四つ目 ラブレターは腕を引く

 心霊下請け業者「なんでもきらきらクリーニング店」は、表向きはただの清掃業者である。

 昼間は近所の人々から持ち込まれた清掃の仕事や、しつこくこびりついた汚れ物の洗濯を行い、夜は各地の心霊スポットに出向いて怪異を「お掃除」する。それを主に【担当】と【治験】の二人だけでこなしている。

 時折、闇バイトを募集して人手を増やすこともあるが、その場合でも必ず二人は立ち会っている。そういったバイトたちは「数合わせ」に過ぎないことも多いので。

 それゆえに「なんでもきらきらクリーニング店」は案件の都合に左右される不定休の店であり、本日はその数少ない休日にあたる日だった。



「フンフン、フフーン?」

 下手くそな鼻歌を歌いながら【治験】はフライパンに卵を落とす。あらかじめたっぷりの油でベーコンをよく熱していたフライパンは、じゅわっと油が弾ける音と共に瞬く間に卵の白身を固め、その円周をパリパリの茶色に反らせていく。【治験】は火を弱めると、フライパンに蓋をしてエプロンで手を拭いた。

 朝の光が差し込む台所には二人がけのダイニングテーブルがあり、その上に敷かれた洒落た柄のクロスには生活感を感じさせる染みがぽつぽつとついている。

 テーブルの上にあるのは、読みかけの雑誌と、テレビのリモコンと、小さな花瓶。花瓶には【治験】によって家主の断り無く趣味で活けられた雑草がちょこんと揺れていた。

 【治験】が慣れた手つきで食器をいくつか出してくると、つけっぱなしにしていたテレビが朝の占いを流し始める。

「本日の一位は乙女座のあなた! 恋愛運が最高で、運命の出会いがあるかもです! ラッキーアイテムは手紙! そしてごめんなさい最下位の星座は――」

 それをふむふむと見終わると、【治験】はコンロの火を消して寝室に向かった。

「【担当】くん起きーてっ! 朝だよー?」

 いくら声をかけても【担当】はシーツをすっぽりとかぶって微動だにしない。【治験】はふうと息を吐くと、勢いよく彼からシーツを剥ぎ取った。

「えーい!」

「ゔゔー……」

 子犬の威嚇のような微笑ましい唸り声を上げながら【担当】はさらに体を丸める。【治験】はため息をひとつ吐いた。

「【担当】くんったら、体内時計整えたいから朝起こしてって言ったのは誰だっけー?」

「ゔー……」

「うーじゃなくてね?」

 いくら諭しても、とてつもなく朝に弱い【担当】は意識を覚醒させる気配はない。

「もー。勝手に運ぶからね? あとで文句言わないでね?」

「まだねる……」

「だーめ。お昼寝していいから今は起きなさい。……よっと」

 軽い掛け声とともにいささか乱暴に【担当】の体を担ぎ上げる。そのまま平然とした足取りで台所に向かうと、朝食を並べたダイニングテーブルの椅子にすとんと彼を下ろした。

「んぅ……?」

 辛うじて座るという姿勢を取りつつも、意識を眠りの淵近くに飛ばしている【担当】の目の前に、ちょうど焼き上がったトーストを置く。

「はーい、本日の朝食はマーガリンをたっぷり塗ったトーストと固めに焼いたベーコンエッグでーす」

 余熱で火を通していたベーコンエッグを皿に盛り付け、ちょっとしたサラダも添えて【担当】の前に置く。

 一方、完璧な形で朝食をサーブされた【担当】はというと、しょぼしょぼとした目のままタバコを取り出してそれを咥えていた。

「ん……ライターどこ……」

「だーめ」

 ひょいっとタバコを取り上げ、その代わりに焼き立てのトーストを咥えさせる。【担当】はぼさぼさの髪をうつらうつらと揺らしながらそれを咀嚼し、さらに10秒ほどかけてようやく起動した。

「トーストだ……」

「はいはいトーストだよ。おはよう【担当】くん?」

 いつも通りの挑発的な笑みを浮かべ、【治験】は【担当】のおでこをつんっとつつく。【担当】は額を押さえて、眉間に深く皺を刻みながら【治験】を睨みつけた。

「……おはようございます」

「うっわ、不機嫌ー。ほら、冷める前に朝ごはん食べちゃいなって」

 【治験】は【担当】の頭をがしがしと乱暴に撫でると、彼の目元にひょいっと眼鏡をかけてから冷凍庫を開けた。

「朽ち縄ちゃんは朝ごはん何がいい? ネズミ? カエル?」

 そう呼びかけられ、それまで不可視だった大蛇がずるりと【担当】の後ろに姿を現す。そして、背を向けている【治験】に寄っていくと、何事かをシューシューと耳元で囁いた。

「えー? それはちょっと用意できないかなあ。今晩、お高めの豚肉でトンカツにするからそれで許してくれない? ……ん、ありがと! 朽ち縄ちゃんは寛大だねえ。さっすが神様!」

