第8話

「いや……あの、すみません。私がどんな人間かもわからないのに。それなのに来てもいいって。あっさり許可してくださったので。私はおどろいていて……」

 ちぐはぐにあらたまった直に、丸汐は、フフとほころびを見せた。

「私は、どんな人間なのか容易に想像できてしまう相手には関心がありません。また、そういう人間がここをおとずれることはごくまれです。ここへ来る者は、ほとんどが自分ですら自分がなんであるかわからない者たちばかりです。あるいは、わかりたくない、わかってたまるか、という者たちばかりなんです」

「直ちゃん、そんな仰々しくならなくていいんだよ。丸汐先生はね、こわーい先生じゃないから」

「はい。私はこわくありません」という丸汐の片手には、パンダのパペット。

 え、いつはめたの? と、直は口が半開きになった。


「パンダです。好きですか」

「は、はい」

 とりあえず直はうなずいておいた。

「パンダは絶滅の危機にひんしていますが、その理由はなんだと思いますか」

「えっと。さぁ、わかりません」

「これまで一般的に、生息地の縮小や環境変異、人間が捕獲していることなどが要因とされてきました。が、その裏街道で非常に興味ぶかい主張が存在します。それは、パンダのセックス・ドライブが極めて低いことが繁殖を困難にさせているというものです」

「セックス・ドライブ?」

「性欲のことです」

 直は好奇心で目を丸くした。丸汐は、右手のパンダパペットを口パクさせながら解説をする。

「パンダは、ほかの動物と比較してもいちじるしい求愛がなく、性的な興奮や気分の高揚がにがてだといわれています。とくにメスパンダです。これは、人間の無性愛者と類似するところがあります。性差はさておき、パンダを無性愛者におきかえてみると、交尾を助長してくる飼育員たちの気配りは、よけいなお世話なのかもしれません」

「そうなんですか」

「ちなみに。オチはありません。なぜ、私がこの話をもちだしたのかは追求しないでください」

「直ちゃん。先生はね、あのパペットをはめたいだけなんだよ。パンダみるためだけに上野動物園の年パスもってるんだから」とこっそり話す仕草でいう雅。直は、かくんとうなずいて質問を続けた。

「あの、まだ訊きたいことがあります。いいですか?」

「はい」

「好きなひとと愛を確かめ合うには、体で確かめ合うしかないんですか。それができないって病気ですか?」

「病気じゃないってばー」と雅は眉を下げる。

「でも、精神病とか?」

「っあ! まさかメンヘラっていわれたの?」

「そうじゃないんですけど、私自身が疑問で。なんで、映画とかドラマの性的なシーンが苦手なのか。友達は、憧れるとか、盛り上がってるけど、私には全然理解できなくて。そのうえ、はじめて付き合った彼にキスをされて、心臓発作みたいになってしまって。これはきっと、私が心に闇を抱えてるからじゃないのかって……」

 雅はゆっくりまばたきを繰り返して反応が薄い。

「……うーん。それは無性愛あるあるだね」

「そ、そうなんですか!?」

「うん。性格がシャイなだけとか。あと、性被害やトラウマが原因って決めつけたり」

 雅に続いて、丸汐が問いかけた。

「同世代の友人の話題を一緒に楽しめないのはつらいかもしれませんが、自分自身についてはどうですか。性的な話題に関心をひかれない自分を変えたいと思ったことはありますか。親御さんに相談したり、病院に行ってみようとおもったことはありますか?」

「どれも、まったく考えたことないです。だって興味ないものはない。正直、それを病気だっていわれるとすごく腹立たしいんです。自分のことをばかにされたような気持ちになる」

「なるほど」

「ただ、まわりと感覚がちがうと不安になるというか」

「それはそうですよね。でも実のところ、異質なものを感じて不安を抱いているのは、まわりの人達のほうです。直ちゃんは、その周囲の不穏をキャッチしてしまったから不安になったんでしょう」

