第33話

 その夜、直は眠れず、自室のほのぐらい天井を何時間も眺めていた。湯冷めしないようにベッドに入ったのに、つむじが乾風に吹かれているように感じる。首に巻きついた髪は冷たくなっていた。


 母の眠る病室は暖かかった。寒さに凍える心配がないと思うと安心する。

 けれど自分はという、眠もまともに取れない。夕飯は食べる気力すら湧かなかった。折りしも真から「なんでもいいから食べて」とメッセージがきて、なけなしの力でお茶づけを作った。

 担任の伊藤が、『あすは無理に登校しないで休んでいい』といっていた。

 

 直は明後日の大学入試を万全に乗りきれる自信がまったくなかった。同時に、これまでの努力を水の泡にしてしまう恐怖にひとりでおびえてがんじがらめになっている。

 

 布団から手を伸ばしてスマートフォンを手にとった。


(おきてる?) 

 真に打つと彼は即答レスした。

(おきてるよ)

(いま電話、したらだめ?) 

 彼の返事を待つあいだ、まばゆいブルーライトが直の顔を照らしていた。


 と、着信音。かけてきたのは真だった。

「……もしもし。ごめんね、夜遅いのに」

「べつに。気にしないで。起きてたから」

「あのね、お願いがあって……」

「いいよ」

「まだ、なにもいってないよ」 

 すると電話のむこうで、かすかに真は笑った。

 

「どうした?」

「あした、家に行っちゃだめ?」

「いいよ。こっちはもう春休みだからね」

「それで、泊まったら……だめ?」 

 

 真から答えはすぐに返ってこない。直は、「家でひとりでいたら、不安になってきて」とぶつぶつ重ねた。

「ひとり?」

「そう、ひとり」

「こっちは構わないんだけど。直、僕んち泊まりたいって、君はそれで本当にいいの? もう一度よく考えて」

 同意を確認されて、直は黙りこんだ。一分ばかり彼を待たせて答えた。

「お願い。ひとりはすごく怖いの。自信がないの。どこでも寝れるから、ぜったい迷惑かけないから……おねがい」

「わかった。そのかわり、全部支度してきて。次の日そのまま大学おくってくから」 

 

「おやすみ」をいって通話を切ったあとも眠れない。通話中に話したことは、すべて本心だった。それなのに、真のところに泊まることが決まって、いまさら漠然とした不安感にさいなまれた。


 ・・・


 入試の前日。直は、通学のリュックをせおって真の部屋を訪れた。肩からさげた手さげには、参考書やノートが入っている。時刻は午後三時だった。

 リビングにくると「昼は?」と真が訊ねた。「食べてきた」

「ほんとうに? 食べたうちに入ってないんじゃないの」

 肩に力が入って見える直の緊張を和らげようと、真は軽い口調でそういった。しかし直の視線はかたかった。

 

「今朝ね、病院いってきたんだ」

「お母さん、どうだった?」

「目が覚めて、少し話した」

「そうか」

「がんばりなさいって。なにも心配しなくていいって……」

「それで、直はどうしたいの?」 

 真の問いかけに、直はうつむいた。自分の内側を探るように思案顔になる。

「試験やる。そのために来たよ」

 椅子に腰かけて話していた直は、向かいに立っている真に上目でそう答えた。


「私のせいなの。私が甘えたから。だから、お母さん働きすぎて倒れてしまったんだよ」

「……直は、そんなふうに考えるんだ」

「そうだよ、だって」と、つぶやいて顔をあげた。声を張りあげる。

「高校入学してから、お母さん、いまの職場と別に薬局でも働くようになって。仕事を増やして大変そうなのをずっと知ってた。私は『バイトするよ』っていった。けどお母さんは、『大学生になってからでいいよ』って。『いましかできないことをやりなさい』っていい続けてきたの……それに甘えてしまった」 


 事情を聞いた真は、黒目が泳いでいる。彼は、そっと椅子の背もたれを引いた。直の向かいに座って黙りこんでいる。何かを考えるように。


「私は高校三年間ずっと、欲求不満のまま、周りに合わせて過ごしたんだよ。ただ時間をもてあまして。お母さんに申し訳なくて、さっき話したときは、うまく笑えなくて逆に心配かけてしまった」

 そう話しきったあと、直の視線はストンと床に落っこちた。


「ねぇ、直。君は夜中の電話で、家でひとり・・・だといったよね?」 

 

 直は返事しない。


「君の……父親はどこにいるの?」 


 直の下がったまつ毛は動かない。針でぬわれたような唇が解かれる気配も一向にない。まるで、置物のように動かない彼女を真はじっと見つめた。


 数秒して、真は異変に気がついた。直の呼吸が少しおかしい。


「すぐに死ぬ病気じゃないって。……でも帰ってこなかったらどうするの。お母さんがいなくなったらどうするの。それじゃ私は、受かったって意味ないんだよ……ひとりになってしまうんだよ!!」

 

 声を張り上げて、目を大きくさせて、直は泣いている。そして過呼吸になっていた。まるで、せまく深い井戸の深淵で、息たえだえと苦しそうにしているようだった。


 抜き差しならぬ様子を見た真は、座った状態の直の肩をそっと抱きしめた。

 すると直は、強い力で真の腕をふり払った。肩で息をする直は、胸に手を当ててうつむいた。

 真はもう一度、直を抱きしめた。今度は強く、しっかり抱擁したまま目を閉じた。やがて、直の張りつめた体は脱力した。

「うわあぁぁ」と声を出して直は泣きはじめた。


「ごめん。ごめんね直」  

 そういって真は、彼女の後頭部を手で支えた。もう片方の手で背中を優しくさすったり、とんとん叩いた。

 ごめん。と真は繰り返しつぶやく。

 上半身を重ねたふたりは、お互いの鼓動が同じくらいの速さになったころ、ようやく離れた。

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