 ほのぼのと話をしながらも【治験】は冷凍庫から蛇用の餌として売られている冷凍ネズミを取り出し、お酒と共に神棚に置く。大蛇の姿はいつの間にか消えていた。

「……彼女は何と?」

「たまには大きな生き餌が食べたいってさ。具体的には人間」

「それは難しい注文ですね。不可能ではありませんが」

 ようやく覚醒した【担当】は、好き放題に跳ねた寝癖をそのままに朝食を口に運ぶ。【治験】はその向かい側に腰掛けて、「んー」とか意味深に言いながら彼を見つめた。

「……何か?」

 朝食を食べる手を止めて言葉少なに問いかける【担当】に、【治験】は苦笑する。

「んーとね。今日の【担当】くん、朝の占いで一位だったんよね。恋愛運もめっちゃ良いって」

「はあ」

「でも俺的には大凶に見えるっていうかあ」

「はあ?」

 不機嫌であることを一切隠さずに威圧する【担当】に、【治験】はひょいっと机の上を指さしてみせた。

「ほらそれ」

 机の中央。向かい合って置かれた二人分の食器の間。

 意識しなければ気付くことのなかった「それ」は、いつの間にかそこに存在していた。

 それは、宛先の書かれていない一枚の封筒だった。定形封筒では無く、シンプルなレターセットの封筒だ。恐らく、中に入っているのは便せんだろう。

「……手紙ですか」

「さっきまでは置いてなかったんよね。つまり何らかの怪異の仕業かなーって」

「呑気な言い方ですね」

「【担当】くんだって深刻に捉えてないじゃん」

 ほのぼのとした会話をしながら二人は朝食を食べ続ける。手紙はプレッシャーにも似た空気を放ちながら二人の間で存在を主張していたが、【担当】も【治験】も平然とした顔だ。

「これ、危険なんですか?」

「それなりにね。異界からのラブレターだし」

「ああ……迷惑極まりませんね。宛先は?」

「間違いなく【担当】くん」

「勘弁願いたいですね」

 日常の中に紛れ込んだ異物を挟んでの会話とは思えないほど、和やかな朝の時間が過ぎていく。そして、朝のニュース内容が一巡した頃、ゆっくりと時間をかけて朝食を終えた二人は、ようやく手紙に向き合った。

「……で、どうします?」

「んー。こういうのってそもそも手紙を読んだりするのがトリガーになるからさー。あんまり迂闊には触りたくないのが本音かな。送り主の心当たりはある?」

「いえ全く。ご存知の通り「好かれやすい」体質なもので、どこかの神やら怪異やらが勝手に見初めてきたのかもしれませんね」

「【担当】くん、怪異タラシだもんねえ。自分ではほとんど視えないくせに」

 家の中に厄介な虫が紛れ込んできた時のような目で、うんざりと二人は手紙を見下ろす。手紙以外の全ての荷物は、巻き込まれないように避難済みだ。

「どうします? 燃やしますか?」

「んー、なーんか執着強い気がするから、ここで燃やしてもまた手紙送ってきそうなんだよねえ」

 ぐっと目をこらして【治験】は手紙を観察する。彼の目には手紙にまとわりつく禍々しいオーラがはっきりと映っていた。難しい顔をする【治験】の隣で、【担当】は眼鏡をかちゃりと持ち上げた。

「では、こちらから出向いて根から断ちますか」

「うぇー、朝から重労働したくないんだけどなー」

 がっくりと肩を落とす【治験】と、不機嫌そうに息を吐く【担当】。二人の間の停滞した空気を悪い方向にがらりと変えたのは、二人の背後に出現した巨大な蛇の視線だった。

「あー……朽ち縄ちゃん、もしかしておこ?」

 プレッシャーに気圧されつつもそっと振り返り、【治験】は尋ねる。大蛇は怒りで目を輝かせながら【担当】と【治験】に勢いよく巻き付いた。

「わあー! ごめんごめん! 浮気じゃないよ誤解だって! 【担当】くんには朽ち縄ちゃんだけだもんね! わるーい間男をちょっと懲らしめに行くだけだってー!」

 かんしゃくを起こした蛇神を宥めるのには十数分を要した。視えてこそいないが締め付けられている息苦しさは感じている【担当】がぐったりとしてきたことに気づいた大蛇が、自分から正気に戻らなければあわや大惨事となるところだった。

