第7話

 そのとき、数メートル離れたところから小さな笑い声がした。それは、ずっと傍観していた丸汐だ。彼は、こらえきれないという感じでクスクス笑いながら、ティッシュボックスを直へ差し出した。

「すばらしいよ、夜部くん。しっかり爪痕を残してきたんですね」

 柔らかい物腰で話をする丸汐は、なにやら怪しい言及をする。

「実習。やってよかったじゃないですか。君がここまでするのも珍しいと思いましたけど。まぁ、楽しかったようでなによりです」

「全然よくないです。やっぱりほかの学校にすればよかった。あそこは、最悪の実習先ですよ」 

 真は丸汐にいい返すと、ティッシュで鼻をかんでいた直に声をかけた。

「ねぇ、君。頼むから先生はやめて」

「そーだよ。真でいいよ!」

「雅がいうな」

「直ちゃん、つらかったね。でもね病気とかいうの、ほんと気にすることはないの。直ちゃんは病気じゃないから」

「……でも、男子たちはエフ・エスなんとかって病気だって」

「あーもう、サイッテー! ぶっ飛ばす」と雅は目元をつりあげた。

「いっとくけど、エフ・エス・ディーは女性性機能障害のことで、男でいうところのイーディー」と真は冷静な口調で説明する。

「え、イーディーって?」

「勃たないってことだよ」 

 真の即答に、直は唖然とした。

「無性愛であるということは、医学的にも心理的にも病気じゃない。日本の精神医療で使われてるマニュアルにも、『本人が無性愛であると自認している場合、性機能障害の診断はくださない』と記述されてる」


「まぁ、そこは医療従事者しだいですけどね。無性愛に無理解だったり協力的じゃない医療者もいますし。彼らは、無性愛の存在を認めたがらない。ねぇ、夜部くん?」 

 そういった丸汐を一瞥して、真は直をじろりとにらんだ。

「そのガキどものリテラシーの貧困さには反吐へどが出そうだよ。よくもそんな話を聞かせたね」

「うーん。真の不機嫌はおいといて。私も、シコるとか下品ないいかたしてヘラヘラしてる男子だいっきらい」と雅はこぶしを握っている。そして彼女は続けた。

「人間はね、自慰を拒絶できないのよ。無性愛者のひとだってやるよ? だって生理現象だから。卑猥な行為じゃないのにね。直ちゃんもセルフプレジャーすきでしょ?」

「雅、そのへんにしときなよ」

「え、セルフプレジャーってなに?」

「マスターベーションのこと。私、マスターベーション大好き!!!」

「白石くん。直ちゃんがびっくりして、あんぐりしてますよ」

「えへへ。ごめんなさーい」

「つうか先生、直ちゃんって」と真は口元がひきつっている。


「あのちょっと……さっきから言ってることが。なんなのここ? なんなんですか、あなたたち」 

 直は、目の前の三人にそういった。答えたのは雅だった。

 

「私も真も性的少数者の研究をしてるんだよ。あ、丸汐先生は専門家。というか教授。ここは一応、先生のオフィスなんだけど。なんていうか、保健室みたいになっちゃってますよね」

「あぁ、保健室ですか。なるほど、保健室ねぇ」

 納得しているのかしていないのか、そもそもどうでもいいよ、という様子で優しく返した丸汐。

 

「私はここの院生だよ。真は四年だけど、もうほぼ院への内部進学きまってるもんね」

「じゃあ、雅さんのほうが年上なんですか?」

「ううん、うちらタメだよね。真は、一年留年してるからぁ〜」

「君さ。主観で人の年齢を推しはかるのやめたほうがいいよ」と真はいった。

「ごめんなさい……。あの、それでさっきの、性的少数者の研究ってLGBTQのことですか?」 

「そうそう。ジェンダー論とかクィアセオリとか。研究の業界でも、まだ認知されてない性的アイデンティや指向が世界にはたっくさんあるんだよ〜」

「あの。無性愛も、LGBTQの仲間ですか?」 

 すると真が会話に割って入った。

「LGBTQやクィアの集団のなかにも、無性愛を奇妙だと考えて受け入れない者がいる。つまり、性的少数者のコミュニティ内ですら、無性愛者はその存在を否定されたり無視されることがあるんだ」 

 淡々とのべる真は、いつのまにソファーにもたれている。ややだらしない姿勢になっていた。

「あと君、気になったんだけど。性的指向と恋愛の指向は、分けて考えるべきだと思うよ」

「え、恋愛の指向って?」

「ロマンティック・オリエンテーションっていうんだよ。ほとんどの無性愛者は、セクシュアル・オリエンテーションと区別してる。性的指向と恋愛的指向を分けて考えることをスプリット・アトラクション・モデルっていうんだ」


「えっと。一度に一個ずつ説明してほしいんですけど……」 

 直は収拾がつかない様子で目が泳いでいる。


「あのね、直ちゃん。無性愛者は、『性的に関わりたい感情も恋愛感情も、どっちももたない』ってタイプと、『性的には惹かれないけど恋愛感情は抱くよ』ってタイプと分けて考えられるんだよ」

