第20話

「……変わった。って?」 

 丸汐教授は、片足をひざの上にのせて組んだまま、回転式の椅子をゆらして続けた。

「思っていることを素直に吐きだすようになったというか。抑圧されていたんですよ、彼は」

「抑圧。そうなってしまったのは、過去の体験とかが原因ですか?」

「彼の場合それもあるんでしょうが。ここへくる学生たちは、ほとんどにかよったことを話します。自分が異常で異質なのではないか、と疑念がぬぐえないままときを過ごすうちに、標準や一般という箱の中に自分を押しこめて蓋をするようになった。そうして、元々の自分をいなかったことにしたのだけれども、本心では『自分は壊れてなどいない』と思いたかったのだと。ですが、皆、結局は箱の蓋を開けてしまうのです。彼らを見ていて思います。悩み、苦しみが続いたとしても、生きていればおのずと道は、ひらかれる」


 丸汐の話に引きこまれた直は、近くの椅子に腰かける。彼女のだんまりした口を開いた。

「先生。私は、まわりの友達の感覚がわからなくて、自分をみんなの中で浮いた存在みたいに思ってました。同級生と付き合ったのは、純粋に彼と話してて楽しかったからです。でも付き合ったら、なにもかもが、変わってしまったんです。それから……」 

 直はますます饒舌になっていく。丸汐は、黙って耳を傾けた。

「交際した同級生は、私の知ってる彼ではなくなった。キスをされたり、体を触られることを嫌だといえませんでした。むしろ、友達は『よかったね』とか『仲がよくてうらやましい』っていったんです。ほかの人たちにとっていいことが、私にとっては、つらいことで。その私の葛藤を、真は一瞬で見抜いたんです」

「そうでしたか」

「それからずっと彼のことばかり考えてた。この気持ちが恋愛感情なのか。正直よくわからないです。彼と友情関係を結びたいわけでもない。でも、彼のことが好きです。この気持ちを名前でよべなくてもいいんでしょうか?」

 

 丸汐は、組んだひざの上に手を置いていた。黙ったままいい返してこない。そんな彼を見た直は後悔の色を浮かべて下をむく。

 数秒あいだを置いて、丸汐はいった。


「パートナーに対して、真に正直であること。……それが、もっとも大切なことでは?」 


 さらりとした口調に反して、言葉に重みを感じた。直は、それ以上の説明を要求せず、彼の言葉を自分の頭の中に大事にしまっておくことにした。

「はい。わかりました。ありがとうございます」と返事をする。

 真剣な様子の直を見た丸汐は、またクスッと笑った。

「残念ながら、私に恋愛のことを相談されても気のきくことはいえないでしょう。私がハートのエースを手にすることはありません」と、直が持っているトランプに人差し指を突き立てた。

「アロマンティックは、他者に恋愛感情を抱きませんから」という。

 直は、それがある種のカミングアウトであると悟った。彼女は、そっと黒目を丸汐へむける。教授は、落ち着いた姿勢を崩すことなく穏やかな目元で彼女を見返している。


 ふふふ、と微笑すると、「そうですね、白石君が適任かな」と横目を流した。すると研究室の扉をやや乱暴にたたく音がしてドアが開いた。



「はいはい、おつかれでーす」 

 雅の声が快活に響く。

「噂をすれば」と丸汐は口角をあげる。

 

 しかし入室してきたのは雅だけではなく、そのうしろに一人の男性とおぼしき人物がいる。直は、彼のくすみかかった暗い緑色の髪をまじまじと見た。耳の軟骨から耳たぶのほうにむかって貫通する太めのインダストリアルピアスも凝視してしまう。

 ——すごく痛そう!! と、直は彼のビジュアルに物怖じする。そしてその彼は、雅より先に直に飛びついたのだった。


「あれあれ。お客さんがいる。ほらね、多めに買って正解だったじゃん」

「直にゃん!」 

「おーい。雅ちゃーん。にゃんって?」 


 おきざりにされたグリーンヘアの彼は、雅に問いかける。が、無視されている。かわりに丸汐が声をかけてきた。


「ごきげんよう紫田しばた君、院試おつかれさまですね」

「楽勝っす」

「まだ面接のってるけど、やはり髪は、そのままなんですね」

「どうせ、普段の風体バレてるから。わざわざ黒染めしなくてもいいかなって。真は気にしすぎなんだよ」

「そうかもしれませんねぇ」というと、丸汐はデスクチェアから立ちあがって伸びをした。

「ほんとは、もっと明るくしたかったんすけど。ビリー・アイリッシュみたいに。で、誰このひと?」と指差した。

「コラっ」と雅が人差し指をにぎりつぶす。


「はい、この子は直ちゃんです。職業女子高生。好きなものは、真です」

 一方的に紹介文を読みあげた雅は、同じく勝手に彼の自己紹介を代弁して直に伝えた。

紫田しばた健次郎けんじろう。学部四年生。丸汐研のメンバーです。真と同じく、院への内部進学が決まってるんだよ」


「どーも」と健次郎は、直に愛嬌ある笑みをみせた。そうかと思えば、「ねぇ、好きなものが真って、どういうこと?」とまるで恐怖体験を語るような声でそういった。


「私は、日向直といいます。来年、ここを受験する予定です。受かったら、丸汐先生のところで無性愛について勉強がしたいんです」

「無性愛ってエイセクシュアル? へぇ、めずらしいね。ていうか高校生なんでしょ。よく知ってたねそんなの」

「それは……」と直が口をまごつかせると、健次郎は、はっとしたようにあごに手を置いた。

「あぁっ、だから真が好きなわけ!?」

「おどろけ、健次郎。好きなのは真も同じだぞ。もうぞっこんだ」

 快心の一撃だった。雅は目を細長くさせて小さく暴露する。健次郎は、「ゴッシュ」と、つぶやいて口を片手でおおった。 

 雅は、健次郎の肩に手をおくと「話せば長くなるから」といったが、その先はめんどくさそうな顔で「押して知るべし」と放棄する。

「健次郎。あんたはさ。取り残されてんだよ」

 

 二者が会話するあいだ、直の黒目は、雅と健次郎とを行ったり来たりした。

 口を挟めず圧倒されていると、ぐうぅっとお腹のなる音が鳴った。とたんに部屋の中がしんとした。

 

 一同の視線を集めた直は、目をぎゅっとつむって「ごめんなさい。私」と食いしばるように白状した。

「直ちゃん。またおなかすいてるの?」

「すいません。きょう短縮日課で。うちに帰って食べる予定だったんです」

 弁解して腕時計をみる。時刻はちょうど十四時。真が学校にこなければ、とっくに昼食をすませていた。 

 健次郎は、手にしていた乳白のビニール袋を持ちあげた。

「よくわかんないけど。よろしくね。直、メロンパン好き?」

 いきなり下の名前で呼ばれた直は動揺した。

「うちの大学のパン屋のパン。おいしいよ。一緒に食べよ」と健次郎は口元をひいた。

「ガーリックブレッドが一番人気なんだけどさぁ。昼前に売りきれちゃうんだよ。で、メロンパンが二番人気」

「そ、そうなんですね」

 気の優しい青年だとわかり、緊張の糸がゆるんだ直はうなずいて「ありがとうございます」と答えた。

「丸汐先生は?」

「ありがとう。でも結構です。これから会議なので。高級茶菓子つきの」と嫌味のない口調でいった。

「では、部屋番よろしくおねがいします。直ちゃん、ごゆっくり」といっていなくなった。

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