アルベド

古井さらさ

かんぺきなみかん

 



 笹塚さんが剥いたみかんはかんぺきなみかんだった。かるくてまるい色をしていて、白い筋なんかがすべて丁寧に取り除かれていた。それを半分に割って、んっと差し出す。笹塚さんの腕が大樹のようにからまって、半身が欠けてなお、みかんはまるでかんぺきだった。手に乗せられたそれをよく見て、噛んで、飲み込んで、そして、忘れた。



 笹塚さんに会ったのは駅の入り口だか出口だかで、わたしは白いニットのワンピースを着ていた。まなつくんと会った帰りだった。ハートの形をした小さな黒いバッグが肩から落ちないように金のチェーンを握りしめていた。改札から出てしばらく人の群れを泳いでいると、笹塚さんが寄ってきた。しらないひとが知り合いになる過程を秒速でたどった。窓くんとよんで、と言われて笹塚さん、と返事をした。笹塚さんはひとつうなずいて、なるほど金井さん、と返事をした。寝た子の髪をなでるような声音だった。わたしは親から名前を呼ばれたようについていった。


 それから二人で餃子を食べた。騒がしい店は苦手だった。狭くて人の声ばかりが大きくてわたしがひとりに沈み込んでしまう前に、笹塚さんの目がわたしを掬いあげた。よく見れば、なんだか目つきが悪い男の人だった。白いTシャツに楕円のついたネックレス、デニムに革靴を履いていた。きっちり磨かれたそれがつるつるした床を歩くのをわたしは見ていて、それからわたしのブーツが続いた。色黒で首の辺りなんかぶっとくて、無意味に昨日塗ったベージュトーンのマニキュアを軽く擦った。適当に頼みますね、の一言も無く、ただ注文は行われ、わたしは水を飲んでいた。餃子を食べませんか、と言われたので食べにきた。

「餃子は肉だけど、ヒレがあるので魚っぽいですね。」

 わたしが言えば、彼は二つ一気に餃子をつまんで、たしかに、とわらった。あまりに丸呑みでわたしもわらった。


 笹塚さんはよく食べて、よく飲んだ。数回噛むだけで飲みくだすので勢いがよく、わたしは自然な形でそれに参加した。喉が乾いて、水ばかり飲んだ。それから、笹塚さんが、満月ですよ、というので、いいですね、とわらって、夜に出た。会計はわたしがした。


 笹塚さんに近づくと、女の匂いがした。化粧品売り場の匂いだった。わたしはすこし不機嫌になってなついた猫みたいに鳴き声をあげた。笹塚さんの目の奥で桜が散っていた。今は冬だった。からだは夏だった。月は隠れていて見えなかった。


 「ここです。」

と示されたここは、思ったよりもいいマンションぽくて、具体的にはロビーなんてあって、絵画や花なんかがあって、ピッとすればドアは開いて、エレベーターを待つ間、落ち着かなくてブルーベリーが食べたいなと言ってみた。家にないよ。とあるような口ぶりでいうので、なんかおかしくなって、そのうちまた、ここです。と部屋番号を教えられて玄関を開けばクリーンな部屋だった。観葉植物が静かに息をしていた。


 標本にされる予定の蝶のようにじっとしていれば、目が近づいてきた。眼球の美しさが桁違いだ、と思った。静かだった。触れないでいても、全く同じところから酸素を吸っているような距離で、もう触れるより中にいると思った。ふと距離がたわんで、ソファのそばに寄りかかるように彼が座った。わたしもその隣に座って、二人並んでなにも映らないテレビ画面を見ていた。ぼんやりくらい画面のなかのわたしはとてもかわいかった。

 その夜、笹塚さんは、わたしに触れなかった。


 うっすら空が白んできたので、ワンピースを脱いで、彼の服を借りた。紺色の綿のパジャマは大きくて、深い草の匂いがした。閉じている間だけみえる瞼を眺めて、それから初めて好きだと思った。触れないで欲しいと思った。触れたくないと思った。わたしは水を持ってきて、すこし口に含んだ。それからふとんに潜り込んで彼にキスをした。彼は目を閉じたまま、ぬるい水を飲み、わたしをまるごと飲みこんだ。それから吐き出されるまでの間、わたしは彼のうちにいて、存分にねむった。形のなくなるまで眠った。


 そして、かんぺきなみかんを食べている。みかんはかんぺきだった。わたしもかんぺきだった。すこし長く息を吐いて、さようならと告げると笹塚さんは撫でてくれた。白いひかりが二人を繋いでいた。


 帰宅すると、まなつくんが素麺を茹でていた。夏だっけ?と呟くと、もう秋だよと振り返った彼がおかえりと言った。

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アルベド 古井さらさ @hakobune09

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