第15話

「はじめて出会った日、君は僕の手を強く握ったでしょ?」

「……覚えてる」

「あのとき。君に手を握られて、僕は強烈な苦痛を感じたんだ」

 

 

「あのときは、ただ君が異性だからという理由で嫌悪を感じたんだと思った。けど、君が無性愛者だと確信してからだ。苦しんでる君を見ていると、まるで自分を見てるみたいだった。君が侮辱されたり、まわりから苦しめられているのを見ると、自分が痛かった。僕は、君と同じだったからだよ」

「……同じ?」

「恋人がいたよ。僕は、シスジェンダーで。どうやら異性に恋愛感情を抱くらしい」

「……恋人?」


「大学に入って付き合ったひとは、年上の女性だった。無性愛を打ち明けても信じようとしなかったんだ。それである日、彼女は僕を押し倒したんだよ。関係を迫られたとき、心が強く拒絶した。けど、彼女の力に逆らったら傷つけてしまう。そう思うと怖くて体は動かなくなった」

 

 真は、トランプを机上に投げ捨てると、その手をポケットに突っこんだ。


「半年で別れたよ。その体験で気がつかされたんだ」 

 真は、彼女に背を向けると窓の外を眺めて続けた。

「この世界は、そもそも性的なコミュニケーションで人間関係が成り立ってるんだよ。性的な世界にもとづくフィジカル・ラブを『本当の愛』と呼ぶんだよ。プラトニックとか、ロマンティック・ラブとか。そういう精神論だけの関係性は、幻想と妄想なんだ」

「私は、そう思わない」

「君がそう思わなくても、世間一般ではそうなんだよ。だから僕は、この社会で生きていくのに邪魔な恋愛感情を……捨てた」

「捨てられるの? 感情を理性で抑えることはできても、捨てることなんかできないと思う」

「できるさ」

「できないよ」

「できるさ」

「できないよ。そのひとのこと、まだ好きなんじゃないの?」

「最後までお互い相容れなかったんだ。願わくは、二度と会いたくないよ」

「どうして?」

「彼女は、僕を精神科に連れていった。ホルモン治療とか心理カウンセリングとかを受けさせようとした。なんども、なんども、病院へ行こうといわれた」

「まさか。無性愛は病気じゃない」

「僕は拒否しつづけた。むこうは、『ここまでつくしていのにどうしてなんだ』ってひどく失望してたよ。最後まであのひとは、僕を変えようと諦めなかった」

「そのひとのどこが好きだったの?」 

「君と同じさ。バカみたいに、ただ純粋に好きって思っただけさ。一緒にいて楽で気があったからだよ」

 そういった彼の声は、少し感傷的で投げやりだった。

「恋愛的に好きという感情を持てたのは最初のうちだけだったよ。あんなことになったのは、自業自得だよ」

「自業自得ってどういう意味?」

「……確かめたかった。自分に普通の恋愛ができるのか。同時に期待を抱いていた。性愛抜きの恋愛が成立するのかって。つまり欲張った罰。悪意でなくても、ほんのわずかでも、彼女の心を利用した罰。もうそれからは、ひとりでいようと決めた」

 

 最後の一言を聞いた直は、真をじっと見つめていった。

「だから『消えろ』っていったの? いつも冷たかったの?」

「仮に、無性愛の異性恋愛者同士が恋人関係になったとして。手も握らないし抱き合いもしない。キスも性行為もしない。そんな男女に、世の中の人間は納得がいかないのさ」

「なんで世の中のひとが納得しないといけないの?」

 その問いかけに真は答えない。

「なんで黙るの。キスやセックスしなきゃ愛と呼べないなら、私は愛なんかいらない。そんなもの欲しくない!」

「そんなこと簡単にいわないでくれ」と真は冷静に返す。


「どうして? あなたがいってたんだよ。『自分を曲げず、変わろうとするな』って。あれは嘘だったの?」

「嘘じゃない。でも、無性愛者の異性恋愛自体がこの社会ではないものにされてる。彼女になんども『無性なんて嘘か病気だ』といわれ続けた。恋愛に臆病になってるだけだとね」

「たとえ他人がどう思っても、自分は自分でしょ?」

「そんなことわかってる」

「みんなが『それはほんとの愛の形じゃない』っていったとしても。たとえ納得しなくても。認めてくれなくても。異常だと言われても私はいい」

「生意気なこというなよ。口ではなんとでもいえる」

「私は……自分に嘘をついて生きていきたくないよ。あなただって。本当はそう思ってるんでしょ!?」

「黙れ。理想を押しつけるな。君はなにもわかってない!!」

 

「もう、ここへは来るな。二度と」


 真の冷徹な口調は強く、直はいいかえせなくなった。

 

 直は部屋を出ていった。

 偶然、廊下で丸汐とぶつかりそうになった。驚いた彼は、直の涙に気がついたが引きとめることもできなかった。

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