第31話
日曜日。真と待ち合わせをしたその日は、真冬の寒さがやわらぐ暖かな昼下がりだった。約束の場所に十五分早く着いた直は、ひなたぼっこにうってつけのベンチに腰かける。
有線のイヤホンで音楽を聴きはじめた。真・作のプレイリストは、全曲お気に入り。ピンクの『トライ』を聴きながら広角パノラマの東京湾を見わたした。冬鳥は、列をなしてコバルトブルーの上空を飛んでいく。水平線はミラーボールのように光っている。凛と澄んだ空気が頬骨をなでたとき、視界にひとの手が飛び込んできて、たてに動かした。
真は、ベンチの背に手をついて高いところから直の顔をのぞきこむ。イヤホンをとって彼に上目をむけた。
「なに聴いてたの?」
会ったらまずなんといおうか考えていたが、先に第一声を放たれてしまった。口の開かない直を見て、真は静かにベンチに腰を下ろす。
スマートフォンとイヤフォンをしまってからも、直はしばらく無言をひきずった。
「このまえ、ごめんね」
直がかろうじて声にした言葉は弱々しい。
「もう、謝らなくていい。ただ、ちょっと驚いたんだよ。まさか走りだすとは予測してなかった」
「私も……足が勝手に動いたの」
「そうか」と彼は低くこたえた。
「話したいこと、あったのに。顔を見たら、急に話したくなくなって。どっちが本当の気持ちかわからなくなったら、逃げだしてしまった」
「直が自分の心を守るために、とっさに行動したことなら、なにも間違ってなかったんじゃないの。と僕は思うよ」
「でもっ、私はひどいことした!!」
直は押さえきれない感情を吐き出すように「全部、私が悪い。私の問題なのに。真はなにも関係ないのに。ただ、きらわれるのがこわくて……」といった。
「落ち着いて。ゆっくり話そう」と真は冷静な口調で返す。
「夢を、みてしまった……」
直は、その先をつまらせている。
顔色をうかがいながら、真は「いやな夢?」ときいた。彼女は、頭をかたむける。「わからない」というと手の平を握りしめた。
「キス……してた」
秘め事を明かすように、そっといった。
真は、釈然としない顔で「だれが、だれと?」と訊ねる。
「私が。真と……」
彼の顔を見ないで話す。直は真が視界に入らぬように神経を集中させた。
「……なんか……してた、色々。たぶんキス以上のこと。それ以上のこと」と、いうと体をそむけた。真の側からは、直の横顔すら見えなくなった。彼女のひざは、彼と反対方向を向いている。
頭を垂らしてうつむいた直は、下唇を噛んだ。どうしたらよいかわからず、猫背になって肩を落とす。まるで重大な試験に不合格をつきつけられた受験生のようである。
——笑い声がする。
気のせいだと思った。だが、ふふふっと笑い声が聞こえる。
「え、どうして笑ってるの?」
真は、前のめりになってうつむきながら、笑っていた。
あまりに予想外のリアクションで直は放心状態になっている。やがて真は頭を上げて、お互いの顔を見合った。
「僕と? あぁ、そういうことか」
直は、再び不安げな目元になった。「ごめんね」と繰り返す。
「直は、なぜあやまってるの?」
「あんな夢見てしまって。ごめん」
「ねぇ、それふざけていってる?」
「はぁ!? ふざけないよぉ。ほんきだよ」
「ごめん、ごめんっ」
「ねぇ、どうして。なんで笑うのっ」
「ごめん。でも笑うよ。だって、どんなに深刻な話かと思ったら」
「……深刻だと思わないの?」
「ぜんぜん。どこが?」と首をふってあっさり答える真。
「夢は性欲を投影する。無性愛でも性欲はあるって話してたじゃないか」
真から指摘されると、直は自分の頭の中をのぞくように視線を右上にあげた。
「夢は、必ずしも現実のセクシュアリティを反映してるわけではないんだよ」
「……そ、そうなの?」
「そうだよ」
「そんな。早く教えてよ」
「ねぇ、その夢。いい夢だと思った?」
真は、笑い顔を戻して静かな口調で訊ねた。直は、すぐに答えず慎重に考えた。
「大丈夫、正直にいってよ」
「私は真のことが好きだから。ちょっとだけ。いやいや、でもやっぱり……もう、よくわからない。目が覚めてすごく気持ち悪くなったの。食欲もなくなって」
「直がいやな夢だと感じたのなら、それはよくない夢なんだろうね。でも所詮は夢。そんなの早く忘れちゃいな」