「えっと、つまり?」

「すなわち人々は、無性愛者に対して無意識にエスノセントリックな反応をしめしてしまうのです」

「は、エス、エスノ?」 

 未知ワードとの遭遇が続発した直は、ついにノートをだしてメモをとりはじめた。

「自分の考えに近い立場から無意識にものごとを捉えようとすることです。例えば、見知らぬ集団に突然投げこまれたとしましょう。そのとき、直ちゃんは自分の行動や意見と似ているひとに近づきたいと意識するかもしれません」

「そのほうが安全で安心だからですか?」 

 丸汐はうなずいて続ける。

「あるいは、ちいさな子供の場合、彼らはものごころついたときから、エスノセントリックな集団にすでに属しているかもしれません。そして、自分をとりまく環境がいかに先入観で満ちているか気がつかぬまま、盲目的に成長することになるかもしれないのです」

「なんとなくわかります。おとなになればなるほど、同じ考えを持ってる人の集まりをひいきな目で見たり、重視してしまう気がする」

 丸汐は、求知心がにじみでている直に目を細めた。

「興味深いことは、エスノセントリズムの作用によって、今度は自分と正反対の集団に対して敵意や警戒心・攻撃性を増大させる傾向が顕著になるということです」

 

「そして、それは偏見や差別と一般によばれている、ってことだよ〜♪」と、雅は最後のおいしいところをもっていった。


「あるいは、マイクロアグレッションともよばれるものですかね」と丸汐はもれなく補足した。雅は、「あぁ、攻撃アグレッションね……」と、苦笑いしてつぶやいた。


「そのマイクロ……ってなんですか?」

「マイノリティにたいして無意識にはたらく偏見や軽蔑のことです。特徴としては、差別している当人に差別の自覚がないということ。本人があたりまえのこととして発言したことが、結果的に相手を攻撃してしまっているのです」

「たとえば、『好きな相手とキスやセックスするのは普通だ』って、直ちゃんがいわれたら傷つくでしょ?」

「あぁ、なるほど。そういうことですか」

 熱心にノートをとっている直について、雅は「みてみて先生、めっちゃマジメだよ」と指さした。

「はい。感無量です」


「あの、これも今朝、友達にいわれたんです。『無性愛ってなに』って。みんな知らなくて。私も真さんに教えてもらうまで知らなかったから、偉そうなこといえないけど。うちあけたときのみんなの戸惑った顔を見たら、落ちこみました」

「よくカミングアウトしたね。でも、気をつけてね直ちゃん。この世には少数派をたたきたがるやからとか、おもしろがってからかうやつもいるからね」と雅はいった。

「……そうですよね」

「次回からは、慎重になるといいですよ」と優しく丸汐はすすめた。

「んでも実習で無性愛について教えてたなんて。真もまんざらじゃないんじゃないの、教員」

「実は、私がキスをされて気分が悪くなったところを助けてくれたんです。そのときに、自分は無性愛者だって教えてくれました」

「真が自分から無性愛だっていったの?」 

 そうです、と直は首を動かした。これに、雅と丸汐は顔を見合わせた。


「……あの、真さんは恋愛感情をいだきますか?」 

 その質問に、雅はこれまでのように言葉を打ち返してこない。それどころか部屋に沈黙が生じて直は杞憂になった。

「それは、真にしか語れないことかな。ごめんね。でもこれはルール」

「ルール?」

「アウティングというのを聞いたことがありますか?」

 直は、いいえと首を振った。 

「ある人の性的指向や恋愛の指向、あるいは性自認などを本人の同意なしで開示することです」

「よーするに、真の同意なしに、勝手に私たちが真について話すことはできないの。よくトラブルあるよ。SNSで流しちゃうとか、友達にいっちゃうとか。善意でもしちゃダメなの」

「……わかりました」 

 おもんぱかる様子の直を見た雅は、ニヤニヤした。

「直ちゃんは、真と話したいんだね」

「……はい。だって同じ感覚と考えを持ってる人に会ったの初めてだから」

「そっか。またさ、会いにおいでよ」

「でもイヤがってた。私は嫌われてる」

「真が他人に愛想よくしてるとこなんかみたことないよ。あれね、フツーなのフツー」

「そうなんですか。学校で話したときは、優しかったけどな」

「優しい。真が!! あいつさ、同級生のことも避けてるんだよね」

「それは、留年してて歳が違うから?」

「それだけじゃないと思うけど。まぁ、でも真は複雑かな。中三の時も留年して高一になってるらしいの。だから、いまの同期と二歳は違うことになるよね」

「私の授業には、六〇歳の方もいます。大学院になれば、学生の年齢層のはばは広がりますけど」と丸汐はさりげなく口を挟んだ。 

 


