第14話


 天地のひっくり返ったような衝撃に、悲しみをとおり越して虚無感をいだいた。彼にキスをされたこと、スキンシップを受けた瞬間ひとつひとつを思い出すと血の気がひいた。最後にされた深いキスを思い出すと吐き気が止まらない。 


 水のしたたるスカートをしぼったが、とても教室に戻れそうにない。とほうに暮れて、行き着いたさきは保健室。体調不良を訴えると、養護教諭はベットを開放してくれた。だがプールに落ちたことを説明すると、担任からは注意指導を受けた。音也とのことはいえなかった。 

 

 幸いにも梅雨の中休みの炎天下。制服は一時間足らずでほとんど乾燥した。ジャージから制服に着替えたあとのこと。下校しようとしたが、前兆なく悪心がおそってトイレに長らくとじこもった。

 

 吐き気にたえるあいだ、直は真からもらった知恵の輪をにぎりしめていた。なくさないようにリボンをかけて。ペンケースにしまって持ち歩いていた。

 

 ——もっときな。

 

 真の声がきこえてくるなら、同級生たちから白い目で見られてもどうということはなかった。

 

 

 帰り道。駅のプラットフォームに立ちつくす直の目の前を何本の車両が走り去っただろう。

『まもなく電車がまいります。黄色い線の内側までおさがりください』を何度もきき流す。


「だれか。だれか、私の背中を押してホームに突き落としてください」と先頭車両が横切る瞬間に人知れず念慮した。 



 それからいったいどのようにして自分がそこにいきついたのか、彼女は覚えていない。気の動くままやってきたその古い建築は、色あせた洋館だ。華やかな大学敷地内では、たたずまいのわびしい研究棟である。 


 丸汐の研究室をおとずれるつもりのはずだったが、建物の入り口付近で直は足をとめていた。

 やはり家へ帰ろう。そう思って身体を一八〇度反転させたその時だった。 


 向こうから歩いてきた人物は、直から五、六メートル離れたところで立ち止まった。


「……まったく、君もしつこいよ。なんの用?」 


 真が視界に飛びこむと、直の心臓は激しく拍を打ちはじめた。そしてこのドキドキは、いつものトキメキとは違った。 


 ——足よ動け。いますぐ。動いて!! 


 直は胸の内でそう叫んでいた。

「私、やっぱり帰ります」

「待つんだ」

 すれちがい間際で、真は直を呼びとめた。

「いま、僕を見て逃げようとしたよね」

「逃げてません。やっぱり、帰ります」

「待って」 


 引きとめられた直は、立ち止まり、固まって動かなくなった。

 真はいぶかしむような声をなげる。


「絶対おかしいだろう。敬語になってるよ」


 勢いよく顔を上げた直はかんばしくない。眼球は赤く血走っている。火を見るよりも明らかな直の異常を真はじっと見つめた。耳にかかった彼女の髪は、いつもよりうねりが激しく傷んで見える。


「濡れたの?」

「……プールに、落ちた」

「なにがあった」

 

「音也によばれて、プールサイドで……話をしてた」

「よばれた。何人いた?」

「私とふたりだけ。もう一度付き合おうってさそいをことわったら。『リアルがいやらな、バーチャルでしようって。脱げって。画面越しならできるだろ』って」

「……それで。そいつは、どうした?」

「いわれただけ。ただ私に腹が立っていたから、仕返しで脅しただけだったみたい。本気にするなっていってたし」

「言葉だけだったとしても、それは明らかな性暴力だよ」

「そうじゃないよ。音也は、ふざけてたの。私が先に彼を傷つけたから。バチがあたったの」

 

