第2話

「ねぇ、君。本当に保健室いかなくていいの?」

 空き教室で、直は死んだ魚のような目をしていた。ミネラルウォーターのペットボトルを眺めている。

「相当つらそうだったけど。なんなら養護の先生よんでくるよ」

「……大丈夫です。もう。慣れたから」

「慣れた。吐き気のこと?」

 直は「そうだ」と首をたてに動かした。

「君は、なぜ吐き気をもよおすの?」

「……わかりません。キスをされるといつも気分が悪くなる」

「つまり、君はキスをしたくないの?」

「……わかりません」

「自分のことだろ。したいか、したくないか。答えはシンプルだ」

「じゃぁ、したくない」

「つまり、君はキスをされるのが嫌いで、されるとあまりの嫌悪感から健康を害してしまうと。そのことに慣れてるってこと?」

 気力の抜けた目元で、プリズムのように光るペットボトルのラベルを見つめながら、直は「そうです」とうなずいた。

「慣れるんじゃないよ。そんなことに」

 その言い方はドライだった。直は視線を持ちあげた。

「彼のことが好きじゃないの? 君たちは、付き合ってるんだろ」

「好き……のはずなのに」

「はずなのに?」

「一年の文化祭で知りあって。それから話しかけられることが増えて。告白されたから付き合ったんです。私は、ただ純粋に一緒にいると楽しいって思っただけ。それ以上を望んでいなかったのに」

「あそう。純粋ねぇ……」

「ある日突然キスされた。それから、何度も。……もうつかれた。私、病気なんです。おかしいんです」

 直が弱々しくいうと、離れて座るその人は、顔をむけて「病気って?」と訊いた。

「キスだけじゃない。抱かれたり、手を強く握られるのもだめ。本当は体に触られるのが嫌って思う」

「それだけで病気というのは、おおげさじゃないかな。ちなみに君さっき、自分から僕の手を握ってきたじゃないか」

「自分からは触れるんです。なのに変なんです」と疲弊しきった声を出した。


「映画とかドラマでキスしてるところとか、密着してたりするシーンを見てるだけでもしんどいんです。心臓発作みたいに、どきどきして気持ち悪くなる。友達との恋バナにもついていけない。音也と付き合うようになってから、変な幻覚も見るんです。この前もトイレで見たんです。私は、みんなにこのことをずっと隠してる」


「君、恋はするの?」 

「……恋? 恋ってなんですか。そんなこと訊かないでよ。……もう私には、なにもわからない。わからないの!」

「あのさあ、君……」

「恋するってキスすること? 抱きあうこと!? 恋人の家に行くこと? それでセックスするってこと!?」

「ねぇ、ちょっと落ち着いてくれる」


 息切れ寸前で直は我に返った。パニックになった彼女は、言葉を機関銃のように吐き捨てていた。

「やっぱり私は、壊れてるんだ……」と打ちひしがれて救いようのない顔をしている。

 

「君は病気じゃない。ただ性愛を持たないだけの普通の人間だよ」

「せ……性愛をもたないってなに?」

「『無性愛者』のこと」

「ムセイアイシャ?」

「そう。抱き合うとか。性行為するとか。この世には、そういう性的な関わり合いに興味がない人間もいる。もちろん健常者だよ」

「なんの話をしてるんですか」

「なんの話って。だから、君は性愛を持たないんじゃないかって。あくまで僕の私見だけど」

「ウソ。そんな人間この世にいるんですか」

「いるよ、ここに」

 彼の受け答えは、自然でためらいがなかった。

「つまりあなたは、その無性愛者なの?」

「そうだよ。君には僕が病人に見える?」

「みえない」

「君さ、彼と別れなさい」

 すると直の視線は重く床に落ちた。首を左右に振っている。

「なんで。弱みでも握られた?」

「違う。ただ私、付き合ったの初めてで。別れ方がわからない」

「別れ方がわからない? というかあのクソガキ、さっき『やべぇ先生』っていいやがったな」

「やべ……、まさか。あなた夜部先生ですか?」

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