第40話
卒業式当日。
式当日は、春の陽気に包まれた快晴となった。いつもと同じ時刻にホームに立ち同じ車両にゆられる。通学もこれで最後。
電車の中でオーロラの『ギヴィング・イン・トゥ・ザ・ラヴ』を聴きながら、流れ去っていく眺望に名残惜しさはない。直の目線は、もっと遠くの景色を眺めていた。
校門、生徒玄関口、階段、廊下に沿って教室が箱のように並ぶ。改めて思った。——学校がずっと嫌いだったと。その反面、青春を謳歌する同級生や後輩が羨ましかった。
自分もほかの女の子のような『女子高生』になりたくて、皆にくっついて歩を合わせた。憧れだった恋もしたかった。
けれど直が初体験した恋は、彼女の想像を絶するほど苦痛をともなうものだった。恋人と触れ合うことで、自分の精神が壊れていく感覚を身につけて絶望した。
直は、音也からあれだけのことをされても、いまだに自分に落ち度があると思っている。もっと早く自分が無性愛者だとわかっていれば、音也を失望させなかったのではないか。そう罪悪感を抱き続けている。初恋は、直にとって一生忘れられない傷になった。
・・・
卒業式はつつがなく厳かに行われ、最後のホームルームが終わった。騒がしく生徒たちは別れを惜しみ合っている。
最後に教室の風景写真くらい撮りたい気もしたが、ほかのクラスメートが騒いでいるのでやめた。直はスマートフォンを取りだす。いつのまにメッセージが届いていた。
(卒業したね。おめでとう)と真から。
彼から届いた『卒業』の二文字を見て、この日、もっともよろこびを感じた。
(ありがとう。もう全部終わったよ。今から帰る)
きょうは、帰宅してから真と会う約束。雅と健次郎も一緒になって、カフェでケーキパーティーをすることになっている。
(いまどこ?)
そう真からすぐに返信がきた。
(教室だよ)と打ち返す。
すると(待ってる)と真から即レスされた。既読した直は、早く家に帰りたくなって教室をあとにした。階段をおりて廊下を歩くと、なにやら昇降口付近が騒がしい。
「ねぇ、みてよあの銀髪」
「すっご、存在感やば。誰か待ってるよね?」
——いま、銀髪って聞こえたような。まさかね。
自分が真に会いたい思いを焦がしているせいだ。直は気のせいだと思った。
ローファーを履く。生徒玄関口の壁にある鏡を見た。上下黒のブレザー。ひだのスカート。真紅のリボン。もうこの服ともサヨナラだ。
「ねぇ、あれってさ。たぶん教育実習きてた人じゃないの。ほらえっと、名前なんだっけ?」
直は、真横で会話していた女子高生達に勢いよく顔を向けた。
「うっそ。だって地味な黒髪でダサメガネって人でしょ? 名前なんだっけー」
——『はやく、よんで』
彼の声が頭の中に響いた。
「真っ!!」
直は、声を張りあげた。同時に飛び出していく。
「真!!」
息急き切って駆け抜けていく。
本当に真がいた。校門の内側の壁面によりかかって、ポケットに手を突っ込んでいる。
——カッコつけすぎだ。と直は思った。
直が来ると、真は姿勢を起こして近寄った。ふたりは互いの黒目が引きよせられたように見つめ合う。
「なにしてるの。ばか。なんで、その髪で来たのっ」
「直がすぐ僕を見つけられるように」
「みんな見てたでしょ。先生たちにもバレちゃうよ」
「バレる。なにが? 僕は、ここの教員となんの関わりもないんだけど。君を迎えに来ただけだよ」
いつもと同じ真の声をきいて、泣きそうになる。直は目を潤ませた。
「……わかってるよ。わかってるから。だから私も名前を呼んだんでしょ」
「びっくりした。直があんな大声で呼ぶと思わなかったから」
「自分でもわからないよ。そうしたかったからそうしたの。ただ、気持ちがひっぱられて」
「それ、アトラクション」
「え、アトラクション?」
「『引力』だよ。 本来は『魅力』って訳すけどね。直がずっといってたのは、ロマンティック・アトラクションのことだよ」
「
「そう。僕たちのあいだに、セクシュアル・アトラクションはない」
