第34話

 数分後。茫然としていた直は、やっと視線を動かしはじめた。真は目の前で、なぜかフローリングの床に座り込んでいる。


「真……ごめん」

 そういって、直は顔を両手でかくした。

「私、どうしよう。ごめん」と二度目をいったとき、「いわないで、大丈夫だから」と真は止めた。

 

「……ありがとう」と言葉が変わると、真は黙ってうなずいた。

 すると直は、身を縮めて体を小さくさせ「おなか……すいた」と小声でこぼした。聞き逃さなかった真は黒目を直へむけた。


「はぁ。もう」と深く吐いた真のため息は、あきれや嫌気のたぐいではなく、「いつもの直だ」と安心した感情がにじみでている。


「チョコ。食べる?」

 真が訊くと、直は頭をたてに動かした。彼は立ちあがり、キッチンのキャビネットを開け閉めして戻ってきた。

 テーブルに置かれたブラックサンダーミニバーはカカオ七二パーセント。直は無言で緑色の大袋の中から個包装を一つ取りだした。


『いただきます』もなく食し始めた。チョコレートに口づけをするように、ちまちまと少しずつ食べる姿は小鳥が餌をついばむみたいだった。

 と、のどにひっかかったのか、咳をして胸を叩いた。リュックからペットボトルを出して、水を一口飲んだ。ほっとしたのかと思えば、チョコのつづきに夢中になっている。どうやら、よほど空腹だったのに本人は気づいていなかったようだ。その様子を静観していた真は笑いをこらえた。


「夕飯、なに食べたい?」 

 再び直の向かい側に座った真が訊く。

「食材とか買ってくるよ。直は勉強していて」

 直はちょっと考えた。

「……あ。お茶づけ」

「え、それでいいの?」

「うん。最近、緊張で食欲がなくて。そればっかりなの。あと冷凍ご飯消費できるから」

 わけを聞いた真は、「なるほど」といい返して直のやつれた目元をじっと見た。その視線に彼女は気がついていなかった。

 

「米はあるから。めし炊きの腕には自信があるよ」と、真は鼻を高くする。

「それは、炊飯器の性能がいいからでは?」

 直は、まゆをよせて核心をついた。

「違うね。炊飯器のあつかいの問題だよ。君はスイッチひとつ押せば、誰でも同じように美味しく飯炊きできると思ってるの?」

「まぁ。たしかに」といいかけて、直の目は笑った。

「なぜ笑う?」

「ううん。なんでもないよ。ごめんね」 

 やっといつものように笑ったと思えば、彼女は目元の活気がみるみる抜け落ちた。

「真に……迷惑たくさんかけてしまった。本当にごめんね……私はどうしようもないね」と続けて、重々しい黒目をテーブルに落とした。これはどうみても情緒不安定。


 コンコン、とテーブルを指で小突く音にさそわれて、直はまつ毛をあげた。

「今夜は、早く寝たほうがいいよ。僕のベッド使ってもらいたいんだけど、それでいい? というか他に選択の余地はないんだけど」

「それじゃ、真はどうするの」

「そこで寝るよ。大丈夫、気にしないで」

 リビングのソファーを指差しながら、真はいった。

 

「でも、私は床でもどこでも……」 

 真は、無言で首を横にふった。直は、彼の厚意を察すると眉毛をさげて「ありがとうございます」といった。 

 

 

 真は寝室を見せてくれた。ベッドのほかに、勉強机や大きな本棚、衣装たんすとクローゼットがあり、どの家具も焦茶色のウォールナット製で統一されている。壁に世界地図がはってあった。

 棚には、鉄製の輪が重なった渾天儀、星座の描かれた天球儀、キネティックアートの太陽系の置物があった。ぽつんと置かれた白い宇宙服姿の宇宙飛行士のフィギュアは、二頭身であいらしい。

「天文学とか、宇宙に興味あるの?」

「昔の話だよ」

「この部屋、天井高いね」

「そうかな」

「ずっとこの部屋を使ってきたの?」

「あぁ。前も話したけど、小六のときにここにきたから」

 ——この部屋で。夜をどんな思いで。少年・真はひとり過ごしていたのだろうか。さみしいときもあっただろう。両親は、どれくらい頻繁に会いにきてくれたのだろうか。

 直が想像していると、獣のぬいぐるみと目があった。それは、ベッドの隅に放置されたように座っている。

 

「……ドラゴン?」と直は指でさした。

「あぁ、それは、小さいとき、父さんがくれたんだよ」

「真みたいだね」

「なんだそれ」

「ちょっと、似てるよ」

 銀の角と翼をもつ青紫のドラゴンは、大人も抱けるほどの一匹の猫くらいの大きさ。つぶらな瞳がまるで生きているかのように艶めいていた。

「『女の子みたいでおかしい』って、母親に捨てられかけたんだけどね。救出してきた」

「さわってもいい?」

「もちろん」 


 しっかりしたつくりの見た目とは裏腹に、肌触りがよくて滑らかで柔らかい。直はドラゴンの頭部から背中をなぞるようになでた。


「気に入ったならあげようか、紫好きでしょ」

「えっ、だめだめ。大切なものでしょ」

「べつに。愛着はそこまでないし。ただ、捨てられるのも、捨てるのも気が引けただけ」

「それで名前は?」

「は? ぬいぐるみに名前つけるの?」

「えっ、つけないの?」 

 真は、眉をさげて笑いながら首をかしげた。 

 そのとき、部屋の時計が視界に入って、直は「いけない!」と焦りをあらわにした。

「もうすぐ五時だ。はやく復習しないと!」

「そうだね。でもやりすぎは禁物」と、真は穏やかに忠告する。直は、リビングへもどり、持ってきてたノートや参考書を取りだした。



 ダイニングテーブルで最後の総仕上げを開始する。彼は買い物へでかけて戻ると、没我する直を静かに見守った。 

 心置きなく集中していた直だったが、ほどなく真にまったをかけられて食事をとった。彼が炊いた白米は、直も舌を巻くほどの美味である。冷凍した残りは、翌日の弁当にもらうことにした。

 

 食後も少しだけ勉強をしてからシャワーを借りた。翌朝の予定を確認しあうと、直と真はお互いに別れをつげた。 

 

 ・・・

 

「この部屋、あったかいな」

 真の寝室は、円形の暖色照明がひとつだけ宙に吊り下がっていた。

 直は、おそるおそる羽毛の掛けぶとんに触る。それは、驚くべきほど軽量だった。ベッドに横座りになると、一気に疲労感が背中にのしかかってきた。

 思えば、母と面会するために、朝から病院へいったのだった。母と話をした記憶を遠くに感じる。それから荷造りをして、真の部屋へ来て彼と話をして。ひどく長い一日だったが、本番は明日。

「お母さん……おかあさん」 

 直は、両手で顔をおおってうつむいた。落涙をとめられず、彼女は泣き続けた。戸板一枚と壁をへだてた向こうにいる真の耳に、彼女の泣き声がとどいていたかはわからない。 



 ——泣かないで。だいじょうぶよ。

 脳裏にこだました母の声。直は頭を持ちあげた。するとバイオレットのドラゴンが目に飛びこんだ。そっと取りあげて顔をよく見てみると、大きな口はにっこり弧をえがき、直にほほえみかけている。その夜、ぬいぐるみを抱きしめて眠った。

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