第9話

 翌日。それは、登校してきた直が階段をのぼる途中のことだった。階段おどり場にたむろしている男子三人組の前を通り過ぎると、「おはよう、無性愛者」と声をかけられた。直は、足を止めて彼らに視線をむける。


「音也もかわいそうだよな。恋愛異常者と知らずにキスしてたなんて」

「……べつに私は普通だよ。恋愛はするし」

「キスもしたくないらしいじゃん。恋人っていわねえよ。なぁ?」

 横のふたりも同意するように、あごを引いた。

「……どうして。いろんな人間がいるって理解しようとしないのはなんで?」と直は声を震わせていい返す。

「無性愛って認めたら人類が滅亡するじゃん。子孫残さないってことなんだからさ」

「それって、ある意味罪深いよな。おまえ、少子化の根源」 


 もはや、反論する言葉が即座に浮かんでこない。直の瞳は凍りついている。すると、右端の男子がズボンのポケットに手を入れたまま、ボソっとつぶやいた。

「ハズいだけだったりして。上手いヤツと、いっぺんしてみたら?」

「信じられない」と、直は声を落として彼らから離れた。


 教室へ入ると、美結がいた。

 目が合うと、美結は「お、おはよう」とぎこちなく挨拶をする。

「……おはよう」 席に着こうとすると、直は他のクラスメートから視線をキャッチした。昨日、自分がこの場で大声で発言したことを思い出してしまった。

 

 ・・・

 

 昼休みのチャイムがなる。ひとりで食べる弁当も悪くない。直は、毎朝自分で弁当をこしらえている。彼女の通う高校には料理部があり、興味を持ったこともあったが、結局三年間帰宅部のままだった。 



 放課後、直はとある一室のドアの前に立っていた。『在室』のプレートを確認。ノックをすると、ドアのむこうがわから「はい、どうぞ」と聞こえた。

「失礼します」

「こんにちは。えーっと、三年三組の日向直さんですよね」

「はい。突然すみません」

「気にしなくていいのよ」というと、その女性はドアの外にあったプレートを『在室』から『面談中』へと裏返す。


「座って。改めまして。スクールカウンセラーの田中です」

「日向です。よろしくお願いします」 

 テーブルを挟んでむかい合う。席に着いた直とカウンセラーの田中だったが、すぐに会話は始まらない。直は最初の一言が、のどのあたりでつっかえている。彼女が唇をなめる仕草を見た田中はいった。

「今日はお昼なに食べたの?」

「え、お昼ですか。普通に、持ってきたお弁当です」

「お弁当。お母さんが作ってくれるの?」

「いいえ。私は自分で作ってます」

「あら、すごいわね。毎日?」

「一応。好きなんで、料理」

「へぇ、じゃぁ、食べることは?」

「食べること、はい。好きですけど」

「じゃあ、気持ちがいらいらしたり、不安になると、つい、たくさん食べちゃったりすることはあるかな?」

「……それは、ないです」

「そっか。でも、日向さんすごく痩せてるよね」

「あの。私、摂食障害とかじゃないし、過食して、吐いたりとかしてないですよ」

 

 すると、田中はじとっと直の目を見返した。早くも居心地の悪さを感じた直は、視線を逸らした。

「なにか、学校生活で困ってることとかある? お家でのことでもいいよ。何か不安があったら、きかせてちょうだい」

「あの……実は、」と、直はいいかけてもう一度だけ田中の顔色をうかがった。

 自分で決断してカウンセリング室を訪れたのだし……。そう、覚悟を決めた直は、単刀直入にいった。


「私、付き合っていた彼氏がいたんですけど、別れたんです。理由が、キスをしたり、性的な行為をしたくなかったからなんです。前に彼の家へ行った時があって。『セックスしたい』って押し倒されたけど、私は断ったんです。それで、先週なんですけど、私から別れたいといいました」