「なに言ってんだ。めぇさませよ!」

 怒鳴った真は直の顔をのぞきこむ。

「君は、自分がなにをされたのか理解してるのか」

「私をせめないでよ!!」 


 直は怯えている。彼女は記憶がフラッシュバックした。両手を交差させて肩をだき、小さくなった。涙をこぼして「きらいにならないで」とつぶやいた。 


 真は腕をあげ、彼女の肩に手を置こうとした。けれど触れる寸前で手は止まり、空気をにぎりつぶして拳となった。


「嫌なら、はっきり嫌だといって。君に……触れてもいい?」


 直は目を合わせないでうなずいた。

 真の手がそっと彼女の頭にふれた。まだ少し湿っている。風にさらされ頭部は冷たい。彼の手は、つむじからこめかみの近くへ優しく動いた。頬骨にふれた彼は、「風邪をひいたらどうする」といって眉間にしわを寄せた。


 直は、真の手をふり払うように、あごを引いてうつむいた。


「寒くないの?」

「……大丈夫。帰る」 

「ダメだ。来て」

 

 


 丸汐の研究室には誰もいなかった。机上には遊びかけのトランプとブラックサンダーのミニバーが乱雑に放置されている。

 真は、ため息をついてトランプをかき集めた。整えて輪ゴムで束ねた。まだ、机の上に一枚残っていることに気がついて、手に取った。

 スペードのエースを手にして、壁によりかかった真は口火を切った。


「さっきは悪かったよ。いいすぎた。辛いことを思いださせてしまったね。本当にごめん」 

 真のむかいに座っている直は、魂が抜け落ちている。彼女は口元だけを動かしてぶつぶついった。

「笑ってたの……別人だった。無性愛を証明できるっていってたの。……びっくりして、私はプールに落ちてしまって」

「もういい。わかったから、思い返さなくていいよ」 


 直は、真に怯えた眼差しをむけた。

「きらいにならないで」とつぶやく。


「さっきから、そればっかりだね。なぜ『きらいにならないで』っていってるの?」

「音也に嘘をついたときに……」

「嘘って?」

「好きな人がいるから、恋人ができたからあきらめて欲しいって、嘘をついた。そのとき、あなたのことを考えてた」

 直は手をぎゅっと握りしめて話した。

「あなたのことが頭に浮かんだ。助けてって心の中であなたに向かって叫んだ」

 

「……そのことと、『きらいにならないで』、の真意が繋がらないんだけど。君が僕のことをどんなふうに考えようが君の勝手だよ。どうして僕にきらいになるなと頼むの?」

「私は、音也にあなたが私の恋人だって嘘をいったから」

「とっさに出たんだろう。パニック状態のとき、人は虚実取りまぜたことをいってしまうものだよ。だから気にしてない」

「本当ならよかったのにって。心から思った。そうではない現実が、ずっと苦しくて死にそうだった」


 そういうと、直はゆっくり視線を持ち上げる。真と瞳をぶつけ合った。


「つまり。君は、僕のことが好きなの?」

「好き」

「それは、恋愛感情なの?」

「わからない」

「わからなくないよ。君は、僕についてなにを考えてるの。それを具体的にいえばいいんだ」 


 直の言葉は途絶えた。真は、彼女が先を話すのをじっと待っている。時計の秒針が二周目を過ぎたころだった。


「……会いたくて。会いたくて、ずっとあなたのことを考えてる。でも、そのときの感情の名前がわからない。なんていっていいかわからない」


「……最悪だよ」


 真は声を落とした。彼は伏し目がちになっていった。


「君は、僕が恋愛感情を抱かないとは考えなかったのか。僕に対する君のその感情は、恋愛感情じゃないのか?」

 直は、黙りこんだ。頬を涙がつたう。

「なぜ、泣くんだ。僕が君を泣かせているの?」

「違う。わかってたの」

「なにを?」

「私の気持ちを知ったとして。あなたが私に気持ちを返すことはないってこと」

「なんだよそれ。君に僕のなにがわかる」

「あなたは、恋愛感情を抱くことのない無性愛者だから」 


 ふたりの会話は止まった。しばらくすると、真は手に持つスペードのエースに目を落としたまま、つぶやいた。


「そうやって、君は。まるで僕の鏡だよ」 


 真は、窓辺に寄りかかっている。彼は、トランプから視線をあげて語り始めた。

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