第35話
スマートフォンのアラームで目が覚めた。
直はカーテンの隙間から暁の空をかいまみた。東向きの日当たりのいい部屋には、一階でも朝日が差しこむ。上空は夜のように漆黒を残していて、地平に近づくにつれて夜明けを知らせる光芒がてっていた。
直は、部屋の窓から夜と日の共存する空を見ていた。
着替えを済ませて部屋のドアを開け放す。すると、すでに電気が煌々としていて真の姿はキッチンにあった。
「……おはよう」と直は真の注意を引いた。
「おはよう。眠れた?」
「うん。本当にありがとう」
「そう。よかったね。洗面所、使うでしょ? いっといで」と真はあごで方向を示した。直は、首をたてに動かしたが、すぐに鼻をくんくんさせて眉をしかめた。
「え、ご飯。炊いたの?」
「やっぱり炊きたてのほうがよろしいかと思いまして」と彼はわざとらしい敬語で茶化した。
「ありがとう。うれしい」
身支度を整えて台所へやってくると、まず直は卵焼きを焼いた。ブロッコリーをゆで、ミニトマトのヘタをとる。食材はすべて、真が用意しておいてくれた。おかげで直は普段どおりの弁当を準備することができた。最後は、おにぎり。真も昼食に食べるというので一緒ににぎることにした。
「真のにぎったおにぎりが食べたい」と、直はまだ少し湯気ののぼる白米をみていった。
「大事な日に慣れないもの食べないほうがいいと思うよ」と真はシンクに手をついていい返した。
「でもね。そのほうが元気でて、勇気が湧くの……だめかな」
元気のない様子の直は、眉間がこわばっている。それを見た真は「わかったよ。じゃあ、直は僕ににぎってくれる?」と提案した。
直は、真のためにいつもより大きめのおむすびをこしらえた。そのあと、朝食をとって彼の家をでた。
「天気予報はずれたね。あんま寒くないし」
マンションの駐車場で直がいった。
「そうだね。雪にならなくてほんとによかった」といって、真はバイクにキーを差しこむ。
「昨日もいったけど、校内立ち入り禁止だから近くでおろすよ。長く路駐できないからね」
試験当日は、真が普段バイクを止めている学生用駐輪場も封鎖されるという。直は、いまここが最後のチャンスになると思った。
「本当に、いままでありがとうございました。がんばります」
実直な言葉を受けとった真は直に少し顔を近づけた。
「敬語はよしてくれ。でも……うん。いまのは素直に受けとるよ。僕も最後にいい?」
直は、黙ってうなずいた。
「どんなことが起きても、あせらないで。絶望しないで。持てる力をすべて出せば結果はついてくる。いままで君は、それくらい頑張ったんだよ」
「……うん。おまもりとおにぎりありがとう」
「帰りを待ってるよ。頑張れ」
よし、といって口元を引いた真はエンジンをかけた。
道路は空いていて、あっというまの速さで大学に近づいた。正直にいえば、直は真の背中から離れたくなかったが、すぐに別れの時がおとずれた。
車道の脇にバイクが停車して、地に足をつける。ヘルメットを返して「ありがとう」とやや大きな声で伝えた。互いのひじとひじをタッチしたあと真は直の視界から遠くへ消えた。
*
これは直にとって、はじめてづくしの受験体験。だが、もうなんべんも大学校内を訪れていたためか、案に相違して直は落ち着いていた。
直は、試験会場で丸汐が監督官を務めているのをみて仰天する。黒木の姿もあった。あちらも直に気がついている。
黒木と視線が合ったとき、彼は一瞬ほころんだような気がした。ふたりと会話を交わすことはなかったが、彼らを視界にいれると気が紛れた。
・・・
昼休みは安堵と疲弊とが併存する。真が小さめににぎってくれたおにぎりを食べる。直は少しでもリラックスしようと音楽をきいて気持ちを切り替えた。
「私は大丈夫だよって証明する歌……私の中には、まだたくさん力が残ってる」とぽつりと声にしたのは、レイチェル・プラッテンの『ファイト・ソング』の一節。
そのプレイリストは、真によって定期的にアップデートされていた。ふと、彼と交わした最後の会話がよみがえった。直は、お守りを取りだして握りしめた。
・・・
——午後三時半過ぎ、試験はすべて終了。大学の正門をくぐって出ると、解放感に満たされて直の頬はゆるんだ。
すぐに入院中の母へ無事試験を受けたことを知らせるメッセージを送信した。真にも一言送ると、(おつかれ)と返信が届いた。これからマンションへ戻ることになっている。
駅のホームで電車を待つあいだ、昼休みの続きの音楽を再生した。イントロが流れると直はハッとした。
それは、ユーツーの『ソング・フォー・サムワン』。真の好きな曲だ。クリスマスのころ、臨海公園を訪れた時に、イヤホンを半分こしてふたりで聴いた。
理由はわからなかったが、聴いているうちにのどの奥になにかが詰まったように痛くなった。息苦しい理由は、マフラーをしっかり巻いているせいではないようだ。しだいに直の見る景色はにじんでいった。帰る力が突然奪われたに体が重たくなっていた。
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