第13話

 

 七月に入り、期末試験が終わった。解放感に満ちたりた校内で、学生たちは、早くも夏休みモードである。

 あれから直は、ほとんどひとりで行動するようになっていた。優香は、無視をしたり、ぶつかってくるなど冷ややかな態度を変えなかった。真希は優香に従う。美結は、時折声をかけてきたが、ぎこちない挨拶程度で、直に近づかないようにしているのはほかのクラスメートと同じだった。


 *


 それは、水曜日の昼休みのこと。

 近頃は、家庭科室でひっそりと弁当を食べている。彼女は、返却されたばかりのテスト用紙を机上に置いていた。

「英語は、やっぱり苦手なんだよね」と眉を下げて鶏肉の照り焼きにかじりつく。

 志望校を決定して以来、受験勉強に一層まいしんしている。皮肉なことに、女子グループと群れる時間がなくなったおかげで、これまで雑談や遊んでいた時間を勉強にまわせるようになった。


「夏休みは、心を鬼にして頑張らないと……」 

 卵焼きを目線の高さまで持ちあげる。

 

 ぼんやりして考えるのは、彼について。あのひとは、きょう何を食べているだろう。次に会えるのはいつだろうか。また、けむったがっておこるだろうか。迷惑だろうと、わかっているのに会いにいくのは、そこにいけば会えるとわかっているからだ。つまり、彼に会いたいからだ。彼に会いたい——。


 直は、ひと口で卵焼きをたいらげる。 

 ちょうどそのとき、スマートフォンに通知が入った。送信者の氏名を目にした直は眉間をよせる。少し考えたあとに返信を打った。それは、音也からのメッセージだった。 

 



 昼休み終了の二〇分前。直は、体育館に併合するプールへやってきた。この高校は、屋内温水プールだ。授業も部活もない施設内は、もぬけのからのようにがらんとしていた。


 壁ぎわにひとり。音也がいた。

「びっくりした。急にラインきたから」 

 直は、壁によりかかっている音也にいった。

「ごめん。昼休みに時間とらせて」

「私は平気だけど。どうしたの?」

 

 あえて、ひとのいない場所をえらんだ音也は、きっと自分のことを遠ざけているにちがいない。と、直は憶測していた。なんといっても彼女は、無性愛と揶揄やゆされている元カノである。おめおめと会っているところを男子たちに目撃されれば、やっかいなはずだ。


「俺、ずっと直と話がしたかったんだ」

「もう私に関わらないほうがいいんじゃないの」

「どうして?」

「音也まで、いろいろいわれちゃうよ?」 


 そういうと、音也は壁から身をはなして直のそばへ歩みよった。彼は、ポケットに手を入れたまま、落ち着いた口調で話はじめた。


「あいつらは、ガキなんだよ。俺は直のことをキモいとか思わない。だって、ふったのは俺じゃなかっただろう?」

「あの時は、私のわがままで。本当にごめんね」

「でもびっくりした。あのあと、直が無性愛者だったってきいて」

「……無性愛のこと、わかるの?」

「わかるよ、なんとなく」 


 直にとって、音也の受け答えは予想とちがっていた。きっと幻滅されているだろうとばかり思っていた。


「私も自分で自分のことがわかってなかったみたい。ずっと、気がつかないでいたんだよ」 


 プールの水が循環する音は、渦潮のように耳に届いた。水面を背にして、直は彼のうつむき加減の表情をうかがっていた。


「俺は、直が無性愛者でもいいんだよ」 

 音也は、そっと口をひらいた。

「大丈夫。俺と、もう一度やりなおそうよ」


 音也は思いの丈を迷いなくぶつけている。優しい声色をきいて、眉をさげた直は罪悪感にさいなまれた。


「……それは、できない。ごめん」


 音也は一歩前にでて、過去を蒸し返した。「したくなかったのに、家にきたときに誘ったことは悪かったと思ってる。いま思えば、直はいつも逃げてたもんな。はずかしがってるだけだって、俺は思ってたんだ」

