手を伸ばすと、相手は、その手が触れるか触れないかという瞬間に、それまでの表情が一転し、険しい表情になったかと思うと、この時とばかりに、迷い込んできた男に必死でしがみついたのだ。

 すると、どうしたことか、二人は、入れ替わってしまった。

 以前、マンガを見た時、どこかの忍者の術で、

「順逆自在」

 という言葉を聞いたことがあったが、

 お互いの立場が一瞬にして入れ替わるというもので、この場合もまさにそれであり、手をつないだ瞬間、身体に電流のようなものが走ったかと思うと、自分の足がまるでかかしになったようになり、目の前にかかしになっていた男には、脚がついていたのだ。

「俺たちは入れ替わったのか?」

 と、彷徨いこんだ男は叫び、自分がどうなったのかということを、一瞬にして悟ったのだった。

「何もビックリすることはない。お前は妖怪となって、ここで次の人間を待てばいいだけだ。妖怪になったのだから、死ぬことはない。ただ、ひたすらに誰かがくるのを待っているだけだ。このわしだって、300年待ったんだ。お前がどれだけ待つことになるかは分からないが、今の順逆自在を思えは身をもって感じたのだから、決して忘れることはない。だから元に戻る時の心配はいらないぞ」

 と、たった今まで妖怪だった男は、人間に戻った。まるで玉手箱を開けたかのように、よぼよぼの老人になっている。

「お前はこのまま死んでしまうことになるんだぞ」

 というと、

「いいのさ。俺は人間として死にたかったのさ。妖怪になって、死ぬこともなく人が来るのをただ待っているだけなんて、考えただけで恐ろしい。お前のおかげで、俺は人間として死ぬことができる。例をいうぞ」

 といって、元妖怪は去っていく。

 というのが、その昔話の概要だったのだ。

 矢田宗次郎という男。彼が、誰かの身代わりを務める方なのか、それとも、誰か身代わりを探そうとしているのか、そのあたりを知っているのは、誰なのだろうか?

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