第19話
いつも歩く桜並木をあっというまに駆け抜ける。
真の背中は、実際に抱きついてみると見ためよりも広く感じる。ただ、彼の胴体はうすっぺらで、不健康な痩身ぶりが気になった。……このひとは、ちゃんとごはんを食べてるんだろうか?
想像しているあいだに大きな道路へ出た。片側二車線の道路をひた走る。風切りの音を伴い景観は流れさっていく。電車の窓から見たことのある高層ビルや道路沿いの木々に気がついた。
信号停止のさなか、偶然にもタンデム走行中の彼らの真横に並んだのは一台のパトカー。ウィンドウ越しに警察官は目を光らせた。
四十路の中年男性は、厳格な眉間で直の生脚をじっと見つめている。標的にされた彼女は背筋が伸びた。もし呼び止められたらどう弁解しようか、そう取り越し苦労する。
青信号にかわると、真は白黒の威厳ある車体に目もくれないで追い越した。
ついぞ行き先は告げられなかったが、目的地が大学だろうと、直はわかっていた。真は、先に降りると直へ手を差しだした。
直は真の手を借りて、またがっていた高所から地に足をつけた。ヘルメットをはずすと風が首筋をなでて気持ちがよかった。
「ありがとう。楽しかった」
「そうなの? ずいぶん強くしがみついてたから。怖がってるんだと思ったよ」
冗談まじりに真はいった。ところが直は物憂げになった。
「……どうしよう。ごめんね。嫌だった?」
「だから嫌ならむかえに行ってないって」
真は微笑をうかべて、直をなだめた。
「さっき横でパトカーとまってたね」
「交通法に則って走ってればなにも問題ない」
「なんだ、そうなの?」
「それより、今度はスカートやめときな」
指摘されて、直は爪先にむかってあごを引いた。彼女のスカート丈は膝上一〇センチよりは長いが……。
直はヘルメットを真へ返した。彼はバイクに鍵をかける。ふと、バイクキーホルダーに目がとまった直は喫驚した。
「それっ、知恵の輪!」
「え? ああ」
「私、これ持ってるよ」といって直はリュックの内ポケットからリングを出す。
「なにそれ。なんでリボン結んでんの?」
「失くさないように」
そういって、直は無邪気にほほえんでいる。一瞬だけ真も笑ったが、彼はまじめな表情で美結との別れ際について蒸し返した。
「さっきは、わるかったね。友達との会話に、口を出すつもりはなかったんだよ」
「ううん、ありがとう」と直は、首を左右にふって返した。ところが、真の曇った顔はまだ晴れない。
「君に残念な知らせがあるんだ」
「この前のことなんだけど……」とその先を渋って切り出さない。
「この前のこと?」
「研究室でふたりで話していたことだけど、あれは、先生に全部聞かれていた」
ハッと直は息を吸った。そういえば部屋を飛び出した時、丸汐にぶつかりかけた。
「そういうことだから。あきらめてくれ」
——あきらめるってなにを?
