第21話

 さっそく健次郎は、「皮しっとりと、さっくりどっち派?」と直に選択をせまった。

「しっとり」

「え、マジで。おれ、絶対さっくり」

「私どっちでもいいけど、さっくりちょーだい!」 

 雅は、ビニール袋の中からポリ袋につつまれたメロンパンをふたつ取りだした。表面のつるりとしたやつを直にわたす。


「ありがとうございます。いただきます」 

 律儀に直がそういうと、健次郎と雅はパンにかじりついていた。『いただきます』っていわないんだ。そう面食らって、自分もほおばった。

「美味しい〜メロンの味がする!」

 直のヘタな食レポを聞いた健次郎と雅は、ぷっとふきだす。

「大学は、今週から夏休みなんだけど。直ちゃんもなんだね」 

 雅は、テイクアウトしたアイスティーを飲んでいう。

「はい」

「嬉しそう。そりゃそうだよね、無性愛のことをからかわれたり文句いわれたら、学校なんていやになるよね」

「は、なにそれ。さいあく」

 片手でスマホを操作していた健次郎がそう口をだした。

「つまり、高校で直はカミングアウトしたってこと?」

「はい。思わずいってしまったというか。アクシデントで。ひろまってしまったというか。でも、私は大丈夫です」 

 直は、鼻の穴を少し大きくさせて見栄をはった。ぱくりとメロンパンにかぶりついく。

 雅は、直を見てニヤリと唇を横にひいた。

「直ちゃん、なんかいいことあった? あぁ、真になんかいわれたんだ。ふたりともなんかあったんだ。そっかぁ」

 ——なぜ、このひとは妄想を先走らせてものをいうのだろうか。いや、むしろ勘がいいといったほうが適切だ。直は苦笑いする。


 それから、健次郎にこれまでの経緯をざっくばらんに話した。ただし、さっき起きたばかりのことは黙っておいた。真からいわれたことも、彼と交わした会話も、ふたりだけの秘密にしておきたかった。 

 

 健次郎は、自分が無性愛スペクトラムでデミボーイなのだと教えてくれた。真との馴れ初めはわからないが、それなりに昔から親しい間柄のようである。 


 メロンパンを完食し、真と別れてもうそろそろ一時間余りたったころ。健次郎は、急に頭をもたげたように話を戻した。

「直ってすごいね。おれなんか、この研究室の外で自分のセクシュアリティやオリエンテーションをオープンにできないよ。直みたいに、不本意な形で広まるのは、かなりキツいと思う。しかも高校って、人間関係むっちゃせまいしさ」 

 健次郎は、率直な感想を口にした。

 直は、この数ヶ月間をふり返ってみた。考えてみれば高校生活は一変した。気がついてしまった「本当の自分」から目をそらすことはできない。友情関係に生じた軋轢あつれきも修復することは困難……。もはやあの学校には居場所がない。

「……私。はやく卒業したいです。大学生になりたい」

 胸につかえた直の思いは、無意識にあふれ出た。「真は、いつ戻ってくるかな」とつぶやくと 雅と健次郎は、顔を見合わせクスッと笑った。

「ねぇ、直ちゃん。卒業式おわったらケーキパーティーやろね!」と提案をもちかける。

「ウェーイ。ケーキパーティー」真顔でスマートフォンを連打タップしながら、健次郎は声をだした。 

 

 

 それから二〇分くらいたって、ようやく真は戻った。

 

「うわ、すずし」と真はつぶやく。 

 屋外は蝉時雨と熱波の一方で、研究室はクーラで快適に室温が保たれている。

「おつかれ。久々に見たな、その頭。カラスじゃんか」

 健次郎が手をあげていった。

「ねぇ、次はイエローカラーにしよーよ。直ちゃんも、真の金髪みたいでしょっ」

 そういうと、雅はアイスティーのカップの底にたまったクラッシュアイスを食べはじめた。 

 直は、真と目があった。

 ——あ、夜部先生。と思った。黒髪の真を見ると、つい実習生のときを思い出してしまう。直は、黒髪であろうと銀髪であろうと、どちらの真にもひかれるが、後者のほうが純黒の瞳が映えるのでいい。見ていると吸いこまれそうになる真の眼球が直は好きなのである。


「悪かったね。帰ってもよかったんだけど」

「帰ると思ってなかったでしょ?」

「あぁ、思ってなかった。それで、健次郎と雅がいるとも思ってなかった」

 と、真はテーブルの上に残されたビニール袋に手を伸ばしす。 

 健次郎が「食っていいよメロンパン」とスマートフォンをいじりながらいった。 

 真は、まだ三つほど残っていたパンから一つを選んで取りだす。

「いただきます」と空気にむかって一言投げた。直は、彼がしっとり皮のメロンパンを食べている様子を見て「私も、しっとりが好き……」とささやく。真には聞こえていなかった。 

 