ラフな真の口調は優しい。話は終わったかのようにみえた。ところが、わだかまりを抱えたままの顔をしている直は「まだあるよ」と彼の注意を引いた。
「そんな夢を見るなんて。つまり……私が真とそういうことをしたいと思ってるってことになるの?」
率直に疑問をぶつけた。
真は笑みを見せずにまっすぐな表情で静かにいう。
「したいの?」
「したくない」
首を左右に動かしながら、直は即答した。
「じゃあ。この話はこれで解決したよ」
「待って。もしも、したいと思ってたとしたら? 私のこと嫌いになる?」
「答えがイエスかノーかで僕たちの関係が変わると思ってるの?」
「だって。したいと考えることは、裏切りみたいだよ」
「裏切り。なぜ?」
「私は、無性愛者だからとか関係なく真が好きなの。でも、私が自分でも気がつかないうちに、真の望まないことを望んでいたらどうなるの。真を傷つけてしまう。きっと嫌われると思った。だからあの夢を見てからずっと怖くて。なにかが変わってしまいそうで……」
「直、」と名前を呼んで彼は彼女の長い弁明に水をさした。
「大丈夫。僕は、君のそういう正直なところが好きだといったじゃないか。だから大丈夫なんだよ」
「でも」
「あとね。夢のことだけど。僕なら逆の解釈をする」
「逆ってどういうこと」
「なぜ君は、僕が直と性行為したいと密かに欲求を抱いてるんじゃないだろうか……って疑わなかったの?」
直は、気がつかされて顔を曇らせた。おぼろげな記憶だが、真に強引に押し倒されたような気もしなくはない。彼女は悩ましい声を落とした。
「もし、私たちがそういう雰囲気になって、そのとき、どちらかがそれを望んでいなかったら。私たちはどうなるの?」
「それはそうなった時に考えるべきことだよ。今じゃない」
動じずに真は落ち着いて答えた。「でも」と続ける。
「約束しよう。お互い納得できなかったり、いやなことにはノーという。そのとき、相手の意志を押し切らず、受け入れられるなら、僕たちは永遠に共存できるんだよ」
お互いの瞳の奥を確かめ合うように見つめ合った。直は、真の顔を久しぶりに見たような気がした。前髪が少し伸びた。眠そうな眼差しで自分を見つめている。
——真だ。ここに真がいる。
そう思うと数週間ずっとひとりぼっちの心地だったと実感した。直は、涙をこらえきれなかった・
泣くだなんて。きっとひどい顔をしている。そう悟った瞬間、真の瞳に自分が映ったのを見て思わずはにかんだ。
「なぜ笑う?」
「だって、永遠はどうかな?」
「そこはついてこようよ」
真はそう軽く返した。そして「直の笑った顔を久しぶりに見たな」と口角をあげた。
「……あのね。じつは今日、真に渡したいものがあるの」
そういうと直は、かばんから長方形の箱を取りだした。うすむらさきのラッピングボックスはサテンのリボンがかかっていた。
「クリスマスプレゼント。ケーキ焼いた」
「……えぇ」と腰をぬかしそうな真は、「僕なんも用意ないよ」と目を泳がせる。
「期待してません」ときっぱり告げる。真に手渡した。
「ありがとう。いま開けていい?」
「いいよ」
真は、リボンをといてボックスの蓋を持ちあげた。クッキングシートのおおいをめくると、見えたのは、——『ケーキ』。といわれてイメージしたものと異なっていたのか、彼は目を凝らす。表面がなめらかで、こんがりとした茶色である。
「まさか」
「カステラだよ!」
「いやこれ、セブンで買ったやつでしょ」
「ちがうよ!」
「カステラって、家で作れるの?」
「なにいってるの。簡単だよ」
「へ、へぇ……」と真の目は笑っていない。
「一応、四回試作したんだけどね」
「おい、簡単に作れるってうそじゃんか」
「いま食べてみる?」
「一緒に。せっかく自分で作ったんだから」と真は誘う。
ふたりは、ホームメイドのカステラを食べた。真はすぐに笑みをうかべる。
「ねぇ、真。また、お弁当作って一緒に食べたいの。だから時間があったら勉強見てほしい……」
「もちろん……僕も後悔するのは嫌だから」
直にとって、ふたりで食べたカステラは、これまで食べた中で一番甘く、ふわふわしておいしかった。
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