第39話

 黒木は心配したような声で「おかえり。ありがとう」と真にいった。

 

「もしかして、事務局でなんかあった? 時間がかかってたようだけど。夜部なら三分で戻ってくると思ったんだよ」

「あぁ、ちょっと途中で色々あって。荷物とは関係ないですから」

「悪いね。でも助かったよ。日向さんにも手伝わせてしまって」

「私は、ぜんぜん」と黒木にいい返してから、直は真の顔色をうかがった。そこはかとなく、重苦しい目元に気がついた。深く考え込むような彼の黒目だ。


「真、大丈夫?」

 直は心配そうに訊ねた。

「あぁ、なんでもないよ。それで黒木さん。これ、文献ですよね」

「そう。アメリカから取り寄せたやつ」と黒木はテーブルの上に置くように真へ指示した。開けていいよ、という。

 

 真はカッターを使って開梱した。開封すると中から英語の書籍がたんまり出てきた。

「すごいね。全部、丸汐先生の?」と直が声を弾ませる。

「あぁ。というか、うちの研究室のね。研究費用で買ってるから」と真は本を手に取っていった。

「全部、性的マイノリティに関する研究書籍だよ」 

 そう真がいうと、直は飛びついて段ボールの中をのぞき込んだ。

「無性愛の本もある?」

「もちろん。僕たちの研究には海外の文献資料が必須だよ。まったく、少しは英語力を鍛えておいてよかったね」

 

 ——つまり。受験のためだけではなかった。直は、真がチューターを引き受けてくれた理由がこの先の未来を見越してのことだったとようやく気がついた。

 

「あ、黒木さん。これ領収書です」

 同封されていた紙切れを真は手渡す。フォントの小さい英文の書類である。黒木は受けとって一読すると、かすかにちっと舌打ちした。


 結局その日、直は丸汐に会うことは叶わなかった。そして、事務局へ行く途中で真になにがあったのかも……。

 

 ・・・

 

 真が数分で往復するはずだった場所は、研究室からそう遠くない。合格発表の掲示板に群がる人混みの手前のオフィスビルだった。  


 ——約三〇分前。真がキャンパス内の通りに出ると、彼のゆくてをはばむように前方に人影があった。

 直と同じくらいの背丈で、あご下のボブカット。切りそろった前髪が凛とした目元を際立たせていた。


「私のこと覚えてますか?」

「覚えてるよ。驚いたな。こんなところで会うなんて」

 真の穏健な口調とは反対に、彼女はにらみつけている。

「よく、僕のことがわかったね」

「正直、この目を疑いました。直が、こんな派手な男の人に連れていかれるのを見たんだもの。それが、あなたの本性ほんしょうなんですか?」


 彼女は、不審なものを見るような顔つきで真の銀髪を見ている。


「どうやら、僕は君からよほど敵視されてしまったみたいだね」

「私は、市川美結といいます。直とは三年間ずっと同じクラスです。私も、この大学に合格しました」 

 

 真は「おめでとう」と答える。

 美結は「心理学部です」といった。


「そう。よかったね。ここの心理学部は、名誉ある先生ばかりだから積極的に指導をあおぐといいよ。とくに、久城くじょう教授とかね」 


 あうだこうだいっている真を、美結はさげすむような眼差しで見ていた。

 

「私、あなたを許しませんから」と真に告げる。そして、一層言葉に力をこめた。

「直をかえせ」


「私の《・・》、直?」と真が静かにいい返す。

「……あなたは、なにをいってるの?」

「君は、直のことが好きなんじゃないのか」

「……そうです、好きよ。だって、親友だもの」


 真は、美結の頑固に据わった目つきをじっと見返した。一歩も引く姿勢をみせない。

「私はあきらめません。直をあなたから取り返すつもりです」

「彼女は、君のものにはならないと思うよ」

「あなたのものにもなりません! 絶対にわたすもんかっ」 


 そのとき、真は美結の瞳が水分で満ちていることに気がついた。彼女の下まぶたから、いまにもこぼれそうな涙を見た。次の瞬間、美結は身をひるがえして去った。真は彼女の背中を目で追う。しかし人混みの中へ消えてしまった。

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