第3話
「まさか。というと?」
「……友達からきいてたイメージとすごく違ったので」
「あぁ、それって。直接会って話したこともない人間を無意識なバイアスでこんなひとって決めつけること?」
「……ごめんなさい。先生のいう通りです。私、自分がされたら嫌なことを簡単にひとにしてしまいました。今、ものすっごい反省してます……」
直がそういうと、彼は下をむいて控えめに笑った。
「どうして笑うんですか。怒りましたよね?」
「別に怒ってないよ。むしろ関心してる。君は、この二週間で会った学生の中でもっとも素直な生徒だよ」
「それって、ほめてるんじゃなくて、バカにしてませんか」
「
「え?」
「真実の真とかいてマコトね」
「まこと……私、日向直です。三年三組」
「あー、ほら僕ずっと二学年にいたから。それで日向さん。さっきの話なんだけど、君は彼と別れる気があるの?」
「……でも音也は悪くないから。私の問題で」
「僕は、君の気持ちを訊いてるんだけど」
真は直に視線をぶつけた。
眼鏡の奥にある彼の瞳孔に吸いこまれそうだ——。そう直は思った。ほんの数秒だけ、彼女は彼の存在以外はなにも感じることができなくなって、彼の瞳をもっと近くで見たいと渇望した。なぜだろうか。もっとこの人のことが知りたい。気になってたまらない、と思ってしまう。直は時が止まって特別な瞬間の中にいた。
「……ねぇ先生。時間まだある? お願いがあるの」
「え? あぁ……ていゆうか、なんで急にタメ口なの?」
真が腕時計を見ると同時に、直はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。
「おねがい。一緒にいて。ひとりだとダメんなるかもしれないから」
「え、ちょっと。日向さん?」
真が眉を高く上げると、彼女はいきなり電話をかけた。
「もしもし、いまいい? ……話があるの」
直は、うつむき加減で通話している。
「……あのね。私、もう音也と付き合えない。別れたいの……本当はずっと前からいおうとしてた」
「……うん。そうだよ。……うん、わかった。こっちこそごめんね。あのさ、いままでありがとう」
液晶をタップして通話を終えると、直は視線をあげた。
真は目を丸くさせている。「まさか。君、すごいね」といった。
「できちゃった」
「おめでとう。気分は?」
「すっきりした。でも……」といいかけると、直は唇をかんだ。
「私は、最低なことした。音也を傷つけた」
直は、のどをつまらせたようにむせび泣きだした。
「傷つけられてたのは、君のほうじゃないか」
「私は、別に。傷つけられてたとは思ってなくて」
「辛かったんだろ。傷つくことに慣れないほうがいいよ。日向さん、彼とキスしてる間ずっと我慢してたでしょ」
「我慢って?」
「スカートのすそ。握ってたじゃん」と真はぽつりといった。
「いつから見てたの。ずっと見てたんですか?」
「ひとをのぞき魔みたいにいうなよ。通路の角を普通に曲がったら、君らがキスしてたんじゃないか。でも君が、同意なしにされてるってことは、見たらすぐにわかったよ」
「もしかして、わざと荷物を落としたの?」
「不快で見てられなかっただけだよ」
「夜部先生もキスとか性的なこと嫌ですか」
「あぁ。さっきのは見るにたえない光景だったよ。僕の場合、基本的に好き嫌いの問題じゃないんだ。ただ望まないし、関心がないというだけ。別にそれで僕の人生に支障はないし、なにも困ってないし」
「……私も。先生と同じこと思うよ。初めてです、この気持ちをわかってくれたひと。すごく嬉しい」
すると、真は直を一瞥して一言そえた。
「ひとつ、いっておきたいことがあるんだけど」
「はい」
「君が君自身をどう定義しようが君の自由だけど、無性愛だとは人前で口にしないほうがいいよ」
「なんでですか」
「キスが好きとか嫌いとか。性欲があるとかないとか。わざわざ口にする人間はいない。そういう感情があるのは正常な人間の本能だと誰もが疑わないからだ。もしあえて口にするなら奇妙に思われる。心身にどこか問題があるのかとかね」
「そうかな。そういう、なんていうか、下心とか、いやらしいことは考えないってことでしょ? 逆にみんなは、こわがったりしないと思いますけど……」
「君は、まわりがそんな柔軟な思考をもてると本気で思っているの?」
「どういう意味……」
「さっきもいったけど。『性的なことに関心がない』とかいえばおかしな奴だと思われる。最悪いじめられるかもよ? そもそも、何をいわれてるのか理解できない人のほうが多いんだ」
あの、と真の話に耳をかたむけていた直は口をはさんだ。
「人にいわないほうがいいなら、どうして先生は、私に教えてくれたんですか?」
真はしばらく思案顔を浮かべてから答えた。
「なぜなら僕たちは今日限りで二度と会うことはない。今後、一切関わることがないからだよ」
「今日限りで。今後一切関わらない?」と直は察しが悪い。
「僕、今日で実習おわり。来週からもうこないから」
はっ、と直は気がつかされた。
「待ってよ。私、まだ話したいことがあるんですけど。訊きたいことも!」
「それはそれは。残念でした」と真は軽く鼻であしらった。
「ねぇ、待っててば。私が先生の秘密をみんなにバラすかもしれないって思わなかったんですか」
「あぁ、思わない。君には、それはできないよ」
「どうして。なんでそんな自信があるの?」
「君自身のことだからさ」とばっさり答えた。そして立ち上がる。
「さぁ、もう帰るかな。君も落ち着いてよかったね」
「君じゃない!」
「え?」
「なお。直です。素直のなお」
「あぁ、直さんね。ひとりで大丈夫?」
「……はい。ありがとうございました」
「じゃあ、気をつけてね」
真は教室を出ていった。
「やべ……まこと」
夕陽に染まる教室の片隅で、そっと彼の名前をつぶやいた。
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