 雅が髪の毛先を指に巻きつけてたずねた。

「私たちも直ちゃんがいてびっくりしたんだよ。ほったらかしてどこいってたの?」

久城くじょう教授に会ってた」

 雅は、眉をさげて下唇をへの字にした。

 健次郎は、スマートフォンから意識をそらさない。

「はぁ、真もよくやるよね」と雅がため息をついた。

「で、どうなったのよ?」と先をうながした。


「無性愛者は、他のセクシュアルマイノリティのような差別に直面していないと繰り返してたよ。精神病理の一端かとか、性的トラウマの結果であると仮定したうえで、指向ではなく、個人の意思の選択の問題としてとらえるべきだ。という考えを堅持しているみたい」 

 そういうと真は、食べかけのメロンパンに口をつけた。

「おれ、あのおじちゃんきらい。『その頭黒くして出直してこい!』ってうるさいんだもん」と健次郎がつれない声でいう。

「あんたチューボーか」と雅がツッコミをいれた。

「たしかに無性愛の人はメンタルヘルスに苦しんでる率高いけどさ。精神病とかトラウマだろうとか、そういう偏見のレッテルをはられることが原因になってるってことも、わかってほしいわー」 

 不満をあらわにした口調で健次郎はそういった。 

 真は「やっぱり数値がなかったら、教授には門前払いにされる。『統計データをもってくれば然るべき手段で議論を進めよう』の一点張りだよ」と肩をすくめる。

「もうさぁ、いいんじゃないの。いくら言っても、こっちが疲弊するだけって私は思うけど」

「雅。あの発表をみただろ。みんな教授のいうことがもっともだ、と疑いの余地がなかった。無性愛が正常な状態だと理解してるひとはいなかったじゃないか。僕はどうしても黙って見過ごせない」

「はいはい、真はご立派ですね。でもさ、丸汐先生や黒木さんならともかく。したっぱのおれらが楯突いたところで鼻であしらわれるのがオチ。ねぇ、直もそう思うよね」 


 ——ナンデココデ、ワタシニフルノ!? 

 

 あごが、はずれそうになるほど直はおどろいた。彼女は、三人の会話をギャラリー席からながめていたので、突然話をふられて戸惑った。


 ところが、声を発したのは、直ではなく真だった。


「ねぇ。健次郎……」

「ん、なに?」

「なに。『直』って」


「君たち、きょう、はじめて会ったんだよね?」と固まった表情でつけ足した。 

 真のメロンパンを持つ右手は震えている。


「あ、おれ、行かないと。バイト前によるとこあるんだわ」

 そういって椅子から立ちあがった健次郎は、リュックを肩にかけた。真の質問に答える気はないようだ。

「んじゃ、お先」と手をあげる。直に向かって「またね」といった。

「さ、さようなら。ごちそうさまでした」

 雅は、「院試の面接がんばってね」と手をふった。

「ねぇ、健次郎ってば」

 真を無視して彼は研究室を出ていった。


「心配するな、真。健次郎はさっくりメロンパンしか食べない」

 これ見よがしに口元を引いて、雅は真にいう。そしてスマートフォンをタップした。

「あ、A子が呼んでる。ちょっとホールいってくるわ」 

 雅は、直に「じゃぁ、また会おうね。夏休みも時々おいでよ」と別れを告げる。

「健闘を祈るぞ、ま・こ・と」 

 真とすれちがい間際に、不気味な声色で密かにつぶやく雅。

 真は、「なんのこと?」と顔をしかめる。

「院試の面接よ」と彼女はもっともらしい速答でかえした。

 ぱたん、と研究室のドアがしまった。

  


 直は、目まぐるしく学生の出入りする丸汐研の自由な雰囲気に心を惹きつけられていた。午前中に高校で過ごしていた陰鬱な気分はふっ飛んでしまった。しぼんだ風船に空気が入って生き返ったような心地がしている。

 パンを食し終えてゴミのかたづけをしていた真に話しかけた。

「ありがとう。ここへ連れてきてくれて。このまえのことだけが、理由じゃないでしょ。丸汐先生のところへきたかったって、知ってたからでしょう?」

「そんな忖度してないよ。ただ、待ってるより、自分から会いにいったほうが早いって思っただけ」

 そういうと、よく腰かけている窓辺のソファーへ移った。直に質問する。

「きょうは、早帰りだったね。弁当は持ってなかったの?」

「うん。家に帰って作るつもりだった」

「ごめん。気がつかなくて」

「大丈夫。メロンパンもらった」

 そうか、と真はうなずいた。それから、「直は、どうしてひとりで勉強しようとするの。いまどきの受験生は、ほとんど予備校に通ってるんだろう?」とたずねた。

「塾に通ったからといって、必ず受かる補償はないでしょ。模試は定期的に受けてるから、自分の弱点はわかってるの。それに、大学はいってからのほうがお金はかかるから、いまの負担を最小限にしたいの」 

 淡々と説明する直のことを真はじっと見つめていた。

 一度、黒目を床に落としてからまつ毛を持ちあげた真は、静かにいった。

「……そう。じゃぁ、少なくとも週に一度は時間がとれると思うよ」

「え?」

「勉強だよ。夏休み中たまになら、みるけど」

「ありがとう」 

 直の頬はまたたくまに持ちあがって、彼女の目は溶けそうになった。「だから君は、どうしていつも……」と、いいかけてやめた真は下がった眉毛で優しく笑った。

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