 そんな一悶着があった後、ふと【治験】は言う。

「そっか。俺たちが行かなくてもいいんじゃね?」

 ぽんと手を叩きながらの言葉に【担当】は胡乱な目になる。

「はあ。一応聞きましょう」

「んーとね。【担当】くんを餌にして怪異一本釣りみたいな?」

 釣り竿を振るようなジェスチャーとともに【治験】は漠然とした説明をする。彼がそういった感覚的な説明をするのは日常であったので、【担当】はすぐにその意味を理解した。

「……僕の手をわざと怪異に掴ませて、異界から引っ張り出すと?」

「ん、そゆこと! 引っ張り出したらこっちのもんだし、なんだったら朽ち縄ちゃんのおやつにもなるし?」

 にっこにこの笑顔で【治験】は頷く。二人の背後で大蛇が姿を現して「呼んだ?」とでも言いたそうに首をかしげた。

 【担当】はちらりと大蛇がいるであろう方向を見た後に、まだ痛みの残る腕をさすった。

「……怪異と彼女で引っ張り合いになって、僕の体がちぎれる可能性は?」

 【治験】は笑顔のまま数秒固まり、下から覗き込むように大蛇を見上げた。

「朽ち縄ちゃんはそんなことしないもんねー? 【担当】くんの無事が一番だもんねー?」

 大蛇は目を細めてシューシューと音を立てる。それを聞き届けた【治験】は、その内容を【担当】に伝えた。

「殺してでも死なせないってさ!」

「殺されたら死にますが? せめて大岡裁きぐらいの意気込みは持ってくれません?」

 うだうだと文句を言う【担当】を宥め、【治験】は彼の肩をバシバシと叩く。

「ま、俺も補助するから大丈夫大丈夫! 最悪でもこの部屋が吹き飛ぶぐらいっしょ!」

「ここ、僕の家なんですが」

「そろそろリフォームしたいとか思ってない?」

「思ってません」

 なんだか間の抜けた会話をしつつ、【治験】は小皿と食塩とチョークを出してきて【担当】の足下に結界を描いていった。全ての角が東西南北を正確に示した正方形をチョークで書き、その四隅に盛り塩をする。簡易的なものではあるが、攻撃を受けた時に視覚的にわかりやすいのでこれぐらいがちょうど良い。

「はい、おーわりっ。朽ち縄ちゃんは準備できた?」

 呼びかけられた大蛇は、鎌首をもたげて意味深に息を吐き出しながら目を細めた。何が面白いのか【治験】はけらけらと笑い出す。

「ヒュウ! 今日もスパダリだねぇ!」

「何を言ったのかは聞かないでおきますよ」

「えー、聞いておきなよ。ダーリンの渾身のデレ台詞だよー?」

 すすすっと【担当】に寄っていき、その内容を告げ口しようとした【治験】は――大蛇による尾の一撃で、一瞬で壁まで吹っ飛んだ。家が揺れるほどの勢いで壁にぶつかった【治験】だが、怪我一つなくけろりとした表情ですぐに戻ってくる。

「アハ! 照れ隠しきっつー!」

「遊んでないでさっさと済ませますよ。今日はせっかくの休日なんですから」

「ごめんごめん。じゃ、ぱぱっと怪異を一本釣りしちゃおっか!」

 パシン、と【治験】が柏手を一つ打つと、場が清浄な空気に満たされる。大蛇は空っぽになった入れ物に注ぎ込むかのように、そこに自分の神威を満たしていく。ものの数秒で、この部屋は「蛇神の領域」へと変化した。

「はい、じゃあ手紙に触ってー?」

 軽い口調で促してくる【治験】に従い、【担当】は手紙にゆっくりと手を伸ばす。じりじりと緊張が重さを伴って襲ってくる感覚に耐えながら手をさらに伸ばし――その指先が触れた瞬間、【担当】の手首は何者かに掴まれた。

「かかった! 引っ張ってー!」

 瞬時に大蛇は【担当】の前に滑り込むと、異界に引きずり込まれそうになっている彼の腕ごと、「何者か」を自分の領域に引きずり出した。

「いえーい! 一本釣り成功っ! いぇいっ!」

 無邪気にはしゃぐ【治験】とは裏腹に、大蛇と「それ」は互いに敵意を向け合いながら対峙していた。

 それはとても古い力を持った巨大な狐だった。尾はいくつかに分かれ、さすがに神の位である天狐までは至っていないようだが、どこかで荼枳尼天の眷属として祀られでもしたのかそこそこの神威を有している。

