幸か不幸か生きている。

焼き鳥マン

第1話 それは幸せなのか

ある池の中に長年住み続け、主ともいうべき魚があった。


何の魚かわからない、何せ誰もその存在を知らず、魚自身も自分の種類など知るはずもない。




人がよく釣りに来る池ではあったのだが、他の魚が釣られていく中その主魚は長年釣られずそこにいた。


その主魚はなぜ人に釣られず長年池に住み続ける事が出来たのか?




ありていに言ってしまえばこの主魚、物凄く臆病で人の前に姿を現した事が無く、なんなら仲間の魚にもあまり顔を見せる事が無かった。




他の魚はドンドン人に釣られていってしまって何日も同じ顔を合わせる者など誰もいなかった。


エサがあからさまに食べてみろと現れてくると大体の魚は何の警戒心も持たず食いついてしまって南無阿弥陀仏といった様相が日常茶飯事。




ところが主魚はそんなものには目もくれない。警戒心が強いのもあるが、元々それほど食に関心がなく、たまに川底のプランクトンなどをモソモソ食べる程度なのだ。




この主魚なぜこんなに変わった魚になってしまったのか、それは稚魚の頃に親魚が釣りエサにかかって人に持っていかれるのを目と鼻の先で見てしまったためだった。


そんなものを見てしまったらもうエサらしいエサを食べるのに強い警戒心もってしまっても仕方がないというもの。


だが何も食べないというわけにもいかず、川底のプランクトンをパクパク口にするのだったが、そのうち川底から移動するのも煩わしくなり、大体川底に生息する事になっていったのだった。




人で言ってしまえば引きこもりに生活に近いかもしれない。


人であれば生きていく為にある程度は活動をせねばならないのだが、、、


しかし魚であればエサさえ確保できて危険な者に近づかなければ何とか暮らしていけるようだった。


同じ引きこもりであるならば、人であるか魚であるかどちらが幸せなのだろうか。




この世に生を受けてしまった以上は人であれ魚であれ大変ではあるだろう。


特に人や魚ならば個体では弱すぎて集団で生きるのが自然というもので、単体でいる時間に孤独感という形で自分で自分を苦しめてしまうものだ。


孤独感、それは単体でいる事に対する危険信号であり本能のようなものだ。




しかしこの主魚は面白い事に一匹でいる事を止めない。


一匹でいる恐怖より人に釣られる恐怖が勝ってしまった為にこの池で長年生き続け、池の主となったのだ。


まるで親が天国から子を見守ってるかのような話である。




少し話を戻すが人の世もある種このような所はないだろうか?


臆病者の方があれこれ危険から遠ざかって長く生きる事につながる。「臆病も才能」といった所か。




しかし視点を変えると1つ問題らしいものも見つかる。




たとえ長く生きれてもそんなビクビク生きる生涯は楽しいのだろうか?という点だ。


どちらにせよそれは性格のようなものだから直す事は出来ないのだが、これは言わば辛い時間が長く続く「生き地獄」という風にも見て取れる。




今日も子供達が池に釣りに来ているようだ。


いっその事、あの子供達の垂らす釣り糸の餌食になった方が楽なのかもしれないが、主魚は生きる本能のために今日もあたりの様子を伺いながらガタガタ震えるのであった。




生き残る為に苦しみ続ける、こんな皮肉な事があるだろうか。


人も魚もまだまだ進化が足りないようだ。

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