第12話

 あのホームルームから四日後の金曜日。直は、丸汐の研究室をおとずれようとしていた。最寄り駅の女子トイレに入って鏡の前に立つ。真っ赤なリボンをとった。

 隣で肩を並べてメイクする女性。大学生だろうか。直は鏡ごしにそのひとを観察していた。

 化粧なおしに夢中で直の視線に気がついていない。リップグロスを重ねづけ。カーディガンを脱ぐと、彼女はなぜかブラウスの前ボタンを一つはずした。露出した胸元が目に入った直は、すぐに視線をそらした。


 研究室のドアをノックする。

 戸の奥から聞こえてきたのは知らないひとの声だった。

「どーぞ」

「……あのう、すみません」

「えっと。学部のひと?」

「いいえ。部外者です」

「なるほど。部外者ですか」 

 赤みがかった茶髪のそのひとは、整った顔立ちが美形で落ち着いた声だった。メガネはどうやらフェイクではない。本棚へ書物を収納しているところだった。直の近くへやってくると、室内へ招き入れてドアをしめた。


「突然すみません。丸汐先生は?」

「教授会です。助手の黒木といいます」

「あ、カステラの!」 

 直は、あわてて頭をさげると自己紹介した。

「私は、日向直といいます。丸汐先生に会いにきたんですけど。あと、真さんに……」

「真さん? あぁ、夜部ですか」

「はい。あと金曜日だから」

 黒木は、ちょっと目を泳がせてからメガネをさわった。

「よくわかりませんが。とりあえず適当に座ってください。夜部なら、もうすぐくるんじゃないかな」

「あの。お仕事のじゃまになりませんか?」

「いいえ、仕事というほどのものではありません。どちらかというと、パシリ・・・です」

「パシリ……だれの」

「丸汐教授です」

 ——いま、やや声にトゲがあったような? 


 直は、椅子を引くとリュックをだっこした姿勢で座った。紙束を整理する玉前を目で追いかける。

「あのう、黒木さんも、性的マイノリティ関係の研究をされているんですか」

「えぇ、ジュエンダー論界隈を」

「そうですか」

「『そうですか』って。わかったんですか。いまの雑な説明で」

 黒木は、温顔に笑みをそえてそういった。

「いや、わからないです。すいません」

「僕の場合、当事者研究の側面もあってね」

「……それは、どういう?」といって、とっさに口ごもる。緊張しつつ直はいった。

 

「……あの。私は、シスジェンダーで無性愛者なんです。……えぇっと、恋愛の指向は、異性を好きになります!」 

 

 黒木はじっと直を見つめた。

「どうして、いきなりカミングアウトを?」

「それは。……自分でもよくわかりません」

「わからない?」

「なんでかわからないんですけど、いわないとと思って。あぁ、えぇっと、強制されたとか、そういうことは全然感じてないんです。ただ、自分が誰なのか、ちゃんと伝えたいと思っただけなんです……」 