 突拍子もなく恋バナが始まった。田中は、なにを考えているのか表情が全く動かない。そのカウンセラーは傾聴を続けた。


「別れたことについて、その理由を友達に話したら、共感してもらえなかったんです。私が無性愛者だっていっても理解してもらえませんでした。それどころか、おかしいって思われたみたいです。田中先生は私のこと、どう思われますか」


 ——どう思われますか。


 そう問われて、田中は数秒考えた。


「日向さんが、その彼と行為したくないって思って、ちゃんと断れたことは、うん。えらかったね。頑張ったね」

「あぁ、それは、もういいんです。それより。先生は、性的なことに関心をもてない私が恋をすることをどう思いますか」


 田中は、質問を咀嚼しようとしているのか、まばたきを繰り返す。


「えっとね。日向さん落ち着いて」

「落ち着いてます」

「まず、性的なことに関心がないなんて、いいきれないと思うわ。惹かれあった男女が愛を深めれば、自然に密接になるものなのよ。だからきっと、別れた彼とは、相性が合わなかったんだと思う。日向さんも、いつか心から愛するひとにめぐりあったら、理解できるはずだわ」

「理解できるって、なにをですか?」

「本当の愛をよ」

「本当の、愛?」

 直は眉間にしわをきざんできき返す。

「例えばね、日向さんのご両親。あなたのお父さんとお母さんも、お互いに惹かれあって人生を支え合うことを誓ったのよ。そうして、愛を深め合って、行為したから、だから今あなたはここにいる。わかるかしら?」

 田中は深憂のこもった静かな口調で続けた。

「日向さんは、まだ若いんだから。これからよ。焦って性行為をしようと思う必要はないわ」

「なにいってるんですか。私の話を聞いてましたか。性行為したかったのは、私じゃなくて彼のほうです。あと、両親のことを引き合いにしないでください。さっきの話、とても気持ち悪かったです」

「……気持ち悪いって?」

「父と母が愛し合って、なんとかって。すごく気分が悪いです」


 ごくん、と唾を呑みこんだ直のことを田中は勘ぐるような目で見つめた。

「ねぇ、日向さん。性の授業はうけたよね?」

「はぁっ!?」

「確かに、気持ち悪いって思うのもわかる。でも、あなたにとって大事なことだって教わったでしょ?」 


 ——いやこれは、間違いなく脱線している。さもありなん、という様子で田中の目力はほとばしっていた。身の危険を感じた直は、退室の好機をねらう。しかし、田中は憂色を一層濃くしていった。

「無性愛って、聞き慣れないけど、なんとなくわかるわ。でも、それは一時的な感情を表現した言葉にすぎないと思うの。本気で好きな男性と心が通じ合ったら、性的な関係に自然に移行するし、それは幸せの証じゃないかしら」

「……もう、ムリ」


 直は、吐息のようにつぶやいた。ところが、田中の耳には全く届いていなかった。

「ちょうどそういう年頃だものね。誰でも気まずい初体験を経験するものよ」

 

「私は、無性愛者なんです!」 


「落ち着きましょう日向さん。無性愛者って、恋愛をしないってことかしら?」

「いいえ。恋愛感情みたいなのはあります」

「恋愛感情があるのに、性的なコミュニケーションはしたくないの?」

「そうです!」

「矛盾して聞こえるわ。それじゃぁ、どうやってお互いに愛情表現をするのかしら?」

 

 直は、田中をにらみつけると、質問を質問で返した。


「先生は、キスやセックスでしか愛情表現ができないんですか?」 


 すると喜怒哀楽がない表情で田中はだまりこんだ。そのわざとらしい沈黙が直を萎縮させた。


 直は、立ち上がって荷物を取った。頭を下げてから、「せっかく、お時間をとってくださったのに、すみません。もう大丈夫です。失礼します」と告げた。


 そそくさと出て行こうとする直に、田中は「待って」と呼びとめる。

 ドアノブに手をかけていた直は振りかえった。


「また、いつでも話をきかせてね。先生、相談にのるからね」 


 もう二度と来ません。と心の中で返す。直は、軽く会釈して退出した。廊下に出ると、空気がひんやりして呼吸が楽になった。

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