 直は、真についてすっかり関心を奪われている。彼のことをもっと知りたい欲求が頭の中にすみついていた。

「また、来たいと思います。きょうは、おじゃましました」

 起立して雅と丸汐に一礼した。

「えー、もう帰るの?」

「はい」

 

「直ちゃんさん」

 帰ろうとした直を丸汐が呼び止めた。視線をむけると、彼は手に一冊の本を持っている。「お土産です」

「いいんですか」

「はい。私のお金で買っているわけではないので」

 ——そういう問題ですか。といいたげな直は目が笑っていない。

「ありがとうございます。勉強します」といって本を受け取った。

「直ちゃん、送るよ。ちょうど、コンビニにも行きたいの」

「ありがとう、雅さん」



 直と雅は一緒に丸汐の研究室を出て研究棟をあとにする。正門まで見送ってくれた雅は、改めて直の容姿をまじまじと見た。足の先から頭まで観察する。

「直ちゃんて、私服どんなかんじー」

「どんな……うーん。地味、かな。色でいうと、黒とかが多くて。パステルカラーとか露出の激しい格好はしないです」

「あ、この前、大学で会った時も落ち着いたかんじだったもんね」

「はい」

「私の彼女さ。ロリータなんだけど、ちょ〜かわいいの。で、きっと、直ちゃんも似合いそうだなって思って」

「……彼女って?」

「ガールフレンドだよう」

「つまり……雅さんは、レズビアン?」

「ボーイフレンドがいたこともあるよ」

「じゃぁ、バイ……?」

「確かに、相手が男でも女でも関係なく恋愛するけど。私は、私が好きって思った相手と関係を持つの。ジェンダーは関係ないよ」

「それって、なんていうんですか?」

 直は、遠慮がちにたずねた。雅は気さくな口調で答えてくれた。

「私の恋愛の指向は、パンロマンティック。性的指向は、デミセクシュアル」

「雅さんも、無性愛者ってこと?」

「ってこと。性自認は、自分のことをどこにもカテゴライズできない存在だと思ってるんだよね。私って、自分をラベリングした瞬間、それを否定してしまうの。一応、女ってことにしてるけど。男女二元論は、普遍的じゃないよ。だから私は、わたしなの」

「なんか、かっこいいね」

「そう?」

「うん」

「ありがとう。丸汐研に来るまでは、ずっと変人扱いされてきたからうれしいよ。私、直ちゃん大好き!」

「変人……?」

「あぁ、えっと。小学校のときからキモい〜って。発達障害じゃないかとか。ソシオパスっていうヤツもいた。でも、私は自分を変だと思ったことはない。そもそもね、自分の生きたいようにしか生きられない性格なの。矯正も、押しつけも、だいっきらい」

「……やっぱり。雅さん、すごいよ」

「うーん。すごいのは、丸汐先生かな。どんな人間も受け入れちゃうんだよね。だから、今日は直ちゃんも会えてよかったなって」

「丸汐先生って、どんなひと?」

「そうだな。自由が服着て歩いてるってかんじ」

「わかる気がします」

「丸汐研で入りびたってるひとは、みんな安全だから。あそこでは、訊きたいことは遠慮なくきいて大丈夫だし、思ったこと話していいんだよ」

「雅さん、ありがとう。雅さんに会えてよかった」

「なにいってんの! まだ出会ったばっかじゃんか。てか、やっぱここ受験しな。応援するよ」

 直は、雅に挨拶して別れた。それから、自宅から近くのよく利用する図書館へむかった。そこで丸汐からもらった書籍を読みふけること四時間半。下校と同じ時刻になると帰路についた。

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