「まぁ、グレイのひとたちもいるよ」と真が喚起した。

「グレイ。中間的なひとたちってことですか?」

「無性愛スペクトラム。たとえば、グレイセクシュアルは、平均的なひとよりも性的なことに関心がなくて、性行為にも魅力を感じない。デミセクシュアルは、相手との親密さによって性的な行為をすることがある。彼らはそれでも無性愛だよ。スペクトラムの領域は広範囲かつかなり複雑」と真は補足を続ける。

「それから『無性愛者は、恋愛感情を持たない』と決めつけるのは誤解。無性愛者がデフォルトでアロマンティックになるわけじゃない」

「アロマンティックってなに?」

「他者に恋愛感情をいだかないひとのことだよ」

「恋愛しないってこと?」

「そう。でも無性愛者のなかには、ホモの無性愛者もバイの無性愛者もいる。もちろんヘテロも」

「へてろ?」

「ヘテロの無性愛者は、異性に恋愛感情をいだくけど、性的なコミュニケーションは望まない」

「それって。好きになったひとが無性愛の人じゃなかったらどうなるの? 付き合って、その先、性的な関係になれなかったら。相手はがっかりして、別れたいと思っちゃうかもしれないよね……って、それ。私のことだよね」

 直はうつむいた。

 みかねた雅が手をたたいた。

「ねぇ、直ちゃん! うちの大学受験しなよ。そんで丸汐研においで。ね、先生!」

「え? あぁ、そうですね」と適当な声だけで答えた。丸汐はパソコンでなにかに夢中である。時折、ふふふと肩をゆすって、ぶきみなすす笑い声が聞こえた。

 

「僕、もうそろそろ行かないといけないんで、失礼するよ。じゃぁね、直さん」 

 下の名前でよばれた当人は、肩を持ち上げた。真はソファーから離れて黒いリュックの中へ書籍をしまっている。

「あの。何曜日に大学。来てるの……」

「それを知ってどうするの?」

「また、話をしにきたらだめかなって……」

「だめだ。そんな時間はないよ」

「いいよーん。歓迎歓迎」

「おい、雅!」

「ここは真の部屋じゃありませーん」

「君の部屋でもないよ!」

「じゃぁ、丸汐先生にきいてみよう。直ちゃんが、また話しにきたいそうでーす。いいですかー?」

「えぇ。オフィスアワーの範囲でしたらいつでもどうぞ」

「先生、前言撤回して。はやく!」

「夜部君。研究者を目指すのでしたら、専門家として困っているひとの話をきくのも大事な仕事のひとつですよ。いろいろ教えてあげたらいいですよ」


「あのう、すみません」と直は会話に立ち入った。


「今朝、友達からいわれたんです。私が普通の恋をしないってわかってたら相談にのれたのにって。私は、普通の恋ってどういう意味なんだろうって悩みました。でもここに来て少しだけ気持ちが軽くなりました。だから、ありがとう。えっと、……真さん」

「無理して敬語使われると逆に腹立つんだよ。そもそも、君に礼をいわれる筋合いはないんだけど」

 真はあいかわらず仏頂面のままである。いつまでも冷たくあしらわれる直はがっかりした。すると頭上からまた声が舞いおりてきた。

「ひとついいこと教えてあげるよ。『常識とは、十八歳までに身につけた偏見の寄せ集めのことだ』」 

 その文言が、かのアインシュタインの名言だということを直は知るよしもない。

「大多数の人間が同じ主張をしているからといって、それが正しいとは限らない。大衆にとっての普通が自分にとっては普通じゃないことはある。そしてそれは、罪でもおかしいことでもない」

「それでも、あなたはおかしいって攻撃されたらどうするの?」

「闘うんだよ」

「闘うってどうやって?」

「変わらないことだよ。逃げてもいい。隠れてもいい。だけど、まわりからなにをいわれても自分を変えないことだよ。どんなひとにも等しく、自分が自分自身であり続けようとする権利があるんだ。それを守ることが闘うことだと僕は思うよ」

「かぁっこーいーい」 

 雅がおちょくると真はぎろりと目で刺した。そのまま颯爽と退出していく。ぱたんとドアが閉まった。

「バイバ〜イ、また金曜日。あっ、あと月曜日と水曜日にねー♪」 

 遅ればせながら雅はそういった。直をちらみして目を細める。

「あの。丸汐先生」と直はデスクトップの液晶を凝視する丸汐の注意を引いた。彼は、「はい、なんでしょう」と声だけで答える。

「また、金曜か、月曜か、水曜にここへ来てもいいですか?」

「えぇ、かまいませんよ。私が不在のこともありますが。まぁ、誰かしらいるでしょう」

「ここは、先生の部屋なんですよね?」

「えぇ」

「教授の先生の部屋って、こんなゆるーいかんじでいいんですか?」 


 すると丸汐はようやく回転式のいすを半周させた。彼は長い足を組んだ。


「ゆるーい。というと?」

 教授の真顔に、思わず直は背筋が伸びた。

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