なにそれ、とこぼした直は口元がゆるんだ。あとでメモする。と直がつぶやくと、真もクスッと笑った。
「まってよ直!」
名前を呼ばれてふりかえると、美結だった。そして脇には優香、真希、そして数名のクラスメートもいる。
「すいません。あなたは、直の彼氏さんですか?」
「ちょっと、優香よしな!」とでしゃばった友を止めたのは真希だ。
「そうだよ」
真があっさり答えると、その場から小さな悲鳴があがった。だがこのとき、誰よりも驚いたのは、ほかでもない直だった。——そうだ、卒業したから……。
「つまり、あなたも無性愛のひとなんですか?」と優香は確かめる。
「そうだよ」
同じくためらいのない返答だった。
「ていうか。前に実習にきてた夜部先生? さっきそこでそういってる子たちいたんですけど」
それを耳にした美結は、一瞬にして目の色が変わった。カッと真をねめつける。
真は、「さあね」と優香の質問に少し頭をかたむけた。だが否定しない答えは、「そうだ」といっているに等しかった。
「直と夜部先生が恋人同士って……なんでよ!? どゆこと!?」
「信じられない。直の彼氏って大学生!?」
「これってどうなわけ」
「でもべつにたいした歳の差でもなくない?」
混沌とするその場からは、好き放題の発言が飛び交う。
そうこうするうち、直と真は数十名の野次馬によって円形の中心へ包囲された。直は、恐ろしくなって肩を縮こめた。
「すみません。教えて欲しいことがあります」
大人びた声をあげたのは美結。冷静沈黙な声色は、あたりを粛清した。皆は静まり返る。
「あなたは、本当に直のことを恋愛対象として見てるんですか?」
「……それは、どういう意味?」
「本当に直のことが好きなんですかってきいてるんです」
「好きだよ。……それで?」
真と美結の張りつめたやり取りを周囲は息をひそめて傍観している。美結の口調は強気だった。
「性愛抜きの恋愛が本当にあり得るって。あなたはどうやって私たちに証明できますか?」
「君は、なぜ証明してもらいたいの?」
「もし、遊びだったなら。あなたが直に変なことを吹きこんだ張本人だったとしたら。あなたは罪深いと思うんです」
「美結、ちがうよ」と直は口をだす。しかし美結は直ではなく真と会話を続けた。
「あなたが、直に普通の恋愛をできなくさせたんじゃないんですか。この際はっきりいいましょうか。つまりあなたは、無性愛について教えることを口実にして直に近づいた。そのあと
「美結やめて」と友人の元へ走りだそうとした直の腕を真は強くにぎった。彼が直の腕をつかみ、行動を思いとどまらせたことは今まで一度もない。思わず真の瞳をのぞきこんだ。直は真のそばへ戻った。
すると、野次馬にまぎれていた男子が調子のよい感じで口を挟んだ。
「結局、無性愛ってよくわからなかったんです。お兄さん、性欲がないとかマジすか? それって。すごくいいにくいんすけど。男として健全さに欠けてるって不安に思いませんか」
「無性愛であることは正常だよ。人間が健康であるために性欲も性行為も必要ない」
真がはっきりいい返すと、相手は目を泳がせた。
すぐにその隣にいた別の男子が便乗したように質問を重ねた。
「……じゃあ、無性愛者になろうと思ったきっかけは?」
「無性愛であることに選択の余地はないんだよ。同性愛者が自分の意志で自分を同性愛にしているわけじゃない。それと同じだ」
真は受け答えに迷いがない。
今度は優香が発話した。
「でも、医者とかー。ちゃんとした専門家の治療を受けたら気持ちが変わるかもしれないし」
「病ではないから治療は必要ない。いったい、なにを変えるっていうんだ」とやや嫌悪の色を浮かべて真は優香をにらんだ。優香は、真希の腕にしがみついて、おとなしさを装った。まるでバトンタッチのごとく、優香の隣にいた緑川という女子学生が真に反論をする。
「性欲の欠如した状態や低性欲状態は、医学的な観点からみて健常者とはいえません。治療も考慮すべきでは。食欲と睡眠欲に準じて、性欲はあらゆる人に共通の本能です」