訊き返す前に真は歩きだした。直は、仕方なく彼のあとについていった。
・・・
真と直は、丸汐研究室の扉のまえに立った。真はすぐにドアを開けず、そっと顔を直へむけた。
直は自分より背の高い真を上目で見返した。彼の瞳には前髪がかかっていた。
ドアノブに手をかけた真は、ノックして同時に戸を押した。研究室は、丸汐しかおらず、彼はひとり出迎えた。
「おかえり、夜部君。有言実行しましたね」
丸汐はデスクの引き出しを開けて扇子を取りだす。ぱっと片手で華麗に扇を咲かせると、白い余白に筆のフォントでグッジョブ! と書かれていた。
「わぁ!! 丸汐先生の机の中ってすごい。パンダもそこから出てきてましたよねっ」
「いかにも。私の机の中は三次元を超越しているのです」
「それ、ドラえもんですよね。ていうか。べつに、扇子くらいデスクに入るだろう……」と真は、口角を引きつらせた。
「いいえ夜部くん。さすがにタイムマシンは入ってませんよ」
丸汐は首を横に振った。はいはい、と真は、目が笑っていない。
「丸汐先生。この前は、あいさつもしなくて。ごめんなさい」
突然出た直の声色は弱々しく、彼女は肩を縮こめていた。丸汐は優しく笑った。
「今日から夏休みだそうですね」
「はい」
「よかったですね。ご予定は?」
「勉強します。ここに合格できるように。塾にも行かないつもりなので、地道にがんばります」
「そうですか。では、わからないことや困ったことがあったらなんでも相談してください。夜部君に」
「……はい?」とおかしな抑揚で確かめる真。
「だって夜部君、勉強みてあげるんでしょ?」
「みませんよ」と即答する。
「え、本当に!? じつは、英語が合格ラインに全然達してなくて。わからなくても人にきけないし困ってたの」
「待って待って。勝手に話を進めないで。第一、不安なら予備校いけばいいじゃないか」
すると丸汐は、軽く首をかたむけて真へ疑問を投げかけた。
「うーん。夜部君、ハートのエース渡したんですよね?」
「渡しましたよ」
「じゃぁ、付き合うんでしょう、君たち?」
丸汐の一言を聞いた直の脳内に電気が走った。とっさに真へ視線をむける。しかし、彼はポーカーフェイスを維持したまま「いいえ」と冷静に答えた。
諸々事情を把握していない直は、ワイシャツの胸ポケットからトランプを取りだした。真から受けとった赤いカード。アルファベットのAとハートのマーク……。
「卒業したら」と真に話しかけられた直は、トランプから顔をあげた。
「さっきの話だよ。僕からの返事は、高校を卒業したときに改めてするよ」
「どうして今じゃいけないの。気持ちのふんぎりがつかないよ。断るならさっさとふってほしい。そうじゃないと、勉強にも集中できないよ。いまだって、毎日毎夜、真のことを考えてしまうの……」
直は、自分のクラッシュにまったく無自覚である。
「うわ、雅がいなくてよかった」とつぶやいた真は少し青ざめている。
「さっきいったことを思い出して。君のことをどう思ってるのか。でも、いますぐに事実上パートナーになるというのは、僕にはできない」
「じゃあ、いつ?」
「高校は卒業して」
「もう未成年じゃないよ。私のことを対等にみてくれないの?」
「みてるよ。僕は、君の上にたって価値観を押しつけようとは思ってない。でも……わかってくれないか」
高圧的ないい方ではなく、むしろこれまで直が知っている真のなかでも、飛び抜けて優しさといつくしみを感じる口調だった。
——これ以上、彼を困らせたくない。『好きだ』と、いってもらえただけでもう十分。付き合ってるといえないことに文句をいうことすら贅沢だ……。
そう思って、直はついに「はい」とうなずいた。
真は、さみしげな直の顔を覗き込むように、彼の頭を低くした。目線を同じにした直にむかって、「ごめん」と口元を密かに動かす。直は照れてしまい、にやにやした。
「君は、なぜいつも笑うんだ」
真と直はお互い見つめ合う。ところが、真が思い出しように目線をひょいと逸らして横をむいた。
丸汐は、いつのまにか頬づえをついてデスクトップの液晶を閲覧していた。横文字の羅列に目を通しながら、例によってクスクス薄気味悪い笑いを発している。
「先生。おわりましたけど」
真は、苦笑いしながら手をぎゅっと握りしめてそういった。
「……へ? ああ、はいはい」と軽いノリで返事をすると体をむけた。
「それじぁ、直。用件は済んだ。一緒に来てくれてありがとう」
「ええ、もうおしまい!?」
「わるいんだけど、僕はこれから教授と面会の約束があるから。いたかったらまだいれば?」
「いつ、戻ってくる?」
「一時間くらいだよ。じゃあね」
別れを惜しむ間もなく、真はあっさり部屋を出ていった。当惑して直は、目をまわす。ふわりと風にひるがえされたカーテンにさそわれて、窓辺に近寄った。外に真の後ろ姿が見える。これが夢ではありませんように。
——歓喜のあまり立ちつくしていた。すると、ふふふ、という柔らかい笑い声が聞こえたので、直は丸汐のほうを見た。
「夜部君、近頃なんだか変わったなって思ってたんです。そういえばそれは、教育自習を終えたくらいからだったと思いました」と彼は物静かに語る。
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