 かくかくしかじかで、うまく語れなかった直は、自信なさげに「すみません」と最後に付け加えた。 

「なんか、すみません。私、よけいなことをいいました」

「どうして? ひょっとして、いわなければよかったと後悔していますか?」 

「そんなことありません。いってよかったって思いました」

「ならよかった。話してくれてありがとうございます。あなたは、まじめなひとなんですね。そうですか……日向さんも。ちなみに僕は、無性愛スペクトラムだよ」

「えぇ!?」と直はうろたえた。黒木は小さく笑った。



 会話がとだえた静けさの中で、直は黒木をまじまじと目で追っていた。彼は、おかまいなしという感じで資料整理を黙々と続けていた。


 ふたりきりの空間に、ぐうぅ……と、おなかがなる音が響いた。ぴんと背筋を伸ばした直は、確信犯である。

 ぐーっと、二度目がなるや、直の耳は真っ赤になった。

「おなか、すいてるんですか?」

「すみません」

「大丈夫ですか」

「きょう、お昼を食べそこねてしまって」

「それは、大変ですね。そこにコンビニがあるからなにか買ってくれば?」

「いえ。お弁当は持ってます」

「お弁当?」

「はい」

「なら、いま食べたらどうですか?」

「ここで。いいんですか」

「あなたがよければ。僕は気にしません」

「……じ、じつは、もったいないと思っていたところで。それじゃ、お言葉に甘えてもいいですか」

「えぇ」

「ありがとうございます。もう、おなかすいて死にそうでした!!」

 直がリュックのファスナーを開けると、ふふふ、とかすかな笑い声がした。笑壷の入り方もどこか上品なひとだ、と彼女は思ったが同時に羞恥心にかられた。

「あのぉ、私やっぱり……」

「笑ってごめんね。おもしろい人だと思って。どうぞ、召し上がってください」と手のひらを見せた。

「はい。いただきます」 

 直は、すみれ色の風呂敷をといて弁当箱のふたをとった。

「すごい。豪華ですね。彩りが美しい」 

 頭上からふってきた黒木の声に、直は上目をむけた。

「ありがとうございます。料理が好きで、自分で作ってるんです」

 箸でつまみあげた卵焼き。直は、優しい卵色をぼんやり見つめた。

「私も、卵焼きが一番好き……」と呟く。

「なにかいいました?」

 背を向けていた黒木は、首を回してたずねた。

「いいえ。なんでもありません」

 それから、一〇分あまりたって弁当を完食した。

「ごちそうさまでした」 

 両手を合わせてシメの一言をつげる。弁当箱のふたをしたそのとき。コンコン! とドアが鳴る。玉前の「どーぞ」とほぼ同時に扉が開いた。 

 

「やぁ、夜部。おそかったじゃないか」

「おつかれさまです、黒木さん」

「おつれでーす!」

「お連れか。白石も一緒?」

 入室したのは、真と雅だ。真は、直を見るや、迷惑顔を隠さない。 

「なんなんだよ君は。なにしてんの?」

「直ちゃん!」 

 真を押しのけて雅が前にでた。

「久しぶり。え、どうしたの。遊びにきてくれたの〜」

「おい、ここは遊びにくるところじゃないだろう」

「雅さん。おひさしぶりです」

「白石とも知り合いなの。日向さんって何者?」

「リアル女子高生だよー、センパイ」

「あなた、高校生だったの?」

「はい」

 黒木は真顔でうなずくと、「夜部、先生と君に会いにきたそうだよ。あ、あと金曜日だから」と重ねた。次いで、丸汐のデスクチェアに腰かけて机上のパソコンをスリープ解除させる。

「はぁ。……まただよ。研究室のパソコンで動画配信みないでって、何度もいってるのに」 

 ちっと舌をならした黒木は、パソコンで作業を開始する。

 

 真と雅は、直がしまいかけていたすみれ色の布に気がついた。

「直ちゃん。それ、お弁当?」

「はい」

「ここで、食べてたの?」

「はい。ちょっとお昼、食べそこねてしまって」

「えぇ、かわいそう。おなかすいてたんだね」

「あぁ、でも黒木さんのおかげで、無事食べられました」といって直は、弁当箱をリュックの中へしまおうとした。


「ねぇ。なぜ、食べそこねたの?」


 真が静かに問うと、直は視線を逸らした。


「忙しくて」

「放課後に食べてからくればよかったじゃないか」

「それは、思いつかなかった……」

「つまり、校内で弁当を食べられない事情があったってこと?」

「食欲が、なかった……」

「食欲がなかった理由は?」


「ちょっと真。いいかたきつい」

「雅は、黙って」 

 

 真は直に顔をむけたまま、あいだに入った雅にいい返した。

「最近、教室で居場所ないっていうか。クラスでアウェーで。だから弁当もひとりでいられる場所を探して食べてた」

「どうして、きょうは食べられなかった?」

「きょうっていうか。きょうもっていうか。まえに、ひとりで食べてたところを男子たちにからかわれたの。でも、食べないと午後の授業がしんどくて、仕方なくトイレで食べたら、今度は女子生徒にばれそうになって……それから人目が気になって、たまにお弁当を食べ損ねています……と、いうこと」


 話を聞いた真は、重い息を吐き出した。ひたいをかかえてうつむきながら、「むしずが走るよ」と苦りきる。

「そうだよね。いくらなんでもトイレは気持ち悪いよね」

「そっちじゃないよ!」 

 なぜ真が気炎をあげたのか理解が追いつかない直は、彼の様子を不安げに見つめた。

 

「ねぇ、直ちゃん。その。トイレで食べてるところを見つかって、いいふらされたりしてない?」

「大丈夫……だと思う。顔は見られなかったので」

「あと、直ちゃん。アウェーって、どゆこと?」

「それは、えっと」

「今度はなにをいわれた?」

「直ちゃん、なんかイヤなこといわれてるの?」

 

 ソファーに腰を落とした真は首をポキポキならした。雅は、泣きそうな顔をしながら直のとなりの椅子を引いて座った。 

 

 

 直は、今週のホームルームでの出来事を話した。黒木は、パソコンに顔をむけて聞いていた。

 話の幕引きをすると、真と雅はうっぷんのダムが決壊したようである。

「その担任。要は、無性愛を知らなかったってことじゃないか。アンチじゃなくて、ただの無知だっ」  

 真は、冷えた声で辛辣を飛ばした。

  

 直はあのときを思い返した。じつのところ、ずっと緑川の発言が引っかかっていた。

「『性欲は人間の自然本性だ』って緑川さんがいきなりフロイトの話をしたときは、びっくりした。さすがにいい返せなかったよ」

「僕がフロイトの精神分析を受けたら、トラウマや病気で精神が抑圧されてるか、すでに壊れてるって診断されるんだろうね」

「えっそんな。なんで?」

「『母親に性的魅力を一切感じないし、自分の精神は性行為を中心に活動していません』って、僕はいうからさ」

 真がそういうと、雅はお腹をおさえて笑った。黒木もふんと鼻で笑う。

 