「音也は、なにも悪くないよ。何度もいってるでしょ」

 

「ねぇ、直。ならさ、バーチャルでやらない?」

 

 ——聞き間違えたと思った。彼の発した文言に耳を疑ったので、直はおうむ返しする。


「バーチャル?」

「直がリアルではムリっていうなら、俺はそれでもいいよ」

「……まって。なんの話をしてるの?」

「サイバーセックスだよ」

「サイバー……セックスって、なに……」

「ぶっちゃけ、リアルより快感なんだよ。ストレス解消にもなるし。直もやってみなよ。その無性愛ってやつも治るかもしれないよ」

「私は、変わりたいなんて思ってない」

「わかった。じゃぁ、とりあえず、ためしだよ。ためしにやってみようよ」

「いやだ」

 拒絶をしめす一言をはっきり伝えると、音也はつむじが立った。

「キスが我慢できたなら、我慢して脱げっていってんだよ。画面越しならできんだろ」

「音也。どうしたの」

「誰も信じてねぇんだよ、その無性愛ってやつ。信じてもらいたきゃ、証明してくんない?」

「無性愛は証明できない」


「いや、直。思いついたよ!」 

 音也の口調は享楽に満ちていた。

「俺のいうとおりにすれば証明できるよ。いっかい俺としてみたら?」 


 狂気の沙汰ではない、と直は身の危険を察知した。これほどまでに感情の起伏が目まぐるしい音也を知らない。


「無性愛者が性行為に興奮しないなら、そいつとやっても、気持ちよくならないし満足しないってことなんじゃないの?」

「……意味がわからない。そんなのおかしいよ」

「直とやって不満足だったら、無性愛だって信じるよ」

「あなたは、どうかしてる」


 直は、声をふるわせてあとずさった。


「私、ほかに好きなひとができたの」

「え、そうなの!? 付き合ってるの?」

「そ、そうだよ」

「相手も無性愛者なの? ねぇ、そうなの? その彼氏って、ほんとにセックスに興味ないの?」


 直は手のひらをにぎった。逃げ道のふさがれたウサギのようにせっぱ詰まって無心でさけんだ。


「そうだよ! だから、もう私のことは、あきらめてよ!!」 

  

 そのとき、興奮していたのは、音也ではなく直のほうだった。彼女は後ろ足を引いたが、そこに地面は存在しなかった。


 次の瞬間、水しぶきと共にプールへ落ちた。 


 入水と同時に気まで転倒した直は、なかばパニックである。なんとか顔の水をはらうと、音也を見上げた。


「……『私のことはあきらめてよ』だって? バカじゃねえの」

 そういった彼は、ポケットに手を入れたまま冷徹な声色をむけた。

「本気にすんなよ。お前と一緒にすんな。てか超ウケる。マジで落ちるとは期待してなかったわ。傑作」 

 高笑いをとめると、一変してのっぺらぼうのように真顔になった。

「『恋愛異常者とキスしてた』って、けなされたこっちの気持ちがわかる? ……かわいそうな直。でも、これは人に恥をかかせた天罰だろうね」

「……あなたは、だれなの?」

「じゃーね処女」 


 音也は、気持ちがよさそうに身をひるがえす。だが、彼は忘れ物をしたように、きびすを返して人差し指をつきたてた。


「いっとくけど、お前が勝手に落ちたんだからな」

 

 そして音也は去った。直は、着衣に水分をたっぷりと背負いプールサイドにあがった。涙も出ないほどの衝撃的な出来事に、彼女は思考が停止している。スカートに重みを感じてポケットに手を入れた。スマートフォンは、彼女もろともずぶぬれになっていた。

 

 




 にわかに信じがたい。直の知っている音也は、彼の本当の姿ではなかった。友好的な笑みも、愛着を感じさせる言動のすべてが戯れに過ぎなかった。


 天地のひっくり返ったような衝撃に、悲しみをとおり越して虚無感をいだいた。彼にキスをされたこと、スキンシップを受けた瞬間ひとつひとつを想起すると血の気がひいた。吐き気が止まらない。 

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