第22話

 

 *


 とある市民図書館。普段ならば閑散とした館内は夏休みとあって少々人出が多い。 


「ねぇ、あの銀髪のひとみてよ」


 息をひそめて雑談する少女たち。彼女らの集中力を阻害しているのは、ひと組の男女だった。とりわけハイトーンのシルバーヘアに注意をむけている。銀髪の彼は、机にひじをついて頬を支えた姿勢のまま、ぼんやりした瞳を少女たちへ放った。

「きゃあっ」

 とかなんとか小声をあげた。彼に射抜かれた彼女たちは、色めき立って物音をたてる。前髪の奥から、彼は目を細めて白眼視を飛ばしたが、逆に恍惚させてしまっている。なにやらさわがしく、彼女たちはよほど銀髪が気になるようである。


「どうしよう……長文、また半分間違えた」

 直は、しなびた声でいった。真の黒目は、彼女の回答用紙をむかい側からにらんでいる。英語の長文から、ぐいと視線を直へと移した。


「正答率うんぬんより、回答に時間をかけすぎだ。本番だったら、とっくにタイムアウトだよ、直」

「わかってるんだけど。時間を気にするほど、空回りして読めないの。ねぇ、真はどうだった?」

「全問正解だよ」

「うっそお。なんで」と直は、真から回答用紙を取りげげた。

「あたりまえでしょ。英語で論文読んでんだから」

 

  話は四〇分前にさかのぼる。

 

 ふたりは、同じ問題を同時に解きはじめた。

 真は、一〇分たらずでペンを机上に置いた。それから待つこと三〇分。きょうは、真のチューターが初回ということもあり、時間制限を設けなかったので、彼は直が問題を解き終わる待っていたわけである。


「まさかとは思うんだけど、一語一句全部読んでるの?」

「そうしたいのはやまやまだけど。わからない単語もあるし、読むのが遅いから時間も足りないの」 

 その返答を聞いた真は、不可解な表情で「つまり、全部読むつもりでいるのね?」と重ねた。

「うん、そうだけど?」 

 直の返答を受けとった真は、課題は山積みか、とつぶやいた。

「まずスキミングとスキャニングを覚えないといけないね」と説明する。 

 直は視線を宙にあげ、スキャン……と聞き返す。

「重文と復文を見分けられるようにならないと。あと前置詞句。いいね?」 

 とりあえず直は、ちょめちょめと真のアドバイスを箇条書きでノートに書きつづった。しかし、バンっ! と真の手が邪魔をする。

「そんなん、メモとっても意味ないから。体に叩き込むの!」

 顔を近づけてヒソヒソと話しをする。真の顔面は二〇センチより近く直に接近している。つい、銀髪の前髪に見惚れたが直は目を細めてもっと真に近づいた。

「なに?」

「ねぇ。ここ枝毛……ちゃんとケアしないと髪傷んじゃうよ」

 

 そのとき、直の後方から小さな悲鳴がきこえてきた。きゃあっと、先程の小娘どもがハイになっているのである。彼女たちの位置からは、真と直がキスをしたように見えていた。

「おしずかに!」 

 巡回する司書の女性が叱り飛ばす。ピシャリと女子たちは静かになった。

 直は、ようやく彼女たちの存在に気がつき、胸苦しさがこみあげる。うつむくと、ぐうぅと、空腹を知らせる音がなった。気まずそうに顔を持ち上げる。


「充電切れか」と、真は小声でいった。


 時刻はお昼の十三時。直と真は午前中から開始した勉強を中断させることにした。


 ・・・


 この図書館は比較的大型な施設で、解放的なフリースペースが設備されている。そこは、クーラーが弱になっていて、強制しない涼しさが心地よい。

 平日ランチタイムのピークを過ぎた広間は、にぎわいもなく、ふたりに好奇の視線をむける若者もいない。


 食事の前、真はある提案をもちかけた。

「思ったんだけど。やっぱり図書館はやめたほうがいいと思うよ。人目も気になって集中できやしない」

「うん。でも静かに勉強できるところ、ほかに知らないし」

「静かに勉強ねぇ。勉強はむしろ声に出してしたほうがいい。とくに英語はそう。こっちも声のトーンが気になって教えたいものも教えられないんだよ」

「わかった。でもどこで?」 

 

 すると真が思案顔になってこういった。

「もし、直がいやじゃなかったら。ぼくんちでも。ひとり暮らししてるんだ」


「家にいってもいいの?」 

 直の声色はうかれていた。真は、注意をうながすように「いいのって、君は、いいわけ?」と同意を確かめる。

「うんっ。ありがとう」 

 笑みをうかべている直に対して、真の表情はかたい。

「少しは抵抗すると思ったんだけど。本当に同意してるの?」

 直は、真の心配を察していなかった。というよりむしろ、『勉強する場所が見つからない問題』が解決したことを端的に安堵していた。彼女にとって、彼のいる空間は安全な場所なのである。


