第36話
最寄り駅からは、頭痛をともないながら歩いた。どうにかマンションにつき、インターホンを押す。
「直、おかえり」
真がドアを開けて出迎えると、直は我慢していた気持ちがあふれだした。突然泣き出した直を見た真は、よもや凶報を受けとったと勘違いをする。しかし彼女が「力を出しきったので悔いはない」とはっきりいうと、労いの言葉を贈った。
「君の口からそれをきけてよかったよ。よくがんばったね」
「うん。おにぎり。おいしかったよ、ありがとう」
「こちらこそ。卵焼きも美味しかったよ」
「いつもとおんなじだよ」
「それが一番さ」
「……うん。……そう、だね」
最後のほうで、直の呂律は少し不自然だった。
リビングまでやってくると、直はひざの力が抜けたようにその場に倒れ込んだ。床に体を打ちつけた彼女のもとへ、真はすぐに駆けよった。
「直!?」
「大丈夫だよ。ちょっと気が抜けただけ」
真は、直の肩を抱いて上半身を支えてやった。が、彼女の体は水から打ちあげられたように重くぐったりしている。
「なにが『だいじょうぶ』だよ、たぶん熱あるよ」
直のひたいに手を当てた真がいった。
「大丈夫」と繰り返して立ち上がると、今度は激しいめまいが直を襲った。自力で立っていられず、再びひざまづいた。
「あれ。変だな。さっきまで。なんともなかったんだよ。急に」
「直、しゃべらないで。とにかく休もう」
「あのね、真。英語のテストで読んだ話があるんだけどね……」
つべこべと話を止めない直に真は声をかぶせた。
「わかったから、今はもうなにも話すな」
すると直は目を閉じてしまった。真の側からすると、気絶したようにも受けとれるほど、一瞬のうちにスッと眠ってしまった。
・・・
——目をつむると暗闇に支配されるように。ちょうどそれと同じように。なにも見えない世界の中にひとりでとり残されているようだった。
「ナオ……」
自分の名前を呼ばれた気がした。
母の声ではなく。低く淡い声で、誰かが何度も名前を呼んでいると思った。
その声を聴くと、どうしようもないくらい慕わしくてたまらなくなった。
誰だろう。
名前も顔もわからない。でもこの声が、恋しくてたまらないのはどうしてだろう。
私は大好きなこのひとの名前を思いださなきゃいけないんだ。
それなのに……。
『名前で、よんでみてくれる?』
わかってるよ。いまよぶから。
『はやく。よんで』
だめだ、名前がでてこないよ。
『聞こえない』
待ってよ。行かないでよ、行ってしまわないで。お願い、今すぐ思い出すから……。このひとの名前は、名前は、……
——「マコト……」
彼の名を呟くと、直の目尻から涙が一粒こぼれた。伏せたまぶたが持ちあがり、視界が開けると、眠りについた時と同じ部屋の天井が見えた。
胸に抱きしめていたのは、紫色のドラゴン。彼の美しい銀髪と同じ銀色の角と翼……。
「マコト」
そのぬいぐるみに話しかけた。あいらしいドラゴンの目とビックスマイルに直はほほえみ返す。ところが、雷に打たれたように飛び起きた。
「やばい! 受験。きょう、試験だよ!」
つまるところ、彼女の脳内時計は完璧に巻き戻っていた。
「まったく、あきれるよ、ほんとに」
部屋のドアが開いていた。声のするほうへ目を向けると、壁に寄りかかって腕を組みながら真は立っていた。
「えっと。これは、デジャブ? それともドッキリ?」
「顔、ひっぱってみれば?」
直は、右頬をつねって引いた。
「いたい! なんか、こんなこと前にもあったような」とつぶやいて、ようやく彼女は自分の服に気がついた。
「そうだ。私、帰ってきて頭が痛くなって倒れて。それから……それから」
「よかったよ、思い出したなら」と真はため息をついた。
直は、部屋の時計を見て肩を持ちあげた。
「私、こんなに眠ってたの!?」
「帰るなら朝にしなよ。もう一晩泊まっていくんだね」
「いいの……?」
「しかたないじゃないか。それだけ大変なことをしてきたんだ」
「迷惑かけて、ほんとごめん」
「迷惑とは思ってないけど、熱が出てたようだから心配」
「うーん。もうさがったよ」と、彼女は前髪を持ちあげた。
「うさんくさ」
「燃え尽き症候群だあ。いままでずっと気を張ってたから」
「だろうね。食欲は?」
「……いまはあまり食べる気力が湧かない」
しかし言葉と逆に、ぐるると腹部が鳴った。どうやら空腹ではあるよう。下腹部を抱いて下を向いている直に、真はふと持ちかける。
「いらなかったら、正直にいってほしいんだけど。おかゆ作ったけど。食べる?」
冗談ではないだろうか。と思って直は真を見上げた。
「無理におすすめはしません」
押しつける感じではなかったことが、かえって直の食欲をくすぐった。
「ください」
ぼそっと返事をした。
ダイニングテーブルに着席した直の前に、余熱の蒸気が立ちのぼる白粥が運ばれてきた。一人前用の土鍋に入った粥は雪のように白く、真珠のように艶がある。レトルトではあるまい。と料理好きの直をうならせた。
「いただきます」といって、匙で掬ってふうっと息を吹きかける。
率直に『美味しい』以外浮かんでこなかった。疲れ果てた身体にしみわたる優しい薄塩味と甘い米の味がした。
「……おみそれしました」
「おおげさだな。普通の粥だろう」しれっとして答える真である。
「なんか、手慣れてない? 料理しないって。まえに研究室で話してたよね」
「してる時間がないっていっただけで、できないとはいってない」
なんだ、そうだったのか。と心の中でつぶやいてまた一口運んだ。今度は目尻と口元がゆるんだ。
「本当にありがとう。すごくおいしいよ」
「そういえば、寝こむまえに、なにかいいかけてたよね。試験で読んだ英語がなんとかって」
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