第38話

 

「ヤバい。今まで生きてきた中で一番緊張してる……」

 

 受験生たちの悲鳴と歓喜が入り乱れる雑踏の中を、直はひとりで立ち尽くしている。紙切れを持つ手は祈るように力が入っていた。全然視線が持ちあがらない。恐怖心に打ち勝てず、目をつむった。


「だめだ……こわい」 



「二〇一〇。あ。あった」 



 ——あれ。それは、自分の受験番号のはずでは? 


 なんとも軽々しい口調で、さらりと合否を口にしたのは真だった。忽然と隣に姿を見せた彼に面くらう。直は、口が半開きの状態でふさがらない。

 

「よかったね。おめでとう」 

 なぜ、彼はここにいるのだろうか。第一、さきんじて合格を見つけてしまうなんて。と、二重のサプライズに直は声がでない。

「直前はどうなることかと思ったけど。まぁ、見込みは十分あったんだし。当然の結果じゃないの」といって直に顔をむけた真は、ぽかんと首をかしげた。

「ねぇ、さっきからどうしたの?」

「こっちのセリフだよっ。なんで私より先に見ちゃうのぉ」

「直がいつまでたっても見ようとしないからじゃないか。こういうのは、案ずるより産むが易しだよ」

「ていうか、いつからいたの!?」

「ついさっき」

 感動を返せ! といいたくも、直は本音では真に感謝している。たったひとりで合否を確認するのは心細かった。


「ねぇ、真。いままで本当にありがとう」

 直は、あらたまって真に謝辞を伝えたが、彼は口角をあげて「もういわなくていいよ」と返した。

「それに、きょうは研究室に用があってきたんだ。君の合格発表はついでだよ」と補足する。

 むっとしてふくれた顔をした直は、真を上目で凝視した。すると彼も瞳をのぞきこむように近づいてきた。

「早くお母さんに連絡しなよ」 

 そういった声色は温厚で優しかった。真に促されて母に電話をかける。自分の口から便りを知らせると、涙がこらえきれなかった。合格の二文字にようやく実感が湧く。

 

 ・・・


「今日はすぐに帰るの? ちょっと研究室寄ってく?」

 電話を切ってから、真は直にたずねた。

「いいの?」

「久しぶりでしょ」

「うん、いく!」



 約半年ぶりに研究室を訪れると、黒木がひとりで書類整理に従事していた。丸汐は、例によって会議に出席中だそうだ。

 

「試験の際はお世話になりました。無事に合格しました」と、直は黒木に報告をする。

 

「おめでとう。よかったですね」

 そういって黒木は口元を引いたが、作業する手を止めない。

「大変ですねー、まいどまいど」 

 真は、ぼそっと黒木に声をかけた。黒木は、新年度をむかえる前に丸汐教授の書類整頓をしているという。シュレッダーにかけるものと、保管しておくものを有能な助手は迷いなく判別していく。

 

「来たばっかりで悪いんだけど、ちょっと出てもいいかな。さっき事務局のひとから郵便物を引き取りに来てくれって内線があってさ」と、黒木はいった。

「僕でよければいきますよ。書類整理は黒木さんにしかわからないでしょう」 

 気を利かせて真はそう進言した。直は、興味津々で黒木の反応をうかがう。すると渡りに船を得たといわんばかりに、「わるいね。たのむよ」と即答した。

「すぐ戻るから、直はここで待ってていいよ」

 声をかける隙もなく、真は研究室からいなくなった。取り残された直は、せっせと手を動かす黒木をまじまじと見た。


「日向さん、かなり緊張していたでしょう。試験のとき」

 黒木は穏やかな声で直に話しかけた。直は、「はい」とうなずく。

「でも監督官やってる丸汐先生を見たら、少し緊張がやわらぎました」

 そういうと、黒木は歯を見せてくすりと笑った。すっと通った秀麗な目鼻立ちが引きたった。直は、彼の横顔をぼうっと眺めた。


「先生も聞いたら喜ぶと思うよ。ただ、会議が長くなるかもしれないから、無理して待ってないほうがいいかもしれない」

「大学の先生ってたくさん会議をするんですね」

 直は黒木の仕事の邪魔をしないか気にかけながら声をかけた。

「あのひとの場合、そういう役回りというか。そうやって僕たちの顔を立ててくれているところもあります」


 ——それは、どういうことだろう。

 意味深ないいかただと思いつつ、深入りしなかった。かわりに、直は別の質問を投げかけた。


「話がかわるんですけど……黒木さんに訊いてみたいことがあるんです」

「僕に? なにかな」

「無性愛者同士のカップルをどう思いますか」 

 直が質問に対して、黒木は動じることがなかった。彼は淡々と答えた。

 

「僕が思うに、無性愛のパートナー同士は、性的魅力や肉体的な親密さに焦点をあてることなく生涯を共有することが可能です。彼らのあいだには、深い献身関係と愛情があるんだと思うよ。日向さんは、どう思う?」

「……私もそう思います」

「ですがしばしば、その絆を虚偽だという人たちもいます」

「どうして、そういうんですか?」

「『性的なコミュニケーションこそが恋愛関係の中核をなしている』と、大多数の人間がそう考えている。と、いえばわかるかな」

「はい。わかります」

「でも最近は、無性愛同士の関係にフォーカスした研究も目立ちますよ。性的スキンシップが欠如しているにもかかわらず、無性愛同士の恋愛関係は、なぜか長期的に長続きする傾向にあることがわかっています」

「そうなんですか」

「ただし、なぜなのか・・・・・……。その理由までは、研究が行き届いていないのが現状ですね」

 話をきいた直は、黙り込んで考えていた。無言になった彼女を一瞥した黒木は、それ以上の言葉をかけなかった。


 しばらくすると、直は唐突に声をあげた。

「あのっ。なぜなのかを私は知りたいんです。大学に入ったらその理由を考えることは、私にできると思いますか?」


 潤んだ切実な瞳を黒木にまっすぐむけた直は、少し気持ちがたかぶっていた。ぴたりと手をとめた黒木は彼女の眼差しを見返した。


「あなたがそれを望むなら」


 黒木は、落ち着いた声で答えたが、すぐにポーカーフェイスが崩れてふっと笑った。


「そうだな、まずは日向さんにとってのインテマシーを定義してみたらどうかな」

「え、インテマシーって?」 

「愛する人との密接な関係において、あなたが絶対に不可欠だと考えるなにかがありますか? それがインテマシーです」 

 直は、「うーん」と天井に目線をむけて考える。黒木は、彼女のために詳説を重ねた。

親密性インテマシーは、感情的、肉体的、精神的にパートナーとつながっているために必要で重要なことです」

 

「安心感……かな」

「ほう。なるほど」

「性行為が私にとって親密性を意味しないことは確かです」

「それはそうだ」と黒木は微笑した。


 そのあとも戻ってこない真を待ちつつ、直は黒木を手伝った。真が姿を消してぼちぼち三〇分以上がたったころ、研究室のドアが荒っぽくノックされた。 

 背中を使って戸を押し入室したのは真である。彼はひとつの段ボールを両手でかかえて戻った。物腰から察するに重たいものが入っているようだ。

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