「じゃぁ、もうお弁当たべてもオッケー?」と直は控えめにきく。

「あぁ」といって、渋々と真はうなずいた。

 その返事を合図に、直は弁当を取りだす。テーブルの上にひとつ、ふたつ。


「はい。約束のものです」 


 それは、グレーの布とすみれ色の布に包まれた二つの弁当箱。

「本当に作ったの。これやってるひまがあったら、勉強時間にまわせばいいと思うんだけど」

「やだ。真は、私の勉強みてくれる。公平を期すために。私は、真にお昼を持ってくる」

「公平を期すねぇ。僕は見返りを望んだわけじゃない。勉強に付き合う以上、合格はしてほしいけど」

「真の時間をとってもらってばっかりで申し訳ないの。やっぱり、タダで勉強みてもらうなんて気が引けるよ」

「たいしたことじゃないけど。それで直の気持ちが落ち着くなら好きにして。僕もメシの心配をせずにすむ」そういうと、ようやく真は優し気に笑った。


 グレーの風呂敷に包まれた弁当が真の目の前にある。

 直は「私のお弁当箱だから、小さいかもしれないけど」といって彼が布の結び目をとくのを待った。

 真の動作はゆっくりで、彼はおそるおそる灰色の布を広げたのだった。紺色のコンテナは、底が深く大容量だ。

『小さいかもしれないけど』——そうでもないぞ。といいたげな真の目元はぴくっと動いた。彼は、蓋を開けるのをまるでちゅうちょしていた。 

 直は、緊張感を隠してその瞬間を待つ。かちゃんと、蓋のクリップをはずす音がして、彼はついにその箱を開けた。

「……」

 真の反応は鈍い。だまって黒目を弁当に落としたまま、うんともすんとも言わない。むろん、ほめごろしする言葉が返ってくるとは、さすがに期待していなかった。が、眉一つ動かさない様子を見た直は、しだいに焦慮感が込みあげた。


「もしかして、嫌いなものあった?」

 すると真は、「ごめん」と一言だけ発した。

 

 いったい、彼はなにを考えているのだろうか。弁当のできばえに自信があっただけに、直の胸中は急転直下した。


「食べられない」 

 真は、静かにそういった。


「どうして?」

 直は細い声で訊き返す。

 

「こんなの、食べられるわけない」

「……どういう意味?」

「無理だ。食べ方がわからないんだ」


 直は気がついた。真の瞳は少し濡れて見える。これほど切なそうで、悲しげな顔をする彼を見たことがなかった。 

 どういうわけか、直は詳しい事情をきいてはならないと直感した。同時に真がある種の悲哀を感じていると悟った。

「……あのね、真。私にとって、お弁当は涙の味なの」 

 直は、慎重に言葉を選ぶ。真は視線を上げた。

「つかれたとき、つらいとき、頑張ったとき。逆に、頑張りたいと思うとき。お弁当を食べると涙がでちゃうことがあるの。あれって、なんでなんだろう」と窓の外を眺めていう。すぐに「私の料理の腕がいいって、うぬぼれてるわけじゃないよっ」と手のひらをふってつけ加えた。


「でも、ひとつ、確かなことがある。朝、作ってるときに考えるんだ。これを開けたとき、嬉しい気持ちになるようにって。そう思って、お弁当は作ってるんだ」 

 直は、風呂敷に手をかけて自分の弁当箱も開梱する。蓋を開け、弁当の中身をのぞき込むと彼女の目尻はさがった。

 真は、直の様子をじっと目で追いかけていた。

「私ね、卵焼きはいつも絶対入れるの。うっかり卵を切らしたとき以外は、抜いたことないんだよ」 

 それを最後に直と真は視線を重ねた。彼は憂えるまなざしのままで、箸のケースを手にとる。二本の棒を持ち、もたつく速度でゆっくり卵焼きに箸をつけた。持ちあげてみると、淡い黄金色の長方形は、一口におさまるくらいの大きさ。  

 彼は、その卵焼きを口にした。唇をくっつけて、あごを動かしていたが、しばらくすると顔を下にむけた。そうかと思えば、上目で直を見返した。にやける真の顔を見た直は胸をなでおろす。手の甲で口元を抑えた彼の瞳はやっぱり少し光ってみえた。


「私も。いただきます!」 

 手と手を合わせて挨拶すると、直は、艶やかに照る肉巻きを持ちあげた。肉に巻かれたインゲンの緑色が引き立っている。

 直の旺盛な食べっぷりを見た真の目元は、緊張感が溶けていく。彼が再び食べはじめるのを見ると、なぜか直の目元から涙が落ちた。軽い涙をぽろぽろこぼしながら「うん、まぁまぁかな」と、直は笑った。


 真がこらえた涙は、直がかわりに流した。結局、直は真になにも聞かなかった。彼も、彼女の涙についてふれることはなかったが、弁当は完食した。

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