 【治験】が反射的に、【担当】の周囲に結界を何枚か張ったので無事だが、彼のように「あてられやすい」人間は、周囲の空気を吸うだけで昏倒してしまうだろう。

 大蛇と狐は威嚇の声を上げながら、互いに距離を測っていた。ただそこにあるだけで神威が荒れ狂い、家具が次々になぎ倒されていく。もはや人間が介入する隙はなかった。

「ひぇー。怪獣大戦争じゃん。こわー」

 巻き込まれたくないとそそくさとこちらに逃げてきた【治験】をちらりと見て、【担当】はため息を吐きながらタバコを取り出す。ほぼ視えない人である彼の目には、自分を取り合っている二柱の姿はぼんやりとしか映っておらず、ただ無残に破壊されていく我が家だけが映っていた。

 ひりつくような長い沈黙の後――二柱の神は激突した。丸呑みにせんと襲いかかる大蛇。狐はそれをひらりと躱し、大蛇に喰らいかかると見せかけて――【担当】へとその毛むくじゃらの腕を伸ばした。

「やべっ!」

 簡易結界は一瞬で破壊され、盛り塩は黒く崩れ去る。【治験】による結界も数秒の猶予しか作れないだろう。狐は勝利の笑みを浮かべながら【担当】を飲み込もうとし――

「――――ふぅっ」

 【担当】が吐き出したタバコの煙に、狐は一瞬怯んでしまった。その隙を逃さず大蛇は狐を締め上げると、たったの一口で狐を丸呑みにした。


 ――ぱくん


 しん、と静まりかえる部屋。荒れ狂っていた神威は引き潮のように引いていき、残されたのはつむじ風の後のように散らかった家具たちだけ。【治験】が再びパシンと柏手を打つと、僅かに残っていた不純物は空気中から綺麗に消え去った。

「はー、終わった終わった。【担当】くん無事?」

「窒息するかと思いました」

「自分を取り合う二人の愛の重さに? ヒュウ! 色男は言うことが違うねえ!」

「物理的にです」

 淡々と返事をしながら、不機嫌そうに【担当】は部屋の惨状を見渡す。普段【治験】によってそこそこ几帳面に整えられている光景とのギャップに、頭痛をこらえるように眉間にしわを寄せる。

「【治験】くん」

「なーに?」

「二度寝します」

「えーっ」

 無慈悲な二度寝宣言をした【担当】は、すたすたと寝室に向かおうとする。【治験】はそんな彼にすがりついた。

「やだやだ俺一人で片付けるのやだー!」

「あなた居候なんですからそれぐらいはしてくださいよ。こっちは疲れてるんです」

「俺だって疲れてるもん! やーだーやだやだー! 【担当】くんが手伝ってくれるまで俺も片付けないー!」

 そんな微笑ましいやりとりを数分続けていた二人だったが、大物を飲み込み終わった大蛇がぬっと【担当】の後ろに現れたことによって状況は一変した。大蛇の尾は一瞬で【治験】の体を絡め取り、ぎりぎりと締め上げ始める。【担当】はそれを見上げて、もう一本タバコに火を付けた。

「ごめんごめんそうだよね! 【担当】くんは疲れてるもんね! 家主だもんね! 俺がやりますやりまーす!」

 タバコを一本吸い終わる程度の命乞いの末に【治験】は解放される。【担当】はそれを見届けると、さっさと寝室に向かってしまった。

「ひーん、酷い目に遭ったよー」

 わざとらしくめそめそしながら、【治験】は物置から持ってきた掃除道具を動かす。その横では見張りをするように大蛇が彼を眺めていた。

 幸いにもテレビは壊れていなかったようで、電源を入れると問題なく朝の情報バラエティが流れ始めた。

「見てください、この綺麗なイクラ!」

 きらきらと輝くイクラに興味を引かれたのか、大蛇はテレビの前に陣取って人間の営みを眺め始めた。【治験】はそれをちらりと見た後、【担当】が置いていったタバコの吸い殻をゴミ袋に入れながら、彼女に尋ねる。

「そういや朽ち縄ちゃんってなんで【担当】くんがタバコ吸うの許してんの? 蛇ってタバコ嫌いじゃん?」

 大蛇はちらりと【治験】を見ると、シューと何事かを口にした。【治験】は何度か目をぱちぱちとさせた後に、モップに体重をかけてしみじみと言った。

「やっぱいい女だねえ、朽ち縄ちゃん」

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