 キョロキョロする直はフロイトについて、『教科書にのっている、ヨーロッパの精神科医』程度にしか知識がない。

 

「フロイトも万能じゃない。この世には、リビドーをもたないひともいるしね」

「リビドー?」

「リビドーがあるってことは、性行為への欲求があるってことだよ。無性愛者には、リビドー主義者もノン・リビドー主義者もどっちもいる。個人的な性欲があっても、他者と性的な関係をもちたいと望まないのが無性愛者なんだ」

「そもそも無性愛にとってフロイディズム自体がナンセンスなんだろうね。相手がいなくても性的な興奮は消化できるし。無性愛者からしてみれば、パートナーと性的に親密である必要性はまったくないし。これはフロイトの理論からこぼれ落ちた領域だ。長く無性愛が認知すらされなかったのは、フロイトの功罪でもあるよね」と黒木はいった。

「そう。僕はしょっちゅう、葉巻きを片手に勝ち誇ったヤツの顔が脳裏に浮かぶんだ……」

「ドンマイ、真」

 盛りあがっているところへ、直はいいにくそうに口出しする。

「あのう……私、混乱してるみたい。性的魅力を感じないってことと、性欲がないことは、どう違うの?」

 これに雅が答えてくれた。

「トリッキーだね。性的魅力は、誰かを見て『あぁ、あのひと……したい』って感じることに近い。けど、性欲を解消するためにパートナーは絶対に必要なわけじゃない。とくに無性愛の人はね。性欲を解放したい欲求があってもそれは誰にもむけられてないの。だから、ひとりで自慰はしても、誰かとの性行為は望まないの」


 説明を熱心にきく直は、無言でうなずいていた。彼らが語ることをノートに書きとめている。その様子を眺めつつ真がつぶやいた。

「おい君、大丈夫か。すこしまじめすぎやしないか……」 

「自分のことだから知りたいだけだよ。でも学校では、ちゃんと教えてもらってないっていうか。なんていうか、先生たちも消極的な感じで。クラスも不愉快なムードで満ちてるの」と、いってペンの頭であごをさわった。

「欧米のように、日本も昔は細心な性教育をしてた時期はあったけど、ある時からぱったりやらなくなった」 

「なんで?」

「……さぁね」と真は肩をすくめた。

「中高生って、とくに気になっちゃう時期だもんね〜」と雅がいう。

「そうなんです。高校入ってから、急にそういう話題が増えたっていうか。友達の恋バナもすぐに性的な話になるんです」

 直は、気のめいった様子でうつむき加減になっている。ちょうどそのとき、黒木が「日向さん」と直をよんで顔を持ちあげさせた。


「せっかくご足労いただいて恐縮だけど、丸汐先生は会議が長引くみたい。メッセージがはいって。きょうの面会はむずかしいかと」

「わかりました。すみません、連絡してくれたんですか?」

「いや、先生から通知があった。『助けて。おなかすいた。早く戻りたいよ』って」

「そ、そうですか……」

「日向さんって、ずいぶん勉強熱心だけど。それ試験にでるの?」と黒木は首をもたげた。

「いいえ。いま三年生なんですけど、ここを受験して丸汐先生のところで無性愛について勉強したいんです」

「あぁ。どおりで」

「どおりでってどういう意味ですか?」

「いえ、気にしないで」 

 はぁ、そうですか。と直は受け流した。時計を見ると、もう時刻は夕方五時近くを指していた。


「でも、夜部には会えてよかったね」と黒木がいった。 

 直は、真に上目をむけた。

「な、なんだよ。なに見てるんだよ」

 彼がそういうと、直の目元は陽気色に染まっていた。

「君は。なぜいつも笑うんだよ」 

 真の声を聞くと、どういうわけか、喉元を締めつけられたように息が苦しくなる直である。顔を下にむけた。

「真。よかったねぇ」と雅がいった。

「はあ、なんだよそれ。君も、もう帰ってくれよ。弁当食べられたからいいだろ」

「うん。卵焼き……食べたら元気でた」と直の声はかすれている。

「よかったね、直ちゃん」 


 すると直は、突然椅子から立ちあがった。

 一同は、なにごとか。と圧倒されている。

 仁王立ちで「私、たたかいます」といった。

「まわりから、どう思われたとしても私はわたしだから。私は、変わる必要ないよね」

「あたりまえじゃん!」と雅はウィンクする。 

 黒木はパソコンに顔をむけて、関わらないようにしらを切った。 真は、ノーコメントでわずかに直をにらんでいたが、彼女は気がついていなかった。

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