そう述べて緑川は片手でメガネを触った。
「そう書いてあった参考書は燃やすべきだ。早急に。君の知識は少なく見積もっても十年以上は遅れているよ。性欲欠如の議論に無性愛を当てはめるのは、完全にカテゴリーミステイクだ。"DSM-5"を参照してみなさい。『無性愛は低活発性性欲求障害から除外される』、と書かれてあるから」
「……それって、米国精神医学会の精神障害の診断と統計マニュアルのことですよね。世界中の医師や精神医療関係者が、診断を下す時に使うやつ……。そこに病気じゃないって載ってるの? じゃぁ、病気と考えるのは不適切ってこと……?」
「その言い方は間違いだ。診断マニュアルに『病気ではない』と書いてあるから、無性愛が病ではないんじゃない。最初から無性愛者は健常者と同じだ。それがちゃんと認識されるようになったから、その本に『病気ではない』と書かれるようになったんだよ」
「ちょっとちょっと、さっきから、なに話してるのかわっかんないよ! 全然意味不明」と優香がふたりの議論に横槍を入れた。
「もう、無性愛の人に性欲がないってことはわかりましたから。それが正常ってこともわかりましたから」
優香は甲高い声で勝手に結論をまとめてしまった。
「だれが性欲がないっていった。無性愛者もポルノ消費するし、自慰行為するんだよ。君は、『わかった』という言葉を安易に使わないほうがいいよ」
「はあ?」と優香は一瞬片方の口角を上げた。すかさず真希が、ちょっと、と腕を引く。
そばで見ていた直は、真の声色に非情な冷たさを感じ取っていた。感情的ではなく、むしろ極めて理性的な印象で。それが、かえって相手に冷たい印象をあたえる。
——いま真は、とてつもなく怒ってる。
そのことが直にはわかる。やがて皆言葉が尽きて静まりかえった。
するとその場の静寂をクラスメートのひとりが打ちやぶった。とある男子生徒だった。
「つまり。できるってことですか? 例えばキスは?」
「『できない』っていってるんじゃない。それには『興味がない』っていってるんだよ。それのどこが問題なの」
「相思相愛のふたりがキスしないって不自然じゃないですか。日向はしたいのに、あなたのために我慢してるんじゃないんですか」
それを聞いた直は、発言した男子をにらんだ。手の平をにぎりしめて力を込める。殴りたいのを我慢する。もどかしくて、なにも言葉を返せないでいると、真が落ち着いた低い声で返した。
「僕達の関係性は、禁欲とは無縁なんだよ」
「だから、それを証明してくださいよ」
凛々しい声でそういったのは美結だ。真を恐れない、よく通る声が注意を引いた。
「無性愛者もキスできるんでしょう。ならしてください。いまここで」
「君、僕の話きいてた?」
「聞いてましたよ。あなたこそ。私の質問の意味わかりますよね。逃げるんですか」
「逃げる?」
「あなたが無性愛だってことは認めてあげる。でも、直まで一緒にしないでよ。直はちがう。あなたは、直を洗脳してる」
これは、めちゃくちゃだ。美結の弁論に耳を覆いたくなった。直の知らない美結を垣間見ているようで悲痛を感じる。
「美結、誤解があるの。私がずっと一方的に好意をもってたの。先に好きになって、大学までおしかけて。しつこくつきまとって、告白したのは私のほうなんだよ」
直の暴露にその場がざわついた。真は、少し不安げな目で直を見た。
「つまり。あなたが、直にそういわせてるんじゃないんですか?」と美結が腕を組んだ。
優香も「そうだよ。直がそんな大胆なことできるわけないじゃん!」といった。
そして隣の男子が呟いた。
「音也と別れてすぐだろ。ひっで。日向って軽い女だな」
その発言に、真は殺気だった。手加減しない目つきで鋭く男子学生をにらむ。まわりの生徒達までも、ビクッと一歩うしろに下がったほどだった。
「ねぇ、どうしたんですか。キスしないんですか」
ただひとり美結は、真の意